緊急事態
「マジかよ……」
「予想通りだったでしょ?」
「んな訳あるか⁉」
サズ子は平然としながらドゥルジで釣った魚を興味深そうに眺めているが、僕はとてもそんな気分にはなれない。
「おーい、そろそろ海層渡りだぞー」
その時、ロバーツさんが船内から顔を出しながら僕達にそう呼びかけてくる。
ふと空を見上げれば、僕達の頭上にはいつの間にかすっかり星のない夜空が覆っていた。
「……不安だ」
「うん、どうしたんだね?」
「蒼が海層渡りを怖がってる」
「なに? それはすまない。私がさっき余計な事を言ってしまったせいだな。だが、安心してくれ。私はこれでも何十年も海層渡りをやってる。万が一にも、この船が沈む事はないよ。ただ、たまに乗客がふざけて海に落ちてしまうことがあってね。海層渡りは初めてだと言うし、念のため軽く釘を刺しておいたのだが……悪いことをしてしまった」
「いえ……」
そんなつもりは無かったが、想像以上に声に力が入らない。
すると、ロバーツさんは難しそうな顔をして船内に顔を引っ込めてしまった。
……どうしよう、気を使わせてしまったかも知れない。
「蒼、怖がることはない。例えこの船が沈んだって、黒海の中ですら溺れる事がない蒼は助かる」
「いや、そういう問題じゃないんだが……」
「心配しないで、もしもの時は私も一緒海に飛び込むから」
「えー……」
「キレそう」
しゃがんでいたサズ子が、不満そうに頬を膨らませるとバンバンと僕の足を叩いてくる。
とても鬱陶しい。
「おっと、お取込み中のところだったかね? しかし、そろそろ本当に海層渡りが始まる。甲板は危ないからとりあえず中に入りなさい。船内にいれば安全だから」
その時、船内に居たはずのロバーツさんがわざわざ甲板まで来てくれる。
どうやら、相当心配をかけてしまっているようだ。
「分かりました。今行きます」
僕は慌てて借りていた釣竿を回収すると、釣り糸からドゥルジを外してやる。
「おーい、大丈夫か?」
「……」
「あれ、寝ちゃったのかな?」
「あり得る。ドゥルジは結構神経が図太いから」
「それは凄いな。じゃあ、サズ子。これ返すよ」
「魚臭いからいらない」
「そうか? スン……ッ、ごほっ! 生臭っ⁉」
「誰のせいだっ‼」
あまりの異臭に思わず僕が咽てしまうと、声を震わせながらドゥルジがそう叫ぶ。
「おい、人間! お前、覚えとけよ! この恨みは、絶対に忘れないからな‼︎」
「ええっ、そんな一生の思い出になるほど楽しかったなんて……カケラもそんなつもり無かったのに」
「そりゃそうだろうなぁ⁉︎ 私だって、楽しかったなんてカケラも思ってないわ! ていうか、私はお前を恨んでるって言ってんだよ⁉ お前、確実に言語能力に致命的な障害を負っているだろ⁉︎」
「失礼な。言語魔法は取得済みだぞ」
「嘘つけぇぇええええええええええ‼︎」
「いやいや、本当だって。僕はただ、お前に悪感情しかないなら、お礼を言う時はありがとうの代わりにお前を恨むって言うかも知れないって思っただけだよ」
「んなわけあるかぁ‼ 良く覚えとけ! 私は、お前の事が大嫌いだ! このクソ人間が‼︎」
僕が耳を塞いで聞こえないフリをしていると、不意にサズ子が僕の目の前に手を差し出してくる。
これは……、渡せってことかな?
「ほい」
「ん。ドゥルジ、お疲れさま。蒼は良い人でしょ?」
「お前の思考回路はイカれてんのか⁉︎ あれで喜ぶのは、相当なドMかお前くらいだわ!」
「ううん、そんな事ないよ。……何も出来ないくせに、口も態度もなってない馬鹿に与える罰にしては、全然甘い」
その瞬間、サズ子は小さい子供なら間違いなくトラウマになるうであろう悪意を放つ。
「お前は、本当に一度自分の立場を考えるべき。蒼ならどれだけ悪意をぶつけても、きっとお前を許すだろうけど……あまり目に余るようなら、私がお前を殺すから」
「……」
先程まで騒がしかったドゥルジが、途端に黙り込む。
恐らく、サズ子の本気が伝わったのだろう。
まあ、あのサズ子でさえ槍の状態では身動き一つ取れなかったのだ。
現在のドゥルジが槍状態のサズ子と全く同じ状態だとすると、この状況はまさに絶体絶命と言えるだろう。
これで少しでも、ドゥルジが大人しくなってくれると良いのだが……。
「話は終わったか? それなら、早く船の中に戻ろう。サズ子の話が本当なら、このままここにいるのは危ないからな」
「うん。分かった」
「……チッ、ほんとサイアク……はいはーい。分かりましたよ〜」
そうして、僕達がようやく船内に戻ると、ロバーツさんが入り口のところで待っていてくれていた。
「おっ、ようやく来たかね。そろそろ、もう一度呼びに行こうかと思っていたところだ」
「遅くなってすみません。釣り竿、ありがとうございました」
「いやいや、気にすることない。釣った魚はこっちで血抜きしといてやろうか?」
「いえ、釣り竿を貸していただいたお礼に、釣った魚は全部差し上げます」
「なに? それは私には受け取れんよ。あれは、君達が釣ったものだ」
「でも、そうしたら荷物になってしまうので、海に逃すしかなくなってしまいますし……」
「なら、捌けば良かろう。コックにお弁当を作らせるから、それを持っていくといい」
釣り竿を受け取ると、ロバーツさんは近くにいた船員にトロ箱の魚を捌いておくように指示する。
ロバーツさん、良い人過ぎるだろ……。
「そんな事より、君に海層渡りの様子を見せてやろうと思っていたのだ。実際に見た方が、君も今後海層渡りを怖がらずに済むだろう。案内するから、操縦室までついて来たまえ」
「分かりました。お気遣いありがとうございます」
僕は笑顔でそう返すと、サズ子は呆れたように首を振る。
「さっきまで、あんなに怯えてたのに……蒼、もしかして枯れ専?」
「んなわけねーだろ! 大体、ロバーツさんは男だ!」
「それは良かった。けど、良くない」
「何がだよ」
「蒼の好みのタイプが、私だと分かって安心した」
「何故、お前はただ女ってだけで、僕の好みのタイプを自分だと思い込めるんだ?」
「いくら否定しても事実は変わらない。それより少し優しくされただけで、すぐに人を信じるのは良くない。そんなんじゃあ、すぐに悪人に騙される」
「いや、少なくとも僕の好みは僕が否定した時点で変わるだろ⁉︎ 大体、普段お前みたいな最悪な奴しか周りにいないから、ロバーツさんみたいな優しい人を見ると余計に安心するんだよ!」
「はい、病んだ」
サズ子は、深く溜息を吐く。
「私はこんなにも蒼のことを考えているのに……蒼は相変わらず、私に塩対応すぎる」
「今回に関しては、親切な人のことを悪く言うお前が悪い」
「……優しさに優しさで返せるのは美徳だけど、これならまだ悪意で返してくれた方が安心出来る」
サズ子はそう言うと、僕を置いてさっさとロバーツさんの後に付いて行く。
何なんだよ、アイツ……。
モヤモヤしたまま僕も二人の後ろに付いて行くと、とある部屋の前でロバーツさんは立ち止まる。
「紹介しよう。ここが、我が船の操縦室だ」
そうして案内された部屋に入ると、思わず目を見張ってしまう。
驚くべきことに、部屋の中は想像していた何倍も機械的だった。
アニメなんかで良く見る木製で歯車型のハンドルなどは無く、カラフルに光るボタンや何かを映しているレーダー、いくつもの数字が動いているモニターなど、まるで飛行機の操縦席みたいだ。
ていうか、改めてこの世界の文明レベルが分からない。
勿論、僕だってすでに数ヶ月はこの世界にいる。だから、ある程度は分かってきていたつもりだ。
例えば、料理をする時はガスの火を使うし、部屋の明かりだってちゃんと電気を使っている。
ただ、IHのような最新型のコンロなんかはないし、明かりだってLEDとかではなく電球のような物が一般的だ。
「どうだい、驚いただろう?」
「は、はい。見たことない機械が一杯です」
「そうだろう。そして、ここに座っている眉間に皺が寄ったる男が、我が船の航海士のアルバートだ。ほれ、アルバート。お前も挨拶せんか」
「……」
ロバーツさんがそう言うと、無言で操縦席に座っていた男性が立ち上がる。
「……どうも」
アルバートさんというらしいその男性は、僕達の方を向くと一言そう言ってペコリと頭を下げる。
「あっ、こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
僕も慌てて頭を下げ返すと、その人は何も言わず、再び無言で操縦席に座り直す。
「ふむ、すまんな。見た目通り、無口な男なのだ」
「い、いえ、とても頼りになりそうな方で、僕達も安心です」
「そうか? まあ、実際腕は確かだがな」
ロバーツさんはそう言うと、部屋の前面にある窓の方に近づく。
「それより見てみろ、天条君。アレが海層渡りに使う【異海口】だ」
ロバーツさんがそう言って指を差したのは、海にポッカリと開いた大穴だった。
「……本当に、あそこが入り口なんですか?」
「ああ」
「あそこに落ちたら、どうなるんですか?」
「死ぬ」
「……死ぬの⁉︎」
「いや、そんな訳ないだろ」
「……」
絶妙なタイミングではさみ込まれたサズ子の嘘にイラッとしたので、大きめの舌打ちを返しておく。
「あれ? 私、今舌打ちされた?」
「そんな訳ないだろ。馬鹿が死ね」
「言い過ぎで草」
「君達、本当に仲が良いな」
「ロバーツさんって、もしかして、結構ボケが進んでいるんですか?」
「て、天条君? 言葉に含まれた毒が、まだ抜けきってないぞ?」
「おっと、すみません」
危ない危ない。つい、サズ子と同じノリでロバーツさんに接してしまった。
僕は反省すると、改めて視線を【異海口】とかいう飛び降り自殺専用スポットみたいな大穴に向ける。
本当に、あんな所から落ちて平気なのだろうか? そもそも、上の海層に行きたいのに下に落ちなければいけない意味が分からない。
「さて、アルバート。準備はいいか?」
「はい」
「よし、異海口に入るぞ。全員、衝撃に備えろ!」
力強い号令と共に、船がゆっくりと傾いていく。
気分はまるで、ジェットコースターが落ちる直前のような感じだ。
「蒼。怖いなら、私の手に捕まって」
「お、お前は、途中で手を離してきそうだから嫌だ!」
「バレて草」
「お前、本当に最悪だな⁉︎」
これほど、他人を信じなくて良かったと思ったことはない。
僕がサズ子の極悪過ぎる罠に戦慄していると、いよいよ船が海から完全に離れ、重力に引っ張られるままに下に落ちていく!
「う、うわぁぁああああああああっ!」
船はあっという間に光が届かないほどの海の底まで落ちると、強い衝撃と共に海の底をそのまま突き抜ける。
すると、突然眩しいくらいの強い光が窓から差し込んできた。
「着いたぞ」
「……は?」
気が付いたら、僕達は底の見えない闇で塗り潰された黒海のど真ん中にいた。
「ここが、第三海層【アーベル海】のジョルノ黒海だ。そして、ここから暫く行けば、音楽国家【サンビカ】があるぞ」
ロバーツさんが何やら説明してくれているが……正直、今は何も頭に入ってこない。
まるで、天地が逆さまになったみたいな気分だ。
「……不思議だろう。落ちたと思ったら上がり、空の上かと思ったら足元にはしっかり海面がある。海とは、本当に我々の想像を簡単に覆すものだ」
「これ、本当に第三海層なんですか? 第一海層じゃなくて?」
「勿論だ。サンビカに着いたら、国の住人に聞いてみるといい。ここは一体、第何海層ですか? とな。きっと、君の疑問はすぐに解消されるだろう」
「……頭がおかしくなりそうですね」
「そうだな。昔の人は、良く海層渡りなんぞをやろうと思ったものだ」
「この先に、天海があるんですか……」
「天海? はっはっはっ! まさか、天条君は天海を目指しているのかね?」
「ええ、まあ……」
「そうかそうか。だが、夢を壊すようで申し訳ないがそんなものはないよ」
「……何故ですか?」
「簡単さ。この世の果て、第十二海層【死海】には……何もないからね」
「え、それって——」
ドォォオオオオンッ!
その瞬間、船が大きく揺れる。
僕達は慌てて近くあった物にしがみ付いた。
「な、何事だ⁉︎」
「ロバーツ船長、大変です! 目の前に大量の軍艦が並んでいて、こちらに向かって一斉に砲撃を仕掛けています!」
「なにぃ⁉︎」
飛びつくようにロバーツさんが窓から外を覗くと、確かに視界の先にはたくさんの軍艦が地平線を埋めるように並んでいるのが見える。
凄い数だ。もしかして、アリスさんがディアを迎え撃つ時と同じかそれ以上いるんじゃないか?
「何故、我々が海軍に撃たれている‼︎」
「わ、分かりません!」
ロバーツさん達が混乱したように怒鳴り合っているが、そんなの知るかと言わんばかりに軍艦から砲弾が放たれると、船には次々と大穴が開いていく。
「わ、私の船がぁーーっ⁉︎」
「船長! そんな事よりも、このままでは船が黒海に沈みます。早く脱出しましょう!」
「う、うるさーい! お前はこの船に愛着はないのか⁉︎」
「あるに決まってるじゃないですか! でも、命には変えられないでしょう!」
ロバーツさんは老紳士然とした態度を崩し、アルバートさんに宥められるほど激しく動揺しているようだ。
「サズ子、行くぞ!」
「逃げるんだね!」
「違う!」
僕は急いで操縦室の窓を開けると、アホな事を言うサズ子を置いて外へ飛び出した。
僕達はまだいいが、このまま船が沈んだらロバーツさん達は黒海で溺れて死んでしまう!
船の手すりを超えると、僕は迷わず黒海に飛び込んだ。
「海龍!」
この状況を何とかするには、もう海龍の力を借りるしかない!
僕は何も見えない黒海の中、黒海の何処かに潜んでいるはずの海龍に向かって呼びかける。
すると、暗闇の中で何か黒い影が視界の隅で動いたのが分かった。
不思議だ。黒海には光が一切届かないので、当然僕にも何も見えないはずなのに……何故か、注視しているとぼんやりと輪郭のようなモノが浮かび上がり、ピントのズレたカメラのように何となく風景が見えてくるのだ。
しかし、今はそんなこと考えている場合じゃない!
目の前で動いたアレが海龍かは分からないが、影は今も僕の様子を伺うようにジッとこちらを見つめていることだけは分かる。
「頼む、僕達の前から海軍を追い払ってくれ!」
僕が正体不明のナニかに向かってそう叫ぶと、今度こそ影はハッキリと動く。
まるで、僕の言葉に応えてくれているようだ。ということは、やはりアレは海龍か?
僕がそう思って見ていると、その時、予想外の事態が起こる。
影が動いた瞬間、影のシルエットがまるでスライムのように歪んだのだ。
いや、正確にはそいつの身体が歪んだ訳じゃない。
同じ場所で身体を寄せ合っていたソイツ等は、僕の声に反応するように身じろぎをすると、一斉にこちらに向かって突撃してきたのだ。
「なっ⁉︎」
近づいてきたソイツ等の正体を見て、僕の全身に鳥肌が立つ。
何故ならそれは、小さい爪と牙を持ち、海龍に共通する赤い眼に蒼色の体毛をした、大量の鼠の群れだったからだ。
思わずその場から逃げようとするが、鼠達の動きは想像以上に素早く、あっという間に僕の身体を飲み込む。
「お、おい! 僕を何処に連れて行く気だ⁉︎」
しかし、鼠の群れはそのまま僕に危害を与えるでもなく、ただ僕の身体を何処かへ運ぶように高速で海の中を移動していく。
僕は何とか群れの中から抜け出そうと暴れるが、身動きも取れないほど鼠が密集しているため、動くことすらままならない。
「クソッ! このままじゃあ、ロバーツさん達が……っ!」




