2.挨拶
引っ越し翌日の朝。昨夜吹き込んだ湿気がまだ部屋の隅に留まっているのか、空気はどこか肌にまとわりつくように重かった。祥子は市販のサランラップとジップロックの詰め合わせを手に取り、部屋のドアノブを回した。最近では近所への挨拶回りなど珍しいのかもしれない。しかし、幼い頃から母親に事あるごとに言い聞かされていた言葉が、頭の隅から離れなかった。
「一人暮らしを始めるなら、隣近所くらいは顔を覚えてもらいなさい。何かあった時に味方になってくれるのは、遠くの親戚より近くの他人なんだから」
都会での生活に対する言葉にならない孤立感が、祥子の背中を押し、素直にその言いつけを守らせた。
隣室のステンレス製のインターホンを押す。ジー、という固く掠れた機械音が廊下に響き、すぐに静寂が戻ってきた。数分が過ぎ、足音すら聞こえないまま、ゆっくりと塗料の剥げかけた金属ドアが開いた。
隙間から現れたのは、七十代半ばと思われる老人だった。白髪は手ぐしで整えられただけでボサボサと不揃いに立ち上がり、使い古されたグレーのカーディガンからは、長年染みついた湿布と煙草の混ざり合った匂いが漂ってくる。
曲がった背中のせいで、見上げるような視線。そして何より祥子の目を引いたのは、その肌の色だった。白光りする廊下の蛍光灯の下で、老人の顔色は土気色を通り越し、くすんだ黄色を帯びていた。
(……黄疸?)
数年前に病室の白いシーツの上で痩せ細っていった祖母の顔が、フラッシュバックのように脳裏をかすめた。あの時も、看護師が取り替える点滴の袋の脇で、祖母はこんな黄色い肌をして祥子の手を握っていたのだった。
「あの、引っ越してきた205号室の長谷部と申します。これ、ほんの気持ちですが……よろしくお願いします」
「ああ、ご丁寧に。わざわざすまんねぇ」
老人はかすれた声で言い、目尻にしわを寄せて穏やかに笑った。差し出された小さなポリ袋を、骨ばった黄色い指先が慎重に受け取る。
「若い人が来るのは久しぶりだ。この建物も、近頃はとんと静かになってね」
「そうなんですか? 家賃がお安いから、てっきり私みたいな学生さんばかりかと……」
「昔はそうだったんだがね。いつの間にか、ワシみたいな年寄りばかりが残っちまった。おっと、立ち話もなんだな。ワシは山岡というんだ。何か困ったことがあったら、いつでも言いなさい」
「ありがとうございます、山岡さん」
山岡は小さく頷き、ポリ袋のラップを物珍しそうになでた。
「これ、助かるよ。ラップなんて一人じゃなかなか買い足しに行かんでね。昨日の夜も、食べ残した煮物の蓋がなくて困っとったところだ」
「よかったです。どうぞ使ってください」
挨拶を終え、辞儀をして踵を返そうとした瞬間だった。完全に閉まりきる前のドアの隙間から、山岡の部屋の奥がチラリと見えた。
(……あれ?)
視線がほんの一瞬、奥の空間を切り取った。
間取りが、今朝まで自分が荷ほどきをしていた205号室と薄気味悪いほど一致していた。狭い踏み込みの玄関、そのすぐ脇にあるステンレスのミニキッチン、その向こうに見える一角の窓、そして壁の位置。まるで左右を反転させた鏡の中を覗き込んでいるような錯覚。
「同じ造りなんだな」
心の中でそう呟き、祥子は軽く息を吐いた。集合住宅なのだから、同じレイアウトが並んでいること自体は何の不思議もないはずだった。
湿った風が吹き抜ける外廊下へ出る。何気なく、山岡の部屋のドア脇に掲示された真鍮製の表札プレートへ目をやった。
202号室。
祥子は足を止め、吸いかけた息を飲み込んだ。
(……202?)
自分の部屋は205号室だ。隣同士の部屋であるはずなのに、番号が三つも飛んでいる。首をかしげながら、塗装の剥げた鉄製のの手すりに沿って廊下を進んだ。
山岡の部屋のさらに隣。アクリル板の表札には「206」と印字されている。
その先は「208」。
さらに逆の奥の突き当たりにあるドアには、「211」の文字。並びも数もおかしい。
(203、204、207、209、210……はどこにあるの?)
ホテルのように忌み数を避けて「4」や「9」を抜くのなら理解できる。しかし、ここは昭和の面影を残すしがない木造賃貸アパートだ。部屋番号をこれほど不規則に飛ばす管理上の理由が思い当たらない。
疑問を胸に抱えたまま、鍵を回して自分の205号室へ戻った。
部屋の中は、昼前の日差しが窓越しに届き、空気中のホコリが光の粒子となってゆっくりと舞っていた。祥子は靴を脱ぎ、吸い寄せられるように西側の壁の前へと歩み寄った。
日光の角度が変わったことで、昨夜は気づかなかった明らかな異質さが浮かび上がっていた。
部屋を囲む四面の壁。東、南、北の壁紙は、長年の日光と生活臭を吸い込んでうっすらと黄ばみ、角のあたりには小さなカビの跡や擦れが見られる。しかし、この西側の壁一面だけが、眩しいほどに真っ白だった。継ぎ目も寸分の狂いもなく処理され、まるで昨日張り替えたばかりであるかのように清廉に佇んでいる。
(……なんで、ここだけ?)
もし雨漏りやカビの修繕なら、壁全体か、せめて角から角までを均等にやり直すはずだ。なぜこの一面だけが、新築のような白さを誇っているのか。
祥子は息を殺し、そっと白い壁紙に素手を当てた。
指先から伝わるのは、壁固有の冷たさではなく、どこかすかしたような微かな体温。手のひらにぐっと体重をかけて押してみる。
静寂の中、かすかにサク、と乾いた構造材が擦れ合う音が響き、壁面が数ミリ奥へと沈み込んだ。手に戻ってくる鈍い押し返し。
普通のコンクリートや石膏ボードではあり得ないその感触に、祥子の背筋を冷たい汗が伝っていった。




