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ミライの未来

 


「大和」という名前は、父がつけたそうだ。


 菊池家の長男には昔から、「大」という漢字を名前に入れることが多かったからだそうだ。たしかに父の名前にも、祖父の名前にも「大」という漢字が入っている。


「未来」という名前は、母がつけたそうだ。


 母さんがいつかぽろりと言っていた。


 ミライが生まれた時、すでに父と母の関係はあまり良くなく。俺は病気がちで、ちょっと気温が下がるだけですぐに咳が止まらなくなってしまうような子どもで。ずっと気が抜けなかったのだ、と。


 そんな頃に生まれた次男に、父は一人目は自分が名前を付けたから、二人目は母が付ければ良いと言ったそうだ。


 そして母は、彼に「未来」という名前を付けたという。


 ――幸福な毎日がこの子に訪れることを祈って。


 ――幸せな未来を家族にもたらしてほしいという願いを託して。


 俺はその話を初めて聞いたときからずっと、弟の名前にさえコンプレックスを抱いていた。「ミライ」という名前を聞くだけで、劣等感で胃がねじ切れそうだった。自分は生まれた時から愛されていなかったのだと、否応もなく思い知らされた。




 ミライの出発前。家族四人で食事に行くことになった。


 朝から自習室に籠っていた俺は、秋晴れの心地の良い日差しを存分に楽しみながら、ゆっくりと街を歩き、待ち合わせ場所の焼肉屋へ向かった。


 高級感を演出しようとしてか、昼だというのにどこか薄暗いその焼肉屋の店内に入ると、三人は出入口近くのテーブルに案内されていた。


「おっきた」とミライが言う。父と母は「ああ」と「おお」の間のような声を出し、俺も似たような声を出し、椅子を引いて席に着く。


 最初の注文はすでに済んでいて、すぐに肉が運ばれてきた。


「とりあえずどんどん食べようか」


 母の言葉をきっかけに父は黙々と肉を焼き、俺とミライは次々とそれを口に運んだ。


 久々に食べるタン塩はずいぶんと美味しかったが、素直に「うまい」と言うことは難しかった。しばらくぶりの四人の食事は何だかおかしな感じがして、一緒に食事をしなかった数年間がそのまま気まずさにつながっているような気がした。網の上に備え付けられた煙を吸うダクトが、この気まずい空気も一緒に吸い上げてくれればいいのにと思う。


 そんな感傷的な俺をあざ笑うように、ミライはばくばくと焼肉を食べ続ける。「ドイツって焼肉あるかなぁ」なんて。のんきに言って。


 ミライの清々しいまでの食いっぷりを見ていると、俺もなんだか次第に阿保らしくなってきた。


 気にせず食べまくることにした。気まずくなるのは、子どもの役目じゃないと思った。


 これでしばらくお別れだというのに大した話もなく、ただ黙々と肉を食べ続ける俺達を、両親はなんだか微笑ましく眺めていた。ずいぶん身勝手な話だなと思ったけれど、気づかないふりをしてご飯をおかわりした。


 ミライも一緒に二杯目のご飯をおかわりする。


 十代の食欲におののく自分はもういなかった。


 自分もまだ十代だったことを思い出した。




 食事を終えて、四人で外に出た。両親は駅へと向かって少し先を歩く。その後ろを、俺とミライはプラプラとついていく。この2セットの距離感は昔から変わらない。ただ、前を歩く二人の距離感はもう家族の距離感ではなかった。そのことに何も思わない俺ではないけれど、どうしようもないことであるから気にはしなかった。


 俺は「繊細」であることを積極的に放棄し、意欲的に「無神経」であろうと努めていた。


 粗野でガサツで、痛みを知らない。そんな、嫌悪し唾棄すべきと思っていたモノに、俺は自らなろうとしていた。


 雨のまま空は明るくなってきて、いつのまにか狐雨になっていた。鼠色の雲は逃げろ逃げろと彼方にある。でも、雨はまだ降り続いていた。


 ――じきにやむだろうか。それとも、すぐにまた次の雨雲がやってくるのだろうか?


 傘の外にそっと手を出し、水滴をぎゅっと握りしめた。


 もうすぐ駅というところまで来てからミライが「そだ、しばらく会わないだろうから、言っとくけどさ」と、ややこちらが不安になる前置きをつけて話し出した。


「オレが八方美人になったのは、兄貴たちのせいでもあるんだから。オレを責めるのはお門違いだよ」


「どういう意味だよ?」


 少しだけ毒をはらんだ言葉とは裏腹に口調は明るく、だからこそ俺は余計に、ミライが何を言いたいのかがわからなかった。


「父さんは無愛想で気が利かないし、母さんは普段大人しいくせにいきなり逆ギレしてくるし、兄貴はそのハイブリットだし、オレが間を取り持とうとすんのも当たり前だろ。ったく、こっちの気持ちもちょっとは考えてくれっつの」


 ミライはたわいのない話だとばかりに陽気に言うが、こちらとしては衝撃的告白だった。


「別に、誰も頼んでねーよ」


「それはそうだけどよ、兄貴がオレのことを八方美人ていう資格はねーっつう話だよ」


「そーかもしんねえけど、平野みたいなめんどくせえのと付き合ってんだから、やっぱりお前は好きでやってんだよ。八方美人」


「兄貴ほんとオレの前でメイのことわかったように喋るのやめろよな。あいつあれで面倒見いいし優しいから。ちょっと素直じゃないだけでほんと超いい子だからな」


「ハハ、のろけかよ」


 ミライは昔と同じようにクフフと肩を上下させて笑った。今まで何度も見てきたはずのその仕草が急に懐かしく思われて。なんてことないみたいにカラリと笑う弟も、旅立ちを前に少しは緊張していたのかもしれないと思った。


「ま、過去は、自分だけのものだから、人にとやかく言われるもんじゃないとは思うけどさ」


 ミライは自分に言い聞かせるように凛とした声で言った。


 前をゆく両親の背を見つめるその横顔に、察しの悪い俺も気づく。こいつは妙な全能感があるから、そのぶん、周りで起きた色んなことを自分のせいだと思ってしまうのだろう。


「……だから兄貴も、今を生きろよ」


 ミライはぽつりと言った。そこに嫌味がないことは分かっていたから、俺は「ああ」と小さく頷くだけだった。


 駅の構内に入ってから「あ、あとさ。こないだリンちゃんと会ったんだけど」とミライは思い出したかのように言い出した。


 だが、それは今思い出したのではなく、言おうと思っていてここまで出し惜しみをしていたのだと俺はすぐに見抜いた。


 色々と聞きたくなるのをぐっと堪え、何とか心の上澄みを使って「へー、それで?」と絞り出した。


「兄貴のこと、気にしてるみたいだったよ。連絡してみたら?」


 何もかもお見通しといったこいつの笑顔に、俺はやっぱり余計なお世話だと思った。


 こういうところがこのバカップルは似ている。


 ――お前に言われなくても、連絡しようと思えばいつでもできるんだぞ。


 そう思ったが、まったく保証はできないので口には出さないでおいた。


 改札まで来た。ミライは「じゃ」と手を上げて中へと入って行った。


 俺は最後だからと精一杯努力して、「がんばれよ」と小さく言った。ミライは一瞬、あからさまに驚いた顔をした後、「兄貴もな」ともう一度手を振った。


 やはり時々は、素直になるのも悪くないらしい。そう思ったが、そう思っていることをミライに悟られたくなくて、俺はさっさと身を翻し、予備校に戻ることにした。




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