第8話 アイテムボックスの習得。
「――コホンッ」
気まずい沈黙が応接室を支配する中、大男が低く重たい咳払いをした。
ミリアさんのバインダーから顔を離し、乱れた襟元を正す。
すると一瞬にして、先ほどまでの「親バカ全開の熊オヤジ」から、歴戦の猛者の顔へと戻った。
「申し遅れた。俺がこのギルドのマスターを務めている、バルガスだ」
「あ、どうも。ツムグと申します」
俺が軽く頭を下げた、その時。
「また鼻水を垂らしながら突撃したのね、あなた」
粉々になった扉の向こうから、呆れたような冷ややかな声が響いた。
コツ、コツと硬いヒールの音を響かせて現れたのは、タイトなスーツに身を包んだ女性。
切れ長の目元と、理知的な佇まい。ミリアさんの面影を感じさせる整った顔立ちだ。
「お、お母さん!」
「ミリア。怪我がなくて何よりよ」
ミリアさんがパッと顔を輝かせる。どうやらこの女性が母親らしい。
「副ギルドマスターのエレナよ。あなたたちが娘を助けてくれた方々ね。本当にありがとう」
「そ、それにしてもエレナさん、相変わらず隙がねぇな……」
ガランたち『銀の牙』の三人が、エレナさんを前にして直立不動の姿勢を取っていた。
背筋がピンと伸び、額にはうっすらと冷や汗まで浮かんでいる。
「……すごい強そうな気配ですけど、お二人は冒険者だったんですか?」
俺が小声で尋ねると、ガランが顔を引きつらせながらヒソヒソと返してきた。
「当たり前だ。お二人は昔、Sランクまで上り詰めた伝説の冒険者パーティーのメンバーだったんだぞ。正直、俺たちじゃ逆立ちしたって勝てねえよ」
「Sランク……」
なるほど、このプレッシャーも納得だ。
感心していると、バルガスが鋭い眼光をハシ姉に向け、太い腕を組んだ。
「しかし、あんた……どこかで見たことあるんだがなぁ……?」
「あら、こんな美しい鳥、そうそういないわよ。アタシは初対面だわ」
ハシ姉が長い首を逸らし、スッと目を細める。
かつて勇者パーティーにいた頃とは姿が変わっているせいか、バルガスも「気のせいか」と呟いて首を傾げた。
「本来なら、ミリアの生態調査には俺か妻が同行するはずだった。だが、急な野暮用が入ってな。『銀の牙』に護衛を依頼したんだが……まさか、あんな浅い階層でマッドボアが複数体も出るとは」
バルガスの言葉に、ガランたちも深く頷く。
「ええ。小動物が逃げ出している程度だと思っていたら、中型獣のパニック状態でした。森の奥で、何かが起きてるのは間違いありません」
「ああ。だが、今は全員が無事に戻ったことを喜ぶべきだな。ツムグ、そしてハシ姉さん。娘の命を救ってくれたこと、ギルドを代表して、そして一人の父親として、心から感謝する」
Sランクの巨漢が、深々と頭を下げる。
その真摯な態度に、俺も思わず居住まいを正した。
「あ! そういえばツムグ様、まだ『アイテムボックス』を覚えていませんでしたね!」
ミリアさんがポンと手を打った。
言われてみれば、ガランたちのアイテムボックスに俺の分の肉と資金を預けっぱなしだった。
「おお、それは大変だ。すぐに『魔本』を持ってきなさい!」
ミリアさんが小走りで部屋を出ていき、すぐに分厚い革張りの本を抱えて戻ってきた。
ギルドで管理されているアーティファクト。表紙に手をかざすと、手のひらが淡い光に包まれた。
『アイテムボックス』を習得しました。
頭の中に、ふとそんな感覚がスッと入り込んでくる。
試しに空間を手で撫でるようにすると、ぽっかりと黒い穴が開いた。
おお、ファンタジー。
さっそくテーブルの上の金貨と、切り分けた極上肉の塊を放り込む。
「さて。アイテムボックスも覚えたし、次はアンタのステータスと魔力量の測定だな」
バルガスが水晶のある部屋へ案内しようとするが。
窓の外は、すでに茜色に染まり、夕闇が迫っていた。
「お父さん、今日はもう遅いです。ツムグ様たちも疲れているでしょうし、測定は明日、落ち着いてからにしましょう」
「お、おう。そうだな」
ミリアさんの鶴の一声で、ギルドマスターがあっさりと引き下がる。
どうやらこの家族、完全にミリアさんとエレナさんが主導権を握っているらしい。
明日の朝、再びギルドに集合することを取り決め、俺たちは応接室を後にした。
ギルドの1階ホールに戻ると、酒盛りの熱気はさらに増していた。
「おっ、兄ちゃん! 登録済ませたか!」
「これで俺たちも仲間だな。よろしく頼むぜ!」
ジョッキを片手にした冒険者たちが、気さくに声をかけてくる。
誰も彼もが笑顔だ。勇者パーティーの陰湿な空気とは大違いである。
「おい兄ちゃん、住むとこは決まってんのか? まだなら、俺の行きつけの安宿を……」
「――私が、これからご案内しますので。大・丈・夫・ですよ?」
スッ、と俺の前にミリアさんが割り込んだ。
ニコリと微笑んでいる。
だが、その笑顔の奥には、絶対に口出しはさせないという『底知れぬ圧』が満ちていた。
「うっ……」
「こ、怖ッ……!」
Sランクの血を引く受付嬢の笑顔に、歴戦の冒険者たちが怯んで道を空ける。
「ま、まあ! 何か困ったことがあったら、いつでも俺たちに言えよな!」
逃げ腰になりながらも、良い先輩風を吹かせてくる彼らに、俺は思わず吹き出してしまった。
「ははっ、ありがとうございます。ガランさんたちも、今日は本当に助かりました」
「気にするな! 明日の午前は、俺たちが腕のいい武器屋と鍛冶屋を案内してやるからな」
「午後は、私が街をご案内しますね! 買い出しとか、色々と必要でしょうし」
ミリアさんが、今度は花が咲くような本物の笑顔を向けてくる。
明日の予定も決まり、俺たちは賑やかなギルドを後にした。
すっかり暗くなった街並みを歩き、ギルドの裏手にある少し静かな区画へ。
ミリアさんが手配してくれたのは、広々とした中庭のついた、離れのような宿だった。
これならハシ姉でも気兼ねなく出入りできる。
「当面の家賃と生活費は、今日の素材売却分で一ヶ月は持つはずです。でも、冒険者として登録した以上、定期的に狩りや依頼をこなしてくださいね」
「分かりました。何から何まで、ありがとうございます」
「いえ! 分からないことがあれば、いつでも私に言ってくださいね。では、また明日!」
パタパタと手を振って、ミリアさんが帰路につく。
静寂が降りた部屋で、一人と一羽。
俺は大きく伸びをして、ベッドの端に腰を下ろした。
「ねぇ、ツムグ」
ふと、ハシ姉が真剣なトーンで口を開いた。
「アンタ、これからどうするの?」
「どうするって?」
「元の世界に戻りたい? 向こうに家族や恋人は残してきてないの?」
無機質な黄色い瞳が、じっと俺を見つめている。
俺は少し考えて、鼻で笑った。
「恋人なんていなかったよ。毎日、泥まみれになって環境整備の仕事ばっかりしてたからな。家族もそれぞれ自立してるし……俺がいなくなっても、まあ何とかなるだろうさ」
「そう」
「ああ。だから俺は、この世界で生きていくよ。お前たちと一緒に、良いの環境を作って、美味い飯を食う。それが俺の新しい目標だ」
迷いのない俺の言葉に、ハシ姉は長い首をすり寄せてきた。
「フフッ。いいわね、それ。アタシも手伝うわ」
「頼むよ、相棒。……でも、なんでお前は俺の手伝いをしてくれるんだ? 出会ってから、ずっと一緒にいてくれるけどさ」
不思議に思って尋ねると、ハシ姉は得意げに胸を張った。
「一目見て気に入ったってのもあるし、助けてもらった恩もあるしね。それに……『女の勘』よ。アンタといると、退屈しなさそうだもの」
(……いや、お前さっき『生えてる』って言ってたろ)
心の中で鋭いツッコミを入れつつ、俺は苦笑いを浮かべた。
オスのオネェ鳥の『女の勘』がどれほど当てになるかは分からないが、悪い気はしない。
「よし、とりあえず飯にするか」
アイテムボックスを展開し、今日貰ったマッドボアの極上肉を取り出す。
ずしりと重い、美しいサシが入った赤い肉。
(……待てよ?)
肉を暖炉で焼こうとして、俺の『環境屋』としての知識がふと顔を出した。
ハシビロコウ。
アフリカの湿地帯に生息し、何時間も動かずに獲物を待つ怪鳥。その主食は、たしか――。
「……なぁハシ姉。お前、肉より『魚』の方が好きなんじゃないか? ハイギョとか、ナマズみたいな」
「あら、よく分かったわね。アタシ、お魚の方が好きなのよ」
ハシ姉があっさりと肯定した。
「マジかよ……今日のご飯、肉しかないぞ。どうする?」
初日から相棒の好物を外してしまったことに焦る俺。
しかし、ハシ姉は嘴をカチカチと鳴らして笑った。
「別に、お肉も食べないわけじゃないわよ。たまにはお肉もいいわね。明日からは、美味しいお魚がいいけれど」
「助かる。明日は市場で魚を探してみるか」
宿に備え付けられた暖炉に火を入れる。
分厚く切り分けたマッドボアの肉を、持参した串に刺して火に炙った。
ジュウウウウ……ッ。
瞬く間に脂が溶け出し、香ばしい煙が部屋いっぱいに広がる。
肉の焼ける匂い。パチパチとはぜる薪の音。
滴り落ちた脂が炎を舐め、さらに食欲をそそる匂いが立ち上る。
「うお……すげぇ美味そうだな」
「いい匂いね。アタシの分も大きく切り分けてちょうだい」
異世界での、第一夜。
元の世界の常識が通じない、波乱に満ちた一日だった。
だが、温かい火の前で相棒と極上の肉にかぶりつくこの時間は、間違いなく俺が求めていた「スローライフ」の第一歩だった。
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