第22話 森の生態系異常
翌朝。
ファルデルの街から徒歩で数時間。
俺たちは、目的の『静寂の湿地帯』へと足を踏み入れた。
ざわわ、と風が背の高い葦を揺らす。
鼻腔をくすぐる、水苔と湿った黒土の匂い。
足元には、どこまでも続く澄み切った浅瀬が広がっていた。
「ああっ……最高。やっぱりこれよ、これ」
湿地帯に到着するなり、ハシ姉はうっとりとした声を上げて浅瀬に足を踏み入れた。
バシャバシャと、大きな羽を広げて水浴びを始める。
普段の彼女からは想像もつかないほどアクティブな動きだ。
水を弾くたび、粉を吹いて乾燥していた灰色の羽が、みるみるうちに潤いを取り戻していく。
本来の、艶やかで美しい青みがかった羽並み。
ものの数分で、彼女の纏うオーラが一段と力強く、鮮やかなものに変わった。
「フッ。我には少しじめじめしすぎているな。この岩場を我が玉座とする!」
一方のレオは、水辺から少し離れた日当たりの良い大きな岩を見つけ、短い手足を伸ばしてべったりと寝そべった。
(ただの日向ぼっこじゃねえか。まあ、爬虫類には必須の行動だけどな)
俺は心の中でツッコミを入れつつ、二匹がくつろぐ姿にホッと胸を撫で下ろした。
これで当面の体調不良は防げるはずだ。
「よし、俺は仕事をするか」
俺は袖をまくり上げ、湿地の泥に手を入れた。
依頼されていた薬草を次々と採取していく。だが、俺の本当の目的はもう一つあった。
(あった。ハスの花の苗だ)
葦の群生地の奥に、見事な青葉を広げるハスの群れを見つける。
だが、俺は茎を引っ張ったりはしない。
スコップを取り出し、根の周囲数十センチを、泥ごと大きく円を描くように深く掘り起こす。
植物を別の場所へ移す時、ただ抜いて植え替えるだけでは根付かないことが多い。
元の土壌に含まれる微生物や、水分のバランス。その『環境のピース』を丸ごと維持したまま移動させることが、植物を定着させる絶対条件なのだ。
ズボッ、と重たい泥の塊ごとハスの苗を引き抜き、そのままアイテムボックスへと放り込む。
これで、未来のマイホームの庭に作る『池』の準備が一つ整った。
「ハシ姉、俺たちはちょっとすぐそこの鉄鉱山に行ってくる。レオはお前の護衛な」
「あら、いってらっしゃい。アタシはもう少しここで泥パックでも楽しんでるわ」
「スゥ……スゥ……」
完全にリラックスモードに入ったハシ姉と、岩の上で爆睡しているトカゲ。
俺は二匹を湿地帯に残し、足元に控えていたアイと共に、隣接する廃鉄鉱山へと向かった。
ひんやりとした、錆びた鉄の匂いが漂う坑道。
『――マスター。前方より、複数の敵対ユニットを検知』
アイの黄色い瞳が赤く点滅する。
暗がりから現れたのは、硬い岩の甲殻を持つ巨大な甲虫の群れだった。
「頼むぞ、アイ」
『命令を受理。これより、物理的排除を実行します』
淡々とした幼女ボイスが響いた直後。
カタカタガタッ! と、洞窟中の鉄鉱石が壁から引き剥がされ、アイの小さな体へと猛烈な勢いで渦を巻いて吸い込まれていく。
熱風と火花。
土煙の中から現れた鋼の機神を見上げ、俺は思わず目を剥いた。
「……おい、アイ。お前、前よりデカくなってないか!?」
頭が、坑道の天井ギリギリを擦っている。
前回は二メートルほどだったが、今は優に三メートルを超えている。見上げるほどの圧倒的な質量。
『肯定。周囲の鉄成分の収集範囲を、前回より半径二十メートル拡大しました。より多くの鉄を回収した方が、マスターが喜ぶと推測』
「いや、嬉しいけど……お前、そんなに範囲広げたら魔力も体力もゴリゴリ削られるだろ。無理すんなよ?」
『……マスターの気遣いに感謝。ですが、問題ありません。――排除します』
巨大化したアイは、突進してくる甲虫の群れへ正面から歩み寄る。
『えいっ』
ドッゴォォォォンッ!!
岩の甲殻が、紙くずのように叩き割られていく。
三メートル超えの鋼鉄の塊による、理不尽なまでの暴力。
ものの数分で坑道は静まり返り、アイがスキルを解除すると、前回を遥かに凌ぐ量の極上の鉄鉱石が山となって崩れ落ちた。
夕暮れ時。
鉄鉱石をアイテムボックスに詰め込み、俺たちが湿地帯へ戻ってきた時のことだ。
少し離れた場所から、俺は足を止めた。
浅瀬の奥で、すっかり泥を落としたハシ姉が、じっと何かを見つめている。
視線の先には、葦の陰にひっそりと咲く、百合によく似た淡いピンク色の美しい花があった。
(……あの花が、欲しいのか?)
微動だにせず、愛おしそうにピンクの花を見つめる横顔。
俺たちが近づく足音に気づくと、ハシ姉はハッとして振り返った。
「おかえりなさい、ツムグ。……ふふっ、なんだか体が羽毛みたいに軽いわ」
夕日を受けてベルベットのように滑らかな艶を放つ、青みがかった灰色の羽。
見違えるほど美しい姿を取り戻した彼女に、俺は苦笑を返す。
「いやお前、全身羽毛だろ」
「もうっ、可愛げのない返しね! さぁ、帰るわよ!」
ハシ姉は上機嫌に嘴を鳴らし、レオを背中に乗せて先を歩き出した。
俺はその背中を見送りながら、彼女が気づかないようにスッと葦の陰にしゃがみ込む。
そして、先ほど彼女が見つめていたピンク色の百合の花を、根の周りの泥ごと深くえぐり取り、そっとアイテムボックスへと放り込んだ。
ファルデルの街へ戻った俺たちは、冒険者ギルドの受付で薬草と大量の鉄鉱石を納品した。
ズッシリと重い金貨の袋を受け取り、ホクホク顔で酒場へ足を踏み入れる。
だが、ギルド内の空気は、いつものような荒々しい活気とは少し違っていた。
どこかピリついた、ざわめき。
「ミリアさん、何かあったんですか? みんな妙に騒がしいですが」
俺の問いに、ミリアさんは困ったように眉を寄せた。
「それが……森の様子が、どうもおかしいらしいんです」
「おかしい?」
「はい。奥にいるはずの魔物が浅い階層に降りてきたり、川の水が急に濁ったりと……。原因不明の生態系の乱れが報告されていて」
ミリアさんの視線の先にあるクエストボード。
そこには、赤紙で記された『緊急調査依頼』が貼り出されていた。
森の深部の異常調査。
対象はAランクおよびBランクの熟練冒険者のみ。その分、報酬の額は破格だ。
「俺たちが引き受けるぜ」
酒場の奥から立ち上がったのは、歴戦のオーラを纏った数人の高ランク冒険者たちだった。
明日の朝一番で出発するため、彼らは手早く準備の相談を始めている。
「……森の生態系の乱れ、か」
ただの魔物の移動ならいいが。嫌な予感が、背筋を微かに撫でた。
翌朝。
ギルドの前に顔を出すと、完全武装したAランクとBランクの冒険者たちが、すでに出発の隊列を組んでいた。
「気をつけろよー!」
「必ず生きて帰ってこい!」
街の人間や冒険者たちが口々に声をかける。
俺も、その輪に混ざって彼らの背中を見送った。
「おう! サクッと原因突き止めて、でっかい土産話持って帰ってきてやるよ!」
笑って手を振り返し、朝霞の森へと消えていく熟練の冒険者たち。
この時の俺たちは。
あの深い森の奥で、一体どれほどの『絶望』が口を開けて待っているのか、思いもよらなかったのだ。
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