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予備校の中心で愛を叫ぶ

 


 目が合って、逸らされて、避けられた。ただそれだけのことだった。だがそのなんてことはない彼女の方向転換は、世界の終わりと同等の深い絶望をもたらした。


 でも、そこで終わりじゃなかった。どうしてもここで終わりにするわけには、いかなかった。


 ――もらった言葉が、背中を押した。


『性悪説とか性善説とかいうけど、ほんとはみんな、弱いだけでさ。そういう人の弱さを、きくやんなら分かってあげられるから。だから心配しなくて大丈夫だよ』


 田辺の言葉で、自分に絶望せずに済んだ。

 照れくさいけど、本当に救われた。


『私は私を憐れんだりしないので』


 そんな言葉で、平野の強さを知った。


 同じように、強くなりたいと思った。


『過去は、自分だけのものだから、人にとやかく言われるもんじゃないだろ』


 ミライの言葉が、気持ちを楽にした。


 悩み過ぎていた自分が、バカみたいだと思った。


『自分に自信がないからって人の気持ちまで勝手に決めつける。自分の気持ちをぶつける勇気も、相手の気持ちを聞く度胸もない。否定されたくないからって、先回りして、自分で自分を否定する。最低だよ。そんな人間と誰も一緒にいたいなんて思わない』


 リンだけが、俺を傷つけることができる。


 変わりたいと、心からそう思わせてくれる。


 もらった言葉の数々が、俺の弱い心を引き留めて、奮い立たせてくれた。




「リン、待って」


 気が付くと、喉が震えていた。


 リンの着ている黄緑色のセーターが秋らしい鮮やかな色合いで。快活なリンの人柄とよく合っているように思えて。俺はその服を一度も見たことが無くて。


 それだけのことで、心がガラスのように壊れやすいということを嫌というほど思い知らされる。


 リンは少しだけ。ほんの少しだけ歩を緩めてくれた。だから俺はすぐ、人生最大の勇気を振り絞って、「俺がわるかったっ」と叫んだ。


 思っていた以上に大きな声が出て、周りの人の視線が集まる。でもそんなことはどうでもよかった。震える足で一歩だけリンに近づいた。


 どうして現実というのはこんなにも唐突に、何の心の準備もさせてくれず、試練の時を寄こすのだろう。


 リンはまだこっちを見てくれない。俺はすっと息を吐いてから、背中に話しかけた。


「その。前に動物園に行ったとき、俺の勝手な思い込みで振り回して。あと、その後会ったときもっ。せっかく俺のためを思って色々言ってくれたのに、全然わからなくて……」


 語尾が震えて、指先が冷たくなる。喉が渇いて仕方がない。


 顔には動揺が、目には怯えが溢れていることは、どうしようもなくわかっていた。


「最近、やっとわかってきたんだ。みんな色々あって、それでもみんな必死に生きてるんだって。世の中のいざこざが起こる原因の大半は、ちょっとした誤解とか、コミュニケーションの怠惰とかで。でもみんなそれがわかってるから、わざわざ言わなくていいことは言わなかったり。言わなきゃいけないことは、当然だと思っててもあえて口に出したりしてて……。その、ごめん、話が逸れた。えっと、ともかく俺が悪かった。ごめん」


 予備校の廊下の強すぎるくらい明るい電灯が、彼女を照らす。血管の隅々まで透けて見えそうなくらい強い光なのに、彼女の心は全然見えない。


 いつまでもこっちを向いてくれないリンがどんな顔をしているかわからなくて。


 瞼の裏に在りし日の彼女を思い描けば、あの日の冷たい表情をありありと思い出すことができた。


 ――『何の話? キモいんだけど』とか。


 ――『あー、うぜぇ。そういうのいいから』とか。


 そんな言葉を言われるかもしれない。このまま走って逃げられて。もう二度と、言葉を交わすことさえできなくなるかもしれない。


 期待しなければ傷つくこともない。それが俺のモットーだったはずなのに、今は不確かなそれにすがりついていなければ、立っていることさえままならなかった。


 迫りくる闇を振り払うように。たった一つの結末に繋がるように。


 嘘も打算も諦めもない、本当の言葉を、俺は必死で紡ぎ出そうとした。


「俺さ、ほんとに。ほんとにリンがいなくちゃダメなんだよ。ごめん。ねえ、ごめん。リン……」


 言葉と一緒に嗚咽が漏れた。ぽろぽろと涙が溢れる。


 審判の時を待つ罪人のような心地でいると、リンが何かぼそりと言った。


 一言も聞き逃さないようにと、リスニングテストのとき以上の集中で。人生で一番耳をそばだてていたのに、リンがなんと言ったのかまったく聞き取れなかった。


「ごめん。なんて言った? もう一回……」


 掠れる声でそう尋ねたのを遮って、リンはこちらを振り返り、大きな声で言った。


「なんでウチが怒ったかわかったっ?」


 煌々と灯る照明の下。リンの顔は、涙でぐしょぐしょだった。


 その顔を見た瞬間、俺も涙が止まらなくなった。


 一つ仮説があった。


 ――たとえば俺を、幼馴染の腐れ縁だと見ていたら?


 ――たとえば俺を、出来の悪い弟くらいにしか思っていなかったら?


 リンはあんなふうに怒ったりしなかったんじゃないだろうか……。


 続きは、ぜんぶ言葉にした。考える時間が、もどかしかった。心と声との間にフィルターなんかつけない、透明人間でありたかった。


「リンは短気でも、暴力的でもないから。小学生男子みたいなとこもあるヤツだけど、それでも、いきなり他人の背中に飛び蹴りをするような人間じゃないって……。俺は、知ってるから。だからっ。だから、リンが、俺に怒ってくれたのは、俺のことを心配してくれたからだって。そう、思った」


 涙が邪魔で仕方なくて、袖でごしごしと目をこすったけれど、次から次に溢れ出してキリが無かった。


「ほんとに、わかった? もうしない?」


 リンの声はしゃがれた小さなものだったけれど、今度はしっかり聞こえた。


「うん。ほんとに、ごめん」


 リンはこっくりと頷いてから、「私も、蹴ってごめん」と泣きじゃくりながら言った。


 リンが俺を蹴ったことを覚えていてくれた。そんなことを心底嬉しいと思ってしまう俺は、もしかしたら変態なのかもしれない。


 リンは俺の手を取った。


「ほら、帰るよ」


 リンが笑ってくれた。ぐしゅぐしゅの顔で。でも、にこっと笑ってくれた。


 たったそれだけのことで。こんな俺だけど。こんな世界だけど。世界は光り輝いていて。ここは楽園で。すべてはこの瞬間のためにあったのだと。心からそう思えた。


 ふっと緊張が緩み、めまいがした。血がグルグルと自分の中を駆け巡り、視界が揺らぐ。気持ちが悪いのに、そのことすらも気持ちが良かった。


 緊張していた。たぶん、人生で一番緊張していた。前に受けた入試なんて、比じゃないほどに。自分の人生ぜんぶが懸かっていると、本当にそう思っていた。


 やっと終着点を見つけられた涙の粒たちは、ひかれあって、あわさって。ようやく一つになると、留まることなく流れ出した。


 人間がどうして教わってもいない涙の流し方を知っているのか。その理由が、なんとなくわかったような気がした。





*****************


最近、タイトルをもう少し練ってつけるべきだったのではないかと今さら後悔しております。

話ごとのタイトルも、全体のタイトルも、

もう少し良いのあったような……

と今さら悔いております。





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