1.入居
ガラス窓の端に残った皮脂汚れが、夏の夕暮れの日差しを浴びて濁った虹色に光っていた。
長谷部祥子は、液晶画面の皮脂膜を擦るように指先を動かし、不動産屋の店先で足をとめる。画面のバックライトが、夕闇の迫る路地裏の湿った空気に青白く滲んでいた。家賃、立地、築年数。
フリックするたびに表示される数字は、何度見直してもこの街の相場から異様に浮いている。駅から徒歩圏内、デザイン学校まで乗り換えなしの電車一本。風呂とトイレは分離しており、南向きの窓からは隣家の柿の木越しに柔らかな光が入るという。
「……安すぎない?」
ガラス越しに店内のエアコンの冷気が漏れ出てくる。パイプ椅子の脚が床のクッションフロアに沈む小さな音とともに、スーツの膝にかすかなシワを寄せた担当者が、申し訳なさそうに眉を下げた。デスクの端には、乾ききったおしぼりの袋と、水滴でふやけた紙コップが置かれている。
「築年数が少し古いですからね。でも、管理はしっかりしていますよ。大家さんが自主管理されていて、掃除も修繕もこまめな方なんです。昨日も廊下の電球を変えてくださったばかりでね」
「事故物件とか……何かあったりしませんか。前に住んでた方が亡くなってるとか」
「気になさるのも無理はないです。でも、そういった告知事項は一切ありませんよ。契約書にも記載はありません。安心してください」
担当者はそう言いながら、灰皿の横にあった缶コーヒーのプルタブを静かに指で弾いた。カチャリと乾いた金属音が響く。
「最近の若い方は、こういう落ち着いた路地の物件を好まれることも多いんですよ。長谷部さん、お茶、冷たいので大丈夫でした?」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。学生さんは何かとお金がかかりますからね。うちの娘も今年から一人暮らしを始めてね、仕送りだけでもうアップアップですよ」
内見のために訪れたアパートの外壁は、モルタルに無数の細かい亀裂が走り、雨樋の継ぎ目からは茶青いサビが垂れていた。
しかし、鍵穴に真新しい鍵を差し込み、建具が軽くキシむ音とともにドアを開けると、立ち込めていたカビと古い木材の匂いが、漂白剤と新品の合成樹脂の香りに取って代わられた。
壁紙はわずかに黄ばみが見えたが、張り替えられて間も無く、クッションフロアの木目柄は足裏に吸い付くような適度な弾力を持っている。ステンレスのシンクは研磨剤で磨き上げられ、小さな水滴一つ落ちていない。
「普通にいい部屋じゃん」
祥子は呟く。足の裏から伝わる床の冷たさが、実家の自分の部屋にあった使い古されたカーペットの感触を遠ざけていく。デザイン学校に通うため、父親と真っ向から対立した日の夜のことが思い出された。茶碗を置くコトンという重い音、ハサミで紙を断裁するような厳しい声。
「好きなことをして食べていけるほど甘くない。途中で泣きついてきても、一銭も出さないからな」
そう吐き捨てられて家を出た。だからこそ、一円でも家賃を削り、浮いた分をクロッキー帳やガバナンス塗料、高価な専門書へ回さなければならない。
契約の当日、管理室の前で出会った立花富子は、藍色のエプロンの胸元に小さな裁縫用ハサミを差した、背の低い女性だった。目尻には深く優しいシワが刻まれ、差し出されたお茶からは、ほうじ茶の香ばしい湯気が立ち上っていた。
「長谷部さんね。若い人が来てくれると、この建物も明るくなるわ。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってね。階段の踊り場のライト、夜は少し暗いでしょう? 近いうちに明るいのに替えておくからね」
「ありがとうございます。あ、あの、ご近所の方って……どんな方が住んでいらっしゃるんですか?」
「静かな方ばかりよ。お年寄りも多いから、夜は本当に静か。そうそう、長谷部さん、学校は課題が多くて大変でしょう? 無理して体を壊さないようにね。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「はい、なんとか自炊しようと思ってます」
「えらいわねぇ。若い頃の無理は、歳をとってから膝にくるから気をつけなきゃダメよ。私の膝なんて、雨が降る前目には天気予報より正確に痛むんだから」
富子はころころと声を上げて笑い、膝をさすった。そのしぐさは、かつて田舎の法事で会った遠い親戚のおばそのもので、祥子の胸の底にあった警戒のタガをあっ気なく外してしまった。
引っ越し当日。軽トラックのレンタル時間を気しながら、祥子は一人で段ボールを運んだ。
背中に張り付く汗の冷たさと、ダンボールの紙粉で乾いた手のひら。画材の詰まった重い箱、ノートパソコン、厚手のデザイン理論の参考書。狭い八畳間にそれらを配置していくと、部屋は一気に生活の匂いを帯び始めた。
「ここなら、やれる」
窓を開けると、湿った夜風がカーテンを緩やかに揺らした。遠くを走る電車の音が、トントンと心地よいリズムで響く。未来がほんの少しだけ、この部屋の容積の分だけ広がった気がした。
深夜、照明の蛍光管がジジと小さく鳴る部屋で、祥子は壁際に置こうとした木製のラックをずらそうとした。重みのかかった棚の背板が壁に触れる。
その時だった。
背中に伝わったのは、固いコンクリートでも、乾いた石膏ボードの感触でもなかった。
「……?」
ふわ、とも、ふにゃ、ともつかない、どこか緩衝材を押すような鈍い手応え。祥子は振り向き、棚と壁の間に手を差し入れた。デザインの授業で立体造型の課題をこなしている指先は、ミリ単位の歪みに敏感だった。手のひらでぐっと壁を押してみる。壁紙の表面にある微細な凹凸の下で、内部の構造体がわずかに沈み込み、数ミリ奥へ逃げるような感覚がある。
「……何これ」
祥子は床に膝をついた。膝頭にクッションフロアの冷たさが刺さる。西側の壁と床の境目。部屋の隅は街灯の光が届かず、深い影が溜まっていた。スマホのライトを点灯させると、白い光が壁の裾を鋭く照らし出す。
そこには、幅一ミリにも満たない、しかし確実に隣へと続く細い線状の隙間が存在していた。吸い寄せられるように、祥子は机の上からA4のコピー用紙を一枚引き抜き、その端を隙間にあてがった。
すっ、と手応えもなく紙が吸い込まれていく。
指先に残る紙の振動。二センチ、三センチ。紙の端は引っかかりもなく、壁の向こう側の闇へと消えていった。祥子は生唾を飲み込み、眉をひそめる。
「……壁、浮いてる?」




