第26話 ハシ姉の吐息レーダー
暗闇に包まれた平原を、圧倒的な質量の暴力が蹂躙していく。
ズンッ、と六メートルの鋼の巨神が足を下ろすたび、大地が悲鳴を上げて揺れた。
巨大な腕が薙ぎ払われれば、数十の魔物がまとめて吹き飛び、中型サイズの獣でさえも為す術なくひしゃげていく。
最前線の波が削り取られ、ぽっかりと空いた空間。
「――我が魔力よ、大地を喰らえ!!」
すかさず、後方からレオが規格外の土魔法を放つ。
隆起した土と岩が、分厚い防壁を備えた新たな『中継拠点』として瞬時に組み上がる。
「よし、今のうちだ! 前線を押し上げろ!」
「新しい砦に入れ! 弓兵、そこから射線を確保しろ!!」
騎士団長の号令が響く。
アイが物理的に障害を排除し、レオが安全地帯を構築する。
空いたスペースに前衛の冒険者や衛兵たちがなだれ込み、後続の魔物を魔法と矢で確実に仕留めていく。
システマチックで、無駄のない陣取りゲーム。
「ンンッ……アハーーン♡ 右の死角から、おいたをしようとする悪い子ちゃんが五匹、コソコソ這い寄ってきてるわね」
ゾクッとするほど艶やかな、吐息交じりの声。
俺の隣で、ハシ姉が夜の闇へ向かってスッと細い首を伸ばした。
彼女の持つ特有の索敵スキルだ。
「任せろ」
俺が剣を抜き放つより早く。
シュバッ!!
神速の嘴が闇を穿ち、砦の死角から回り込もうとしていたワーウルフたちの脳天を正確にぶち抜く。
「ウフフッ、アタシの熱い視線から逃れられると思ってるのかしら……ンッフ♡」
ハシ姉が再び、妖艶な声で夜風を震わせる。
ピクピクと頭の飾り羽を揺らし、戦場全体を感知しているようだ。
「ハシ姉、敵の残りはどれくらいだ?」
「そうねぇ……はぁん♡ 大きな波はもう引いたみたい。あとは散発的に二百と三十ってところね。中型はゼロ。どいつもこいつもザコばかりよ」
(……その色っぽい『吐息レーダー』だけで正確な数からサイズまで全部わかるのか…。)
俺が油断なく剣を構えたまま心の中で鋭くツッコミを入れていると、少し離れた砦の銃眼から、前衛の冒険者たちの悲痛な叫びが飛んできた。
「おいツムグ! 頼むからその鳥の変な声、どうにかしてくれ!」
「こんな命がけの戦場で、こっちの腰まで砕けそうになるんだよ!」
「さっきから変な汗が止まらねえぞ!」
「……だそうですよ、ハシ姉」
「あらヤダ。アタシの魅力に当てられちゃったのかしら? 若いって罪ねぇ……ンッフ♡」
クレームすらも快感に変えるハシ姉に、俺は呆れ半分で苦笑をこぼす。
だが、どんだけエロティックな索敵スキルだろうと、彼女の感知能力が完璧なのは事実だ。
俺とハシ姉は、拠点間を飛び交う散発的な魔物を遊撃しながら、盤面を見渡していた。
血と泥と焦げた肉の匂いが立ち込める中、俺たちの完璧な防衛網は決して破綻しなかった。
やがて、空の東側が白み始める頃。
果てしなく続くかに思えた『黒い滝』は、ついにその勢いを完全に失った。
「主力部隊、沈黙! 残りは散発的な小型のみ!」
「弓と魔法で対処可能だ! 前衛は交代で下がれ!」
伝令の声が響き渡る。
怒号と悲鳴に満ちていた平原に、ようやく疲労と安堵の息遣いが戻ってきた。
「終わった……」
朝霞の中、誰かがへたり込みながら呟く。
それを合図にしたように、剣を杖にしてしゃがみ込む者や、大の字で平原に倒れ込む者が続出した。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、押し寄せる凄まじい疲労感。
だが、冒険者たちの仕事はこれだけでは終わらない。
「休みたい気持ちはわかるが、手空きの者は素材の回収を手伝え! 血の匂いで別の魔物が寄ってくる前に、魔石と肉を剥ぎ取るぞ!」
その声に、冒険者たちが重い体を引きずって立ち上がる。
俺も息を整えながら、ハシ姉の羽の汚れを布で拭き取っていた。
アイはすでに装甲を解除し、足元で大人しく待機モードに入っている。
「おう、ツムグ!」
背後から肩をバンッと叩かれた。
振り返ると、返り血で顔を真っ赤に染めたガランさんが、大剣を肩に担いで立っていた。その顔には、疲労よりも清々しい笑みが浮かんでいる。
「お疲れ様です、ガランさん。怪我は?」
「かすり傷だ。お前さんの従魔たちが最高の拠点を作ってくれたおかげで、死人はゼロだ。……ただな」
ガランさんは、アイが暴れ回っていた最前線の方角を指差して、苦笑いした。
「あのでっかい鉄の塊がやった辺り、魔物がミンチになりすぎてて、牙も毛皮も原型留めてねえんだよ! 魔石を拾うのがやっとだぜ!」
「あはは……すみません、そこまで器用なコントロールはできなくて」
俺が頭を掻くと、周囲で素材回収をしていた銀の牙の面々や他の冒険者たちも、ドッと笑い声を上げた。
「いやいや、命があってなんぼだ!」
「それに、他の連中が倒した分だけでもとんでもねえ量の素材だぞ! これ、全部街に持ち帰ったら防具屋も素材屋もしばらくウハウハだな!」
「俺たちも特別報酬で、今夜はエールが浴びるほど飲めるぜ!」
過酷な死線を越えた連帯感。
死骸の山から次々と魔石や使える素材が剥ぎ取られ、街の門へと運ばれていく。
この防衛戦は、確かに街にとって大きな危機だった。だが、同時にこれほどの素材が一度に手に入るのは、経済的に見れば一種のボーナスタイムでもある。
(まあ、悪いことばかりでもないか)
朝日に照らされる街の城壁を見上げながら、俺はふうっと息を吐いた。
「よし、俺たちも手伝うか――」
「……山が」
その時だった。
城壁の最上部、監視塔で朝日を背に受けていた衛兵が。
声を裏返らせ、平原中に響き渡るような絶叫を上げたのだ。
「山が……山が見えたぞォォォッ!!」
ビクリと、その場にいた全員の動きが止まった。
(……なんだと?)
俺は弾かれたように振り返り、森の奥――朝霞が立ち込める地平線の彼方へと視線を凝らした。
冷たい風が、森の木々をざわめかせる。
遠く、遥か遠く。
だが、そのシルエットは、朝日の逆光の中にハッキリと浮かび上がっていた。
天を突くような、巨大な岩山の輪郭。
それが、ズシン、ズシンと、大地を揺らしながらこちらへ向かって移動している。
「嘘だろ……」
誰かが、震える声で漏らした。
(いくらなんでも、早すぎる……!!)
俺は奥歯を強く噛み締めた。
昨日、ギルドマスターは『このままだと数日と持たずに街が踏み潰される』と言っていた。
その距離感なら、まだ街から肉眼で見える位置にいるはずがないのだ。
まるで、何か明確な『目的』を見つけ、歩調を早めたとしか思えないスピード。
スタンピードを乗り切った安堵の空気は、一瞬にして凍りついた。
本当の地獄(本番)は、まだ終わっていなかったのだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ドシン。
重たい足を下ろすたび、大地がひび割れる。
ドシン。
薙ぎ払われた千年樹が、宙を舞ってへし折れる。
亀の意識は、すでに白濁し、深く沈み込んでいた。
自分がどこを歩いているのか。
何を何のために踏み潰しているのか。
それすらも、もう判然としない。
ただ、遠く離れた方角から、かすかに漂ってくる『気配』。
かつて同じ時を生き、次元の彼方へ消えてしまった古い友の気配。
『あいたい。あいたい』
朦朧とする意識の中で、その渇望だけが巨体を突き動かしていた。
この巨大種は、極めて強固な防御スキルをいくつも有している。
魔力を硬化させて甲羅を覆い、見えない障壁を展開すれば、森の木々や岩山にぶつかろうとも、その体に傷一つ付くことはない。
しかし今の亀は、我を忘れ、狂ったように直進することしか頭になかった。
防御スキルの展開すら忘れ去り、ただひたすらに生身の巨体を障害物に叩きつけながら歩き続けている。
バキィッ! と、巨大な岩盤に肩が激突する。
分厚い皮膚が裂け、そこから滝のような血が流れ落ちた。
痛い。
苦しい。
体はとっくに限界を超え、生々しい無数の傷に覆われている。
それでも。
『もうすぐ。もうすぐ、あえる』
血の涙を流しながら。
傷だらけの巨獣は、かすかな友の気配がするファルデルの街へ向けて、悲痛な足取りを早めていった。
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