素直になりたいキャンペーン
机とベッドと本棚があるだけの狭い部屋に、窓を開けて夜の空気を入れる。
少しすると夜風にカーテンがそよぎ、中と外の境界は曖昧になった。
他人と家族の境界が曖昧であるように。善意と悪意の境界が不確かであるように。この部屋は俺の孤独を守ってくれる強固な城壁ではすでになくなっていた。
ベッドに横になって天井を見上げていた俺はむくりと寝返りをうち、縁の木製部分を指でそっと撫ぜた。
ベッドの縁には少し高さがあり、幼児が落ちないための柵の役割を担うかのように映る。今ではこんなものあっても乗り降りが面倒になるだけだが、以前はそれなりに重要な役目を果たしていた。元々このベッドは二段ベッドだったのだ。
俺は二段ベッドの上で眠りにつき、その下ではミライが夜を過ごしていた。
それは今ではずっと遠い昔のことのように思える。元より六畳もない正方形の手狭な部屋だが、昔はミライがいたのでもっと窮屈だった。
――この部屋が初めて俺だけのものになった日、俺はどんなことを考えていただろう?
想像することは容易くできるが、思い出すことは難しい。
あの日あの時、この場所で感じた焦燥感と孤独をあの時と同じ熱量で思い出すことは、どうしたって不可能だった。
俺は意を決し、スマホを手に取った。
粉々になった画面は俺の決意を鈍らせようとするが、リンに電話するよりはまだマシだと自分を励ましぐいぐい操作を進める。
すぐに通話が始まったのを確認し、俺は急いでスマホを耳の傍まで持ち上げた。
『……おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません。おかけになった電話は……』
その電子機器からは、慌てた俺を嘲笑するかのように、電子的な音声が流れてくるだけだった。
これはもしや着拒されているのではないかと考え始めたが、悩んでいるとやはり決意が揺らいでしまいそうで、俺は早々に最後の手段に出ることにした。母親のケータイに電話を掛けることにした。
『プルルルル。プルルルル。プルル……』
三度目の呼び出しが終わる前に、電話はつながった。
『もしもし。ヤマト、どうしたの?』
その声には心なしか、動揺が滲んでいた。
――きっと、オレオレ詐欺か何かを疑っているのだろう。
俺はそう思い込むことにした。
『ちょっとミライに用があるんだけど』
『ミライ? どうしたの、何かあった?』
『なんでもない、今度海外行くって聞いたからそのこと。別に大した用じゃない』
『そう? そういえばこないだ二人でご飯行ったんだものね。よかった、突然ヤマトから電話だから、何かあったんじゃないかってびっくりしちゃって』
『オレオレ詐欺とか、ひっかかりそうだから、やめて』
自分で言っておきながら、いったい何を「やめて」ほしいのかわからなかった。
電話だと、逃げ道がない。こっちが言葉を紡がないと次の言葉がやってこない。
どうして母親と話すだけで、俺はこんなにも動揺してしまうのだろう。
『そうね、気を付けないと。そうそう、ごはんちゃんと食べてるの? 体調崩したりしてない?』
『別に。なんも。それで、ミライいる?』
『ああ、ごめんごめん。ミライね。ちょっと待って』
『ミライぃー。ミライぃー』と母の声が遠くに聞こえ続けて『はい、お兄ちゃんから』と声が揺れた。
『は? なんで?』
『留学のことだって』
そんなやり取りが雑音混じりに聞こえてくる。
二人の住む家に、俺と父は一度も足を踏み入れたことが無い。どんなところでどんな暮らしをしているのか、残された俺達には想像もつかない。でもそれはそれで、一つの救いだった。
『もしもし』
ミライの声がした。彼らしくない声だった。
『俺だ。話がある。今いいか?』
――俺だってなんだよ?
普段の自分なら、そうツッコミを入れる。だが俺は弟に対して、なんと名乗っていいのかが分からなかった。「俺」以外の一人称を、どうしても見つけられなかった。
『ああ、うん。いいけど』
ミライは歯切れ悪く言った。
『この前の件だけどな。平野は絶対に浮気なんかしていないし、俺は絶対にリン以上に平野を好きになることは無い。誓う。命を賭けてもいい。証拠は、俺はリンが世界で一番好きだってことと。平野が優しいヤツだってことだ』
勢いだけで、ずいぶんと恥ずかしいセリフを言い切った。一番言いたいことが最初と最後の段落に来るというのは、英語長文でよくある流れの一つだが、それと同じ戦法だった。言いたいことは、まず一番初めに明確にしておかねばならない。
『……なんでメイが優しいことが、浮気じゃない証拠になるんだよ』
少しの間があってからミライが拗ねた調子で問うてきた。
俺はその質問に対する返答をあらかじめ用意していたが、待ってましたとばかりに答えるのも違うと思い、一呼吸置いてから答えた。
『平野は俺のことを心配して、イルカセラピーで癒されたらいいんじゃないかって気を遣って水族館に誘ってくれたんだ。動物園で揉めたことに責任感じて。自分が煽ったからって思って。それで俺が元気出るようにって息抜きに誘ってくれただけなんだ。ほんとは俺みたいな根暗と二人で出かけるのなんて死ぬほどイヤだったろうけど。大事な彼氏の家族だからって、関係性を改善しようとしたんだ。だから……』
口を挟ませないように、あえて言葉を中途半端なところで切り上げる。ここだけはどうしても伝えなければならないところだった。胡散臭いコミュニケーションのテクニックでも、相手を騙して言いくるめようとする欺瞞でも、兄という立場を利用した衒学的な口調だとしても。どうしたってこれだけは伝えなければならなかった。
『だからぜんぶ、お前の早とちりで、勘違いだよ。心配すんな。平野はお前が好きだから、兄貴の俺とも仲良くしようと努力してくれただけなんだよ。だから、心配すんなよ』
受話器の向こう側からは、しばらく何の音もしなかった。
電話が切れてしまっているのではないかと不安になって、つい「もしもし」と言いたくなったが、俺はそれをじっとこらえ、次の言葉を待った。
『……昨日、連絡がきたんだ。メイから』
ミライは小さな声で話し始めた。
『何があったか知らないけど、今回は珍しく兄貴が悪いわけではなさそうだから、仲直りしなさい。って』
平野らしい暴論だと思った。痴話喧嘩と兄弟喧嘩の発端が同一であることを彼女は見透かしていたのだろう。
『普段は勘が良いのに、自分が原因だって微塵も気づかなかったんだ。それはたぶん、メイは何も、やましいところがなかったからで……』
語尾がすーっと小さく消えていく。
言いたいことはもう十分わかった。
『オレの、早とちりだった。ごめん。……二人で水族館行ったことは、やっぱり嫌だけど、それでも浮気を疑うのは間違ってた。ごめん』
ミライの声はようやくいつもの感じに戻ってきた。
明るくて、まっすぐで、芯のある。羨ましいくらいに綺麗な声に。
『いや、俺も……悪かったよ。二人で水族館行く前に、一言お前に断るべきだった』
俺は少し、いじわるを言いたくなった。
『え、いやまて、事前に言われたらオレ止めてたからな。全力で。普通に考えろよ。オレ明日、お前の彼女と二人で水族館行くわ。って言われんだぞ。止めるだろ。すくなくとも一緒に行くって言うだろ?』
どうやらミライは俺の言葉を冗談とは受け止めず、本気と受け止めたらしい。俺のほうもこれを「ジョーク」と受け止めるのか、はたまた「マジ」と受け止めるのか分からず、試金石として河に放り投げてみた訳だが、予想を裏切らない反応が愉快だった。
『いや水族館はセーフだろ』
『いやアウトだから。水族館はアウトだから。映画館もカラオケもボーリングも全部アウトだから』
『じゃあ逆に何ならセーフなんだよ?』
『ファミレス、もほんとはアウトにしたいけど、ファミレスならセーフ』
『はあ? じゃあコンビニのイートインは?』
『セーフ、って兄貴行ったのかよ?』
『鬱陶しいなぁ。そんなに支配欲強いとほんとに嫌われるぞ』
『彼女のいない兄貴にはわかんねーよ』
痛いところを突いてきやがる。兄弟というのは容赦がないから良くない。源頼朝が義経を殺したくなるのも当然だが、ここは年長者である俺が大人になるしかない。今日は和解のために自ら電話したのだ。
『俺はお前の嫉妬深さがだんだん愛おしくなってきたよ』
『はぁ? ともかく、今後は禁止だからな。二人で出かけるの』
『わかったって』
しつこく嫉妬してくる弟に、俺はいよいよ本当に愛情が芽生えそうだった。この社会不適合なダメ浪人生を好きになる女子なんかいるはずがないというのに、彼はずいぶんと俺を高く評価してくれているらしい。
『それと、動物園の件、オレが悪かったよ』
『……は? お前は何も悪くねーだろ』
話の振り幅の大きさについていけず、つい思ったことがそのまま声に出た。
その件はずいぶん前に電話で謝られている。すでに終わった話だ。
『いや、あの場でオレだけが知ってたわけだろ。兄貴がバスケ部のときのこと気にしてるって。だったら、女子二人があれこれ言い出す前に、オレが何とかすべきだったんだよ。その責任が、オレにはあったんだよ』
俺が謝らなくてはならないことはたくさんあっても、謝られる筋合いはなかった。
でもやっぱり素直には言えなくて、『お前、ほんとに俺を殴った人間と同一人物かよ?』と茶化した。
『それとこれとは話が別だって』とミライは納得していない様子で、誤魔化すことを許してくれない。仕方なく俺も腹を割って話してみることにした。『別に、前は悪くないよ。俺がいつまでもコンプレックスを乗り越えられないだけだ』と。
しかし直後、
『これがほんとのブラコン?』
とミライは笑った。
見事にやり返されて、ずいぶんと恥ずかしい。
『目の前にお前がいたらぶん殴ってやってたな、今のは』
『うん、電話だから言った』
『あーあやめだやめだ。チャラいくせにメンヘラストーカー気質の弟にコンプレックス感じるバカがどこにいるんだってんだ』
『オレはチャラくねえし、メンヘラでもねーよ。一途なだけだ』
『そう言って変な女に掴まって歪んだ愛情表現しちゃうとこがメンヘラだっつうんだ』
『本物のメンヘラは恋人置いて海外なんか行けねえっつの』
ミライのその言葉に、俺は一つの疑念を思い出した。
『そう、だいたいなんでお前はそんなに彼女が大事なのに、海外なんか行くんだよ? 日本でだってお前は十分生きていけんだろ』
ミライは俺の聞きたいことがすぐわかったらしく、
『なんか、オレが生きる場所ってほんとにここなのかなって思っちゃってさ。嫌いではないんだけど、しっくりこないっていうか。やっぱ一回きりの人生だからどこで何して生きてくかはちゃんと選びたいなって』
と答えた。
チャラついたことを言う弟に対し、『私立文系大学生が言いそうなことを言いやがって』と国立文系志望の浪人生である俺は、熱い偏見と先入観と共に毒を吐く。
『テキトーに大学行って、テキトーに就職して、結婚する。子どもが出来て、老後を迎える。そうやって普通に生きるのが難しいのはもちろん知ってるけどさ。親が離婚してるし。でも、オレの人生、ほんとにそれでいいのかなって考えちゃって』
『うーむ、普通に生きるのもままならない俺には全く理解できない発想だな』
『兄貴は兄貴だから別にカンケーないけどさ。オレはこの道がどこまで続いてるか知りたくなったんだよ。オレはたまたまここで生まれただけでさ、どこで何をして生きていくかまで誰かに決められたわけじゃないんだって。人間てほんとはもっと自由で、やろうと思ったら色んなことが出来るんじゃないかって。メイを見てたら、オレももっと自分の可能性に挑戦したいって思ったんだ』
ミライは流暢に自分の思いを語った。
『ふーん。……ふふ。くふふ』
身体の底の方から、笑いが溢れてきた。でもそれは、ナチュラルに意識高い系な弟に対する嘲笑ではなかった。
最後の一言だけはどうにも納得いかなかったし、彼の抱く万能感はきっとどこかで挫かれるんだろうなと冷めた目で見る自分もいたが、あっけからんとしたミライの声を聴いていたら、どうしようもなく腑抜けた笑いが漏れてきたのだ。
『ふふ……わかったよ、良いと思うよ』
こんなに何もかも持っているくせに、「何か違う気がする」というその衝動だけで、環境を変えようとする弟は、嫉妬も羨望もできないほどに自分とは違う生き物だった。きっとこいつはそのうち「地球も何か違うなって思ったわ」とか言って、宇宙にでも行くんじゃないだろうか。
そう言えば、昔からミライはそうだった。カッコつけてばかりで、家族にさえいっつもどこか本音を隠しているようで。そういうキザなところが心底苦手だったけれど、こいつはほんとに生まれつきカッコいいだけなのかもしれない。俺は何だか色んなことがひどくアホくさい気がしてきた。
『なあ、お前さ。彼女の趣味サイアクだと思ってたけどさ……』
『うるせぇ、そういうことは彼女作ってから言え』
何も言い返せないので、何も言い返さない。聞き流して先を続ける。
『まあでもやっぱり、平野はそんな悪いヤツじゃねーわ。すくなくとも、お前が別れた後も俺はあいつとたまに喋りたい』
『何度も言うが、絶対あげないからな。てか別れねーし』
『何度も言うが、いらねーよ』
『兄貴はリンちゃん一筋だもんなぁ』
『ああ、一筋だよ。だから心配すんな。それより、ちゃんと平野とドイツの話したのかよ?』
『……まだ』
『なんでやねん』
ミライの意味の分からないボケは、俺の弱いツッコミではどうにも拾い切れなかった。
電話を切って、窓を開ける。
夜風はぬるくて、俺は窓を閉めて冷房を付けることにした。
――人間には誰にでも、絶対に侵されたくない聖域のようなものがある。
――絶対不可侵で、何があっても触れられたくない、清く安らかな孤独がある。
俺にとってそれは、恥ずかしい話だが、弟に対するコンプレックスなのだと思う。
自分をどうしたって劣っていると思ってしまい、誰からも選んでもらえない存在なのだと、そう思わずにはいられない原因。
それは俺が心の底で大切に抱きしめている感情で、誰にも触れられたくない部分だ。
そんなに厄介なモノなら早々に捨ててしまえばいいが、捨てることすらできないからこそ厄介で。醜くて、汚くて、嫌悪しているはずなのに大切で、狂おしいほど愛おしくて。
それがあるからこそ、俺は俺でいられる。
弟と母親に対する、ぬぐい切れないコンプレックスこそが、俺の人間性の根っこなのだと思う。
――「あたしが怒ってるのは、ヤマトが人と向き合わないで逃げたからだっ。昔からあんたはそうだ。自分に自信がないからって人の気持ちまで勝手に決めつける。自分の気持ちをぶつける勇気も、相手の気持ちを聞く度胸もない。否定されたくないからって、先回りして、自分で自分を否定する。最低だよ。そんな人間と誰も一緒にいたいなんて思わない」
あの日最後に、リンに言われたこと。
その言葉の意味が、いまならすこし、分かったような気がした。




