3.壁の仕掛け
祥子は一度息を吐き出し、部屋の中を静かに見回した。契約した日は家賃の安さと、新築のように白く張り替えられた内装ばかりに目を奪われていた。だが、一度思考のタガが外れると、日常の景色の中に埋もれていた小さな歪みが、鋭い破片となって次々と視界に刺さってきた。
眩しすぎる西側の壁紙。
不自然に影が落ちる天井の隅。
そして、部屋の四隅に走る接合部の不揃いな厚み。
首を支える筋肉を張らせ、じっと天井を見上げる。サークル状の蛍光灯が放つ青白い光の届かない場所、部屋の中央でも照明の台座周辺でもない位置に、壁と正確に平行を保った一本の細い影が走っていた。カッターで薄く切り込みを入れ、そこだけ別のクロスを慎重に貼り直したかのような目立たない痕跡。
「……何これ」
呟きは部屋の湿った空気に溶けて消える。祥子は部屋の隅に積んであった頑丈な引っ越し用のダンボール箱を引き寄せ、二箱重ねてその上に慎重に足を乗せた。箱の角がミリミリと不吉な音を立てて潰れる。
デザイン学校の基礎実習で、課題の建築模型を組み上げる際に講師から耳にタコができるほど叩き込まれた鉄則があった。違和感があるなら、目だけで判断せずにまず触る。構造の真実は、常に素材の質感と接合部の手触りに宿る。
爪を立てないよう注意しながら、指の腹で天井のクロスを滑らせた。
指先に伝わるのは、目視では捉えきれないわずかな段差。ほんの二ミリか三ミリ。しかし、一面的に平坦であるはずの石膏ボードの上に、明らかに不自然な落差が存在していた。クロスの柔らかい弾力の下に、固く冷たい金属的な「感触」が隠れている。溝だ。滑らかな直線を描いて部屋を縦断する、ごく細いレールのような金属構造。
翌日。夏の重い雲が垂れ込め、廊下のコンクリートが湿気で黒ずんでいた。祥子は耐えきれなくなり、隣の202号室の扉を叩いた。
「すみません、山岡さん。少し聞きたいことがあるんですけど」
開いたドアの隙間から、昨日と同じ湿布と煙草の匂いが漂い出る。山岡老人は黄色みがかった顔を少し傾け、首をすくめた。
「ん? どうしたね、長谷部さん。何か足りんものでもあったか。醤油なら少し分けられるが」
「いえ、そうじゃなくて……この部屋の壁って、少し変じゃありませんか?」
山岡の動きがぴたりと止まった。かすかに濁った瞳が祥子の顔をじっと見つめる。だが、そこに恐怖や狼狽の色はなかった。ごく自然に、天気の移り変わりを受け入れるような深い諦念をたたえた沈黙だった。
「ああ」
老人はゆっくりと息を吐き出し、深く刻まれた目尻のシワを寄せた。
「気付いたか」
祥子は無意識に呼吸を止め、胸の奥がキュッと収縮するのを感じた。
「やっぱり……何かあるんですか?」
山岡はかすかに背中を丸め、薄暗い廊下の先へ視線を投げた。誰かに聞かれては困るという警戒心からではない。遠い昔の出来事を、埃っぽいアルバムから一枚ずつ引き出すような、どこか遠い目だった。
「壁は動くんだよ」
「……動く?」
「可動式の壁だ。天井と床に車輪とレールが仕込んであってな。ごく小さな力で滑るようになっている」
祥子は開いた口が塞がらなかった。思考が追いつかず、指先が冷たくなっていく。
「そんなもの、普通のアパートに……」
「珍しいわな。建築基準法がどうのこうのと言われたらワシには分からんが、最初に見た時はワシもたまげたよ」
山岡はくっくっと乾いた声で笑った。喉の奥で痰が絡む音が響く。
「じゃあ、なんでそんなものを……何のために動かすんですか?」
老人は笑みを消し、少しの間を置いた。廊下を吹き抜ける生ぬるい風が、山岡の薄い白髪を揺らす。
「誰かが亡くなるとな」
低い、どこか湿り気を帯びた声だった。
「夜中にガラガラと、重い壁を動かす音が聞こえてくるんだよ」
祥子の背筋に、氷を直接押し当てられたような寒気が走った。首筋の産毛が逆立つ。
「……亡くなる?」
「そうだ」
「それって、事故とか……事件があったとか、そういう意味ですか?」
山岡は力無く首を振った。
「事故とか、そういう穏やかじゃない意味じゃない。ここは年寄りが多いからな。持病が悪化して病院から戻れず、そのままってこともある。……ただな、長谷部さん、勘違いするなよ」
「何がですか?」
「病院のベッドの上で亡くなった時じゃない」
祥子は弾かれたように顔を上げた。山岡のくすんだ黄色い肌が、廊下の薄暗闇の中で不気味に浮かび上がっている。
「え……?」
「ここで亡くなった時だ」
老人は、まるで明日のゴミ出しの分別ルールでも説明するかのような、淡々とした口調で続けた。
「病院で最期を迎えたなら、大家さんは壁を動かさん。この部屋で息を引き取って、この部屋で最期を迎えた。その時だけだ」
「……」
声が出なかった。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込む音すら大きく響きそうだった。
「でも……他の住人の人たちは、何も気にしないんですか? そんな、夜中に壁が動く音なんて聞こえたら……」
山岡老人は、本当に不思議そうな顔をして首を傾げた。
「何をだね?」
「何をって……壁を動かす音とか、人が亡くなった後のこととか……気味悪くないんですか?」
「ああ」
老人はあっさりと首を振った。
「慣れたんだろうな。ワシも最初は夜中に目が冴えて仕方がなかったが、今じゃあ『ああ、またどこかの部屋が狭くなったか』と思うくらいで、そのまま寝ちまう」
山岡に礼を言ったのかどうかすら記憶にないまま、祥子は自分の部屋に戻り、重い鉄のドアを閉めた。
カチャリと鍵がかかる金属音。
祥子は壁に背中を預け、ゆっくりと視線を巡らせた。真っ白な西側の壁。天井を走る微かな段差のライン。部屋の四隅。
昨日までただの「古いけれど綺麗に改装された部屋」に見えていた室内が、まるで巨大な精密機械の内部のように見えてくる。この建物全体が、住人の知らないところで呼吸し、形を変える気味の悪い「構造体」なのだ。
しかし、まだ決定的な謎が解けない。
なぜ、わざわざ壁を移動させる必要があるのか。
なぜ、病院ではなく「この部屋で」亡くなった時だけなのか。
そして、なぜ住人たちはその異様さを知っていながら、静かに受け入れているのか。
祥子は初めて、この部屋が相場を大きく下回る「あまりにも安すぎる家賃」で提示されていた本当の理由に、爪先が冷えるような恐怖を感じ始めていた。




