5.法の隙間
富子が去った後の部屋には、静寂だけが重く残されていた。ドアが閉まる金属音が遠のいた後も、祥子は足の裏を床に張り付けたまま、しばらくの間、西側の壁の前から動くことができなかった。
コーキング剤のツンとした刺激臭が、わずかに鼻をつく。さっきまで富子の手によって開かれ、その奥にある闇を覗かせていた壁。今は何の変哲もない、ただの真っ白な壁面としてそこに佇んでいる。しかし、祥子の目の裏には、あの数センチの隙間に押し込められていた薄黄色い花柄の壁紙が、焼き付いて離れなかった。
息を吐き出し、祥子は机へ向かった。鞄から引っ張り出したのは、授業で使っている分厚いA3の設計用スケッチブックと、使い慣れた芯の硬いシャーペンだった。ページをめくる紙の音が、静かな部屋に高く響く。指先が微かに震えていた。祥子は無意識のうちに、このアパートの概略的な平面図を描き始めていた。
「……二重壁」
掠れた独り言が漏れる。
これは、建築物として一般的な間仕切りなどではない。壁パネルと構造体の間に、意図的な中空の空間が存在している。さらに天井に埋め込まれたあの薄い金属レールと、床の接合金具。つまりこの建物は、設計の段階から、あるいは大掛かりな改装の段階から、壁を水平移動させることを前提として構築されている。
祥子はシャーペンの背で額を打ちながら、これまでに収集した異質な断片をノートの余白へ次々と書き連ねていった。
不規則に飛んでいる部屋番号。
内見した際に確認した、全室共通の標準的な間取り。
西側の壁だけが異常に新しいという事実。
その壁の裏側に眠る、時代遅れの古いクロス。
山岡老人が語った「誰かが亡くなると壁が動く」という証言。
そして、富子が何気なく口にした言葉。
「そこが今の203号室と204号室ですもの」
「……今の?」
その一言に、シャーペンの芯がひっかかり、紙面に小さな黒い点を残した。
祥子はスケッチブックの新しいページに、仮説の構造図を精密な線で描き出し始める。
【通常の配置】
202号室|203号室|204号室|205号室
例えば、203号室の住人が室内で息を引き取る。
通常の不動産取引であれば、その部屋は「心理的瑕疵あり」として事故物件の扱いを受け、家賃の暴落や告知義務を負うことになる。
だが、このアパートで行われている操作は全く異なる。
まず、遺体が運び出された後、残された荷物が完全に撤去される。次に大家は工具を手に取り、可動壁の固定を解除する。203号室と隣接する部屋の境界を解放し、一瞬だけ内部の空間を繋ぎ合わせる。ちょっとだけ広くなった新しい部屋が完成する。
そして、天井のレールに沿って壁パネルをスライドさせる。部屋が分割され、住居としての規定の緩い「元203号室の設備スペース」と真新しい部屋……例えば「206号室」といった新しい区画ができあがり、行政へ登記変更の届け出を出す。
亡くなった人間が暮らしていた「203号室」という空間の幅を、数センチという極限まで圧縮していく。削り取られた容積の分だけ隣接する206号室が拡張され、再び行政へ登記変更の届け出を出す。
告知義務のガイドラインとされる一定の年月が経過し、法的な履歴が事実上リセットされた段階で、、何事もなかったかのようにかつての「203号」の札をドアに掲げて再び登録し直してもいい。
祥子はカリカリと音を立てていたペンを止め、息を呑んだ。
「……部屋を作り直してる」
いや、違う。言葉を選び直す。
部屋を「消して」いるのだ。
しかし、完全に破壊して消滅させているわけではない。
壁を極限まで押し縮めた結果として残る、わずか数センチの隙間。そこはもう人が足を踏み入れることも、家具を置くことも不可能な、居室としては死んだ空間だ。ただ、かつて誰かがそこで呼吸し、壁紙を選び、日常を営んでいたという痕跡だけが、厚さ数センチの「設備スペース」という名目の闇の中に、そのままの姿で封印される。
祥子は膝の上に置いたスマホを取り出し、検索窓に指を滑らせた。
「宅地建物取引業」「事故物件」「心理的瑕疵」「告知義務」「ガイドライン」
画面から発せられる青白い光が、暗くなりかけた室内に祥子の顔を浮かび上がらせる。画面スクロールを続けるにつれ、胸の奥から押し寄せるような吐き気が込み上げてきた。
法律の解釈、過去の判例、国土交通省の指針。それらの隙間を、富子のやっている行為はグレーゾーンで潜っていた。富子の言っていることは、形式上の法理においては何一つ間違っていない。だが、それが倫理的に正しいとはどうしても思えなかった。
「法律の隙間を……こんな方法で……」
祥子はスマホを伏せ、薄暗い部屋の中でぽつりと呟いた。窓の外では、夜の始まりを告げる街灯がぽつんと灯り始めていた。




