4.壁の内側
その数日後。夕空が茜色から鉛色へと沈みかけていく時刻。
突如として、玄関のピンポンという乾いたチャイムが廊下に鳴り響いた。ドアを開けると、そこには花柄のエプロンをかけた大家の立花富子が立っていた。
「はい、これ。作りすぎちゃったから、よかったら食べてね」
渡されたのは、タッパーウェアの容器。手のひら越しに伝わってくるのは、炊きたての出汁と根菜の温かな熱だ。透明なプラスチック越しに、煮崩れた大根と甘辛く煮付けられた鶏肉がのぞいている。
「一人暮らしだと、なかなか野菜なんて買わないし、煮物なんて作らないでしょう? 栄養偏っちゃダメよ」
「あ、ありがとうございます。助かります」
「いいのよ。若い子にお腹いっぱい食べてもらうのが一番なんだから。そうそう、お醤油やお味噌が切れたら、いつでも階下に借りに来なさいね。遠慮はいらないわよ」
富子の笑顔には一片の陰りもなく、その親密さは押し付けがましさを感じさせない。祥子は胸の奥が少しだけ解れるのを感じた。だが、山岡から聞かされた言葉と、あの異質な壁の手触りが頭を離れない。
「……あの、立花さん」
「なぁに?」
「西側の壁なんですが……」
富子は首を傾げ、丸いメガネの奥で目を瞬かせた。
「少しぐらつくんです。手を当てて押すと、たわむというか……。あと、床との境目に少し隙間があって、紙が入ってしまうんです」
普通なら欠陥住宅だと問い詰められて動揺する場面だ。しかし富子は、困ったように目尻を下げ、ぽんと自分の頬を叩いた。
「あらぁ、固定が甘かったかしら。隙間も塞ぎ忘れちゃったのねぇ。ごめんなさいね」
祥子は呆気にとられる。
「……そんな簡単な話なんですか?」
「古い建物だからねぇ、湿気で木が痩せたり太ったりするのよ。敷地にポツンと建ってる物置倉庫の方に、確かコーキング材と工具がまだあったはずだわ。後で見ておくわね」
祥子は頭を下げつつも、胸のくすぶりは消えなかった。大家の反応があまりにも自然すぎる。まるで「壁がスライドする構造」そのものを隠そうとするのではなく、「ネジ締めの不具合」という日常的な調整不良として処理しているかのようだった。
富子は帰り際、廊下の手すりに手を掛け、何気なく振り向いた。
「長谷部さん」
「はい?」
「この部屋、気に入ってくれるといいんだけどねぇ。前の方も、すごく長期間大事に住んでくれていた部屋だから」
「……前の方?」
「ええ」
富子は柔らかく微笑んだ。
「とても丁寧に、大事に使われていたのよ」
翌日の午後、富子はズッシリと重そうなスチール製の工具箱を下げてやってきた。蓋を開けると、油と金属の混ざった独特の匂いが立ち上る。
「ごめんなさいねぇ、お邪魔するわね。こういうところ、古くなると少しずつ金具がズレてくるのよ」
祥子が固唾をのんで見守る中、富子は迷いのない足取りで西側の壁の前に屈み込んだ。そして、皺の刻まれた指先で白い壁紙を愛おしむようになぞる。
「……ここね」
視線にも動作にも一切の迷いがない。壁紙の接合目でもない、祥子の目にはただの平坦な面にしか見えない場所。しかし富子は、そこに目に見えない境界が存在していることを正確に把握していた。
工具箱から取り出したカッターの刃を滑らせる。スーッという乾いた切断音とともに、一直線の切れ込みが入る。実に手慣れた動きだった。隙間にマイナスドライバーの先端を差し込み、梃子の原理で軽く力を込める。
カチ、ギギギ……と、密着していた構造体が剥がれる鈍い音が響いた。富子が力を込めると、壁パネルの一部が蝶番でも仕込まれているかのように、外側へ向けて静かに開いた。
その開いた壁の奥にあったのは、建物の柱や断熱材などの空洞ではなかった。
わずか数センチの、息が詰まるような狭い隙間。
そしてその向こう側に張り付いていたのは、古い壁紙だった。現在の部屋の無機質な白とは異なる、経年変化で薄黄色く変色した壁紙。そこには、うっすらと小ぶりな花柄の模様が印刷されていた。
祥子は息を呑み、喉を詰まらせた。
「……壁紙?」
「え?」
「いや……だって、壁の内側なのに、なんで壁紙が張り直してあるんですか」
富子は不思議そうに祥子を見上げた。
「そうねぇ」
まるで「空が青いのはなぜか」と問われた時のように、当然の事実として受け止めている風だった。
富子は懐中電灯で奥を照らし、固定金具のボルトを確認する。
「少し緩んでるわね。これじゃあ押せば動いちゃうわ」
ラチェットレンチを取り出し、狭い隙間に手を差し込んで回す。ガチ、ガチ、という硬質な金属音が部屋に響いた。ボルトを締め直すと、富子は開いていた壁面を滑らかに元へ戻した。さらにチューブ状のコーキング剤を手に取り、床と壁の隙間へ白い樹脂を均一な太さで絞り出していく。
指先でツッと表面を撫でて整え、最後に切り開いた壁紙の端を専用のローラーで圧着した。
「はい」
富子は膝を叩いて立ち上がった。エプロンのチリを払う。
「もう大丈夫。これで押してもグラグラしないし、隙間もきれいに埋まったからね」
祥子は呆然と壁を見つめた。さっきまでパカリと開いていた壁は、何事もなかったかのように隙間のない完璧な「部屋の境界」へと戻っている。しかし、祥子の脳裏には先ほど視界に飛び込んできた光景が焼き付いて離れなかった。
壁の向こうに隠されていた、もう一枚の、かつて誰かの生活を彩っていたはずの花柄の壁紙。
「あの……」
祥子は震える声を絞り出した。
「中の……あの壁の裏にあった壁紙は、一体なんですか?」
富子は一瞬だけきょとんとして、丸い眼鏡の奥の目を丸くした。
「中?」
「はい。壁を開けた、その奥にあった空間の壁紙です」
「ああ」
富子はふっと破顔した。
「だって、そこが今の203号室と204号室ですもの」
祥子の全身の血が引いていく感覚があった。
「……え?」
富子は祥子の凍りついた表情にも気づかない様子で、ごく穏やかな口調で言葉を重ねた。
「この建物、少し変わった造りになっているでしょう? でもねぇ、部屋はちゃんと残してあるのよ。消したり捨てたりしたら、かわいそうでしょう?」
祥子の頭の中で、意味が結びつかない。
「部屋が……残っている?」
富子は深く頷いた。
「誰かが亡くなるとねぇ……それが老衰でも、持病でも、どんな不慮のことでも。今の法律だと『心理的瑕疵』になっちゃうでしょう?」




