6.市民相談窓口
役所の市民相談窓口。パイプ椅子の硬い座面に腰を下ろし、祥子は汗ばんだ手のひらで何度も書き直したルーズリーフのメモを強く握りしめていた。紙の端がしわくちゃに丸まり、鉛筆の黒ずみが皮膚に黒く移っている。空調の風が天井から吹き下ろし、蛍光灯の微かなジーというノイズが頭に響いていた。
相談受付票の記入欄。
「賃貸住宅の構造について」
最初はそう書いた。しかし、それでは何も伝わらない。「部屋の仕切りが可動式である」「部屋番号が不規則である」などと書いても、単なる建築の仕様で処理されるだけだ。
「部屋が消えている」
そう書きそうになり、思わずペンを止めた。自分でもまるで質の悪い都市伝説か、怪談話を持ち込んでいるように思えてならなかったからだ。結局、具体的な不審点を幾つか箇条書きにするにとどめた。
「三十二番の番号でお待ちの方、三番窓口へどうぞ」
合成音声のアナウンスが響く。
「どうぞ」
カウンターの向こうで、首から身分証を下げた四十代ほどの男性職員が顔を上げた。少し疲れた目元。デスクの端には、乾きかけた朱肉と使い古されたスタンプ台が置かれている。祥子はゆっくりと椅子に腰掛け、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。
天井と床に仕込まれたレールと可動壁。
飛ばされた不自然な部屋番号。
壁をスライドさせた隙間に残された、かつて別の誰かが暮らしていた古い花柄の壁紙。
そして、「部屋を残してある」と微笑んだ大家、立花富子の言葉。
話が進むにつれ、自分の声が上擦っていくのが分かった。常識的に考えれば、目の前の職員がお引き取りを願うか、精神的な不調を疑ってもおかしくない内容だ。
しかし、職員は黙って聞いていた。ノートにメモを取るでもなく、さりとて鼻で笑うでもない。ただ、肘をデスクについたまま、静かに祥子の話に耳を傾けていた。
話し終わると、静寂が二人の間に落ちた。祥子は息を整えながら、相手の反応を待つ。
職員は小さく息を吐いた。深く、あきらめに似た溜息だった。
「ああ……」
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、低い声で呟く。
「立花さんのところですね」
祥子の背筋が跳ね上がった。
「ご存じなんですか?」
職員は答えず、無言で立ち上がった。奥の保管庫へと向かい、数分後、黄色く変色した分厚いフラットファイルを手にして戻ってきた。表紙には手書きのラベルが貼られている。ファイルを開くと、使い込まれた公文書特有の古い紙とインクの匂いが立ち上った。改修の届出、建築確認の控え、そしてびっしりと書き込まれた過去の相談記録。
祥子は目を見開いた。
「……何件もあるんですか?」
職員は苦笑いを浮かべ、ページの端をめくった。
「数年に一度くらいですね。最初は皆さん、長谷部さんと同じようなお顔でここに来られます。『壁の構造がおかしい』『部屋番号の並びが不自然だ』『先日まで隣にいた老人の部屋番号が、一夜にして消えてしまったように見える』と」
祥子は身を乗り出した。
「じゃあ、なんで止めないんですか? 明らかに異常じゃないですか! 建築基準法とか、行政指導とか、何か手立てはあるはずでしょう?」
職員は少し困ったように眉をひそめ、ファイルを祥子から見えやすい角度に傾けた。
「止めるには、明確な法的手続きと『理由』が必要なんです。例えば、構造耐力上危険な建築物であるとか、無届の違法改造で避難経路が塞がれているとかであれば、しかるべき是正命令を出せます」
職員の指先が、ファイル内の図面を指し示す。
「でも……これを見てください。確認申請上の建築変更届けは、毎回書類で提出され、受理されています。用途変更の手続きも漏れがない。居住者が実際に生活している空間については、採光も換気も、すべて建築基準法の基準をクリアしているんです」
祥子は絶句した。言葉が喉につかえて出てこない。
職員は窓の外へ視線を向けた。遠くで街宣車か何かのスピーカー音がかすかに響いている。
「もちろん、私たち行政の人間だって、これが普通の賃貸経営だとは思っていませんよ。……ただ、現実問題としてね」
職員はファイルをもう一枚めくった。そこには、過去から現在に至るまでの入居者名簿の写しが閉じられていた。
「立花さんのアパートに身を寄せている人たちは、あの場所を心底必要としているんです」
並んだ文字を目で追う。身元保証人の欄が空白の高齢者。単身の基礎生活受給者。生活困窮者。身寄りがなく、一般の不動産屋では門前払いを食らうような人々。
「もし、私たちが行政指導を行ってあの建物を差し押さえたり、改修命令を出して一時閉鎖させたりしたらどうなると思いますか?」
職員は祥子の目をじっと見つめた。問いかけには答えず、自ら言葉を継ぐ。
「その人たちの『次の住まい』を、私たちがすぐに用意できるなら話は簡単なんです。でも、現状の公的支援の枠組みでは……とてもそこまでカバーしきれない」
言葉の後ろ半分は、静かな空気に溶けて消えた。
祥子は机の上のファイルに落とされた影を見つめた。そこには、自分より前にこの窓口を訪れた相談者たちの記録があった。行政の不条理に怒りを露わにしていた者、怪異を恐れて震えていた者。
そして、おそらく自分と同じように「正しさ」を信じてここへ駆け込んできた者。しかし、彼らがその後どうなったのか、この部屋を引き払ったのか、それとも残ったのか、その結末はどこにも記載されていなかった。
職員は静かな、しかし重みのある声で言った。
「立花さんがやっていることが、法や倫理の観点から正解だとは私たちは言いません。ただ、あの場所が社会の零れ落ちそうな人たちを受け入れてきたセーフティネットになっているのも、動かせない事実なんです。そこを単純に切り離して正論だけで叩くのは、現実として非常に難しいんですよ」




