俺は友達が少ない
色んなものを含んで埃っぽい秋の風が、鼻先を掠めていく。銀杏の匂いは昔ほど苦手ではなくなっていた。予備校の通常授業が始まって数週間が経つという頃、例年より少し早めに訪れた秋の気配に俺は少し焦っていた。
もうかれこれ二か月はリンと話していない。
それどころか、授業以外ではほとんど姿を見ることもなくなっていた。
意識的に俺のことを避けているだけならまだいい。いや、むしろその方がいい。リンが本当に俺のことを忘れてしまっていたら……、と考えると気が気ではなかった。
暗澹たる気持ちを抱えたまま、ぐっと足に力を入れて立ち上がる。空き缶を捨てラウンジを出た。受験もいよいよ近づいてきた。一向に好転する気配のない現状を前に、俺は些か弱気になっていたが、いつまでもここでじっとしているわけにもいかなかった。
その日の帰り。俺は平野と出会った。
無論、それは偶然のことで、たまたま予備校の帰りが重なったというだけのことだ。
「あら、お兄さん」
一週間の授業を終え、いささかの疲労と解放感に浸る俺に、悪魔あらため弟の彼女の声がした。
「遅いな。もうちょっと早く帰れよ」
時刻は予備校の自習室が閉まる時刻。つまり、九時を回っている。制服姿で歩き回るにはいささか不安な時間だ。
「あら、心配してくれてるんですか? じゃあ送ってってくださいよ」
「駅までな」
「はいー」
二人並んで、夜の街を歩き出す。ヘッドライトの明かりが俺達の背中を照らし、追い越して、次々と闇に消えていく。
「遠距離恋愛の調子はどう?」
平野と次に会ったらこんな話をしようと気には留めていたから、疲れた脳でもすらすらとセリフが出た。
「『物理的距離が精神的距離に影響を与えないことを証明する』、とかなんとか言いだして。なんだかんだ、お兄さんとミライ君て兄弟なんだなと思い知る毎日です。けっ」
「ぐっ、言いそうだなと思ってしまった自分がいる」
「そんな与太話はさておきお兄さん、さっさとリンさんと仲直りしましょうよぉ」
「なんで仲直りしてない前提なんだよ」
「仲直りしてたら今頃、お兄さんの隣には私ではなくリンさんがいるはずです」
「相変わらずの名推理に脱帽だよ」
平野と別れ、電車に揺られ、改札を出て生まれ育った町へと帰ってくる。
悶々と仲直りの方法を思案しながら帰ってくると、あっという間に家の前にたどり着いた。
ドアを開ける前に、すぐ目の前の、リンの家を見る。
ずっとそこにあるのに、絶対にこの距離は変わらない。地殻変動とかで、一年に一ミリずつくらい近づいたりしないだろうかと思うが、そんなことは絶対に起こらない。
だがそんなことを考えてしまうくらい、近くて遠いクリーム色のその家は、おとぎ話の中のものみたいに浮世離れして見えた。
幼い頃は何の躊躇もなく、「リンちゃん、あそぼ」とチャイムを鳴らせた。しかし今は、そんな郷愁も虚しいばかりだ。建設的に、仲直りのシミュレーションをしなければならない。
自室に戻ると、気が抜けたのかどっと疲労感がやってきて、もう今日は勉強するのを諦めることにした。集中できない時は、無理に詰め込んだって無意味だろう。それより、この胸のわだかまりにそろそろ決着をつける方が何倍も有意義だ。
まず俺は、入念にネットサーフィンをすることにした。
この世の大概のことは、ここに答えがある。受験にスマホが持ち込めたら満点だって夢じゃない。……いや、そうでもないか。
しかし、ストレス解消法についてのアンケートは役に立ったという経験則がある。一概に無意味とは言い切れない。
「ネット」改め「賢者の書」によると、まず、男女で仲直りの方法は大きく異なるようだった。
そして、相手との関係性。つまり相手が彼女なのか女友達なのか。はたまた妻なのか娘なのかどうかでも大きく異なる。
俺は「女友達」と「彼女」についての仲直り方法を入念に調べ上げ、その結果「女友達」との仲直り方法を実践することにした。
今回の対象を攻略する仲直り必勝法は、俺の綿密なリサーチによれば、次の四つに分けられる。
――パターンA。双方の意見交換を行い、互いが納得できるよう努力する。
出来るビジネスマン風な意見だが、要は話し合うというだけのことだ。
『お互い悪いところを認めあって、謝ることによって仲直りをした』とネットには至るところに記されている。そこに至る方法を知りたいのに、まったく参考にならない。
というか、それは「仲直り」の言い換えだろう。むしろそれ以外を「仲直り」とは言わないだろうと。俺は冷静にツッコミを入れたい。
――パターンB。サプライズプレゼント。
これは、吊り橋効果と餌付けの合わせ技だ。驚かせることで、相手の心を揺らし、ドキドキを錯覚させる。すなわち、壁ドンと同じ原理。
そこにさらにプレゼント。つまり目に見える対価を支払うことで。身を切って、相手に奉仕することで、見返りとして許さざるを得ない状況に追い込む。
……人間としてサイテーな手段だ。
パターンAの対極。これは仲直りではない。こんな物欲にまみれた解決方法ではあとあと、同じ理由で喧嘩するに決まっている。だがこのあとパターンAに持ち込めるなら、きっかけとしてのパターンBはアリだろう。アリよりのアリだろう。
よくよく思い出せば、平野をアイスで買収したのも同じパターンだ。
――パターンC。少し距離を置いて、お互い冷静になるまで待つ。
俺の場合、少しじゃない。もうだいぶ時間置いた。というかもう、置きすぎてしまって、熟成なんていう段階を通り越して腐ってしまいそうな勢いだ。これがカップルだったら、確実に自然消滅している期間だ。いや、友情も自然消滅してても不自然じゃないが。
――パターンD。メール、ラインなどで謝る。
『喧嘩をしている時は一つ言葉選びを間違えるだけで、余計に関係性がこじれてしまい、仲直りどころではなくなる危険性があります。相手の受け止め方などを十分に考慮し、言葉を選ぶ余裕のあるメールというツールを使って率直な気持ちを伝えるのは、おすすめの仲直り方法です』
……これだな。
俺は確信した。口下手な俺にはぴったりの方法だった。
……パターンCはもうやったとして、AとBとDの合わせ技が良いのではなかろうか?
……思考はまとまった。
俺は翌日、昼食時に田村にこのアイデアを相談することにした。
「固め、濃いめ、多め。人はこれを早死に三段活用と呼ぶ」
と、ドヤ顔で語る田辺に連れられて、家系ラーメンの店にやってきた。今日は土曜日でもう授業はないからこのまま帰ると言って、田村はニンニクをたっぷり乗せている。
――いいか? わさびはそばつゆに溶かさず、お蕎麦に直接つけて食べるだろ。それと同じように家系ラーメンでも、にんにくはスープに溶かさず、麺に乗せる。もしくは海苔で包んで麺と共に食べるのが通のやり方なんだ。
――そばと同じで、味の変化を楽しんでいくことこそが家系の醍醐味なのだ。最初からなんでもかんでも入れたらあかん。途中でショウガを投入し、最後に酢を入れるのがおすすめだ。
家系というのを食べたことが無いと言った俺に、田辺は持論を語りまくった。別にこだわりがあるわけでもないので、すべて言われた通りにやってみたが確かにこれは食べ方も重要だと思った。俺は特に酢を入れるのが好みだった。
ラーメンもほとんどなくなり田辺が白飯のお替りを頼んだあたりで、俺は昨晩練りに練ったプランを語り始め、ちょうど完食する頃にそれを話し終えた。
「……というわけで、俺はリンに手紙を出そうと思うんだ。このプランX、どう思う?」
「よし、ツッコミどころが多いから、とりあえず、順番に言うな」
「オッケー頼んだ。率直な意見を聞かせてほしい」
「まず、お前の周りには弟の彼女とオレしかいねえのかよ」
何を今さら分かり切ったことをと思ったが、順番に指摘するというのだから仕方がない。
「そのツッコミは適切だ。だからネットで検索するしかねえんだよ」
「電子の海に答えを求めるんじゃないよあんた。腹割って、肉声で話すからこそ、分かりあえることもあるだろ」
「お前の持論からはアルコールの匂いしかしねえよ」
「きくやぁん、人間関係にマニュアルはねえんだよ。セーブできない人生なんだよ。ぶつかるしかないんだよ」
「酔ってるのか? ラーメンですら酔えるのかお前は?」
「分かるかきくやぁん、人生にエチュードはねえんだよきくやぁん。というか、手紙で謝罪って、反省文かよ。停学状態かよ。そんな古風で出オチな方法はやめろ。笑っていいのかどうかすらわからない中途半端な空気になったら一番やべぇぞ」
「まてまて、肉声じゃうまく話せる自信がねえんだよ。だがしかし、電子ではこの想いは伝わらない。そこで折衷案としての手紙なわけだよ。やっぱ絵文字ごときに俺の気持ちは託せねえ。手書きだよ、大事なのは」
田村につられて俺まで酔っ払いみたいになる。
「まじでやめろ。冗談抜きでまじやめろ、きくやん。それは痛いヤツを通り越してヤバいヤツだ。プランXじゃなくて、プランバツだ」
「くはは、面白くねえ。プランXの『X』は、パターンA、B、Dのクロスの『X』だ」
「ハハハ、いやそれも面白くねえ。きくやんはぜったい便箋選ぶだけで一か月はかかりそうだし、下書きにすら二か月かけそうだから、受験までに決着をつけるためにも直接さっさと話してこい」
田辺は時々、俺より俺のことをわかっていることがある。だからいったんは素直にそのアドバイスを、胸に留めておくことにして、今日の予備校帰りに便箋を買いに行くのはやめることにした。
翌日、俺はリンに会った。
それまで会えなかったのがウソみたいに。まるで天命のように、俺は彼女を見かけた。
夕方ごろ、ラウンジでジュースを飲みながら休憩をしていた俺は、何か気配を感じ、ふっと後ろを振り返った。
するとちょうどそのとき、リンがラウンジに入ろうとしていたのだ。
何年振りかと思うほど久しぶりに、俺はリンの目を見た。透き通った、綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。
けれどリンはすぐに目を逸らし、顔を背け、体を翻した。俺の姿を認めるや否や、そのまま回れ右をして、彼女はラウンジを去っていった。いつか、平野から逃走した時の俺と同じように。
隣で缶コーヒーを飲んでいた田辺にすかさず背中を叩かれた。
「チャンス到来だな。行ってこいよ」
「いや、どこがチャンスだよ……。今のは完璧に避けられてただろ。その目は節穴か」
「大丈夫だって、きくやん」
田辺に物理的に背中を押され、俺は椅子から降りた。
「心配しないで、思いの丈を伝えてこい。あとのことは伝えてから考えろ」
田辺がまっすぐに俺の目を見て言う。
逃げるなよ、と。そう言われているみたいだった。
小さく頷き、「行ってくる」とだけ言って、俺はリンを追ってラウンジを出る。
背中に、「また明日な」という田辺の声がかかり、足が速まる。
廊下を歩くリンの姿を見つけると突如、視界がゆがみ始めた。
この一瞬にしか君はいないはずなのに。無数のリンが、幾重にも現れては立ち消えて。追いかけては消えてゆき。蜃気楼のように瞳を惑わせる。次第に残像は折り重なり、混ざり合い、像は一つに結ばれた。
この瞬間にだけ存在する君の元へ、俺は走り出す。
あの日止まっていた時間が、ついに動き出した。




