第9話 異世界の魔法インフラ
ジュウウウ……。
分厚いマッドボアの赤身肉から滴る脂が、暖炉の炎を爆ぜさせる。
俺は異世界に来たばかりで、調味料など一切持っていない。塩すらない、ただ火を通しただけの完全な「素焼き」だ。
焼け焦げた表面に齧り付く。
「……なんだこれ」
驚いた。
獣特有の臭みや硬さがあると思っていたが、全くの別物だ。
噛み締めるほどに、濃厚な旨味と甘い肉汁が口いっぱいに溢れ出してくる。
塩すら振っていないのに、肉そのものの味が異常なまでに美味いのだ。
異世界の素材、恐るべし。
骨の髄まで染み渡る美味さに、俺とハシ姉は無心で肉を平らげた。
腹を満たした後は、宿のシャワールームへ。
タイル張りの簡素な作りで、蛇口はあるものの、ボイラーのような設備は見当たらない。
(まあ、冷水で全身を洗う覚悟はできてるが)
気合いを入れて蛇口をひねった、その時だった。
根元に埋め込まれた赤い魔石が、ポワァッと淡く光り輝いた。
直後、勢いよく飛び出してきたのは、もうもうと湯気を立てる『お湯』だった。
「おおっ、すげえ!」
思わず声が出た。
魔法の力で瞬間的にお湯を沸かしているのか。異世界のインフラ技術、最高すぎる。
温かいお湯を全身に浴び、土と汗、そして魔物の返り血の匂いを念入りに洗い流す。さっぱりとした気分で宿の寝巻きに着替え、ふかふかのベッドに潜り込んだ。
ハシ姉はすでに、長い脚を折りたたんで床に座り込み、巨大な嘴を胸の羽毛にすっぽりと埋めて深い眠りについている。
目を閉じて数秒後には、俺の意識も深い泥の中へと沈んでいった。
翌朝。
小鳥のさえずりと、窓から差し込む眩しい朝日で目を覚ました。
「んん……」
大きく伸びをする。疲労が完全に抜け落ち、信じられないくらいスッキリとした目覚めだ。
だが、視線を床に落とした瞬間、その爽快感は一瞬で消え去った。
無造作に置かれた作業着。
(……くっさ)
土と泥、冷や汗、マッドボアの脂。
一晩熟成されたそれは、凄まじい悪臭を放っていた。
しかし、着替えはない。息を止めて、渋々袖を通す。肌に触れるゴワついた感触と獣臭さに、俺のテンションは急降下していく。
「ハシ姉、起きろ。行くぞ」
「んもう、朝から騒々しいわね……」
寝ぼけ眼の相棒を叩き起こし、俺は逃げるように宿を後にした。
冒険者ギルドの扉を押し開ける。
朝のギルドは、昨日の夜とは打って変わって落ち着いた雰囲気だった。依頼の掲示板の前で、冒険者たちが真剣な顔で話し込んでいる。
「お、ツムグ! 早かったな」
ホールの丸テーブルで、ガランたち『銀の牙』の三人が手を振っていた。
そのすぐ横、受付カウンターの中から、事務服姿のミリアさんも笑顔を向けてくる。
「おはようございます、ツムグ様。午後からの街案内、よろしくお願いしますね」
仕事中の凛とした佇まいだ。だが、その瞳にはどこか期待に満ちた色が混じっている。
ミリアさんなりに、俺の案内役を楽しみに気にかけてくれているらしい。
「おはようございます。……あの、ガランさん。挨拶もそこそこに申し訳ないんですが」
「おう、どうした?」
俺は、すがるような目で大柄な剣士を見上げた。
「武器屋の前に『服屋』に連れて行ってください。限界です」
「あ?」
ガランがキョトンとする横で、ミリアさんが「あっ……」と小さく声を漏らした。
「午後から、仕事の一環で服屋にもご案内しようと思っていたのですが……」
少しだけ残念そうに眉を下げるミリアさん。だが、俺から漂う熟成された獣臭に気づき、すぐに苦笑いを浮かべた。
「でも、確かにそのお召し物ではツムグ様も居心地が悪いですよね」
「すみません、午後まで耐えられそうになくて」
「ははっ、そういうことなら任せとけ! ミリアちゃん、ツムグの着替えは俺たちで済ませとくからよ」
ガランが笑って立ち上がり、俺たちはギルドを後にした。
男四人と、巨大鳥一羽。
朝の活気に満ちた大通りを、ガランの案内で進む。
「おうツムグ、右に見えるあのパン屋。朝早くから開いててな、腹持ちのいい黒パンが安くて美味いんだ」
「へえ、いい匂いがしてますね。今度買ってみます」
「そんで、あの裏路地に入ったところにあるのが怪しい薬屋だ。効き目は確かだが、親父の機嫌が悪いと変なもんを売りつけられるから気をつけろ」
「何それ怖い…。」
盾持ちのボルドが、ニヤニヤしながら付け加える。
「あと、あそこの看板出てる店は、夜になると綺麗なねーちゃんたちが……」
「バカ、ボルド! ツムグが困ってんだろうが!」
弓使いのリュックが小突いて、男衆の他愛もない笑い声が響く。
(こういうバカ話ができる仲間って、いつぶりだろうな)
環境屋として現場を飛び回っていた前世を思い出し、自然と口角が上がる。
「男って、いくつになってもくだらない生き物よねぇ」
ハシ姉が呆れたように嘴を鳴らした。
(いや、お前も『オス』だろ……!)
特大のブーメランを見事に投げ放つ相棒に、俺は心の中で鋭いツッコミを入れつつ苦笑した。
そうこうしているうちに、丈夫な衣類を扱う仕立屋に到着した。
俺が選んだのは、環境屋としての動きやすさと、冒険者としての実用性を両立した一式。
上着は、深いアースカラーの厚手帆布で作られた、ハイネックの編み上げチュニック。襟が高く、口元まですっぽりと覆い隠せる仕様が、土埃を防ぐのにちょうどいい。
下半身には、しなやかな魔物革のワークパンツと、スネ部分が金属で補強されたすね当て(グリーブ)を装着。
そして足元は、くるぶしまでをしっかりと包み込む、鉄芯入りの編み上げブーツだ。いわば、ファンタジー世界の安全靴である。
(ちゃんとした防具はまた後で考えるとして……ひとまずはこれで十分だろ)
「おお、見違えたな!」
「なんだか、いっぱしの冒険者ってツラになったじゃねえか」
着替えて店を出てきた俺を見て、ガランたちがドッと湧く。
清潔な布の匂い。適度に体にフィットするサイズ感。ようやく『自分の肌』を取り戻したような心地よさだ。
「どうだ、ハシ姉。似合ってるか?」
「まあ、アタシの隣を歩く男としては及第点ね♡」
ハシ姉が器用に片羽を上げてウインク(のようなもの)を飛ばす。
「…よし。それじゃあガランさん、次は武器屋ですね」
「おう。俺の馴染みの店に連れてってやるよ」
真新しいブーツで石畳を踏み鳴らし、大通りを一本外れた路地へ。
カァン、カァンと、規則正しい金属を打つ高い音が響いてくる。
「着いたぞ。ここだ」
ガランが立ち止まったのは、煤けたレンガ造りの建物の前。
重厚な木の扉には、剣と金槌が交差した無骨な看板が掲げられていた。
第9話、お読みいただきありがとうございます!
血と泥と脂が染み込んだ服を一晩放置する……ファンタジーあるあるですが、現実的に考えると地獄ですよね(笑)
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