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落伍者の自己弁護

 


 人間には誰にでも、絶対に侵されたくない聖域のようなものがある。


 ほかの誰にも否定されたくない信念というか、美学があるはずだし、そこまで高尚なものでなかったとしても譲れないプライドがあるはずだ。


 誰もがそれを持つべきだと思うし、それがない奴は人間未満だとさえ思う。


 そしてミライにとってはどうやらそれが、恋人の存在だったらしい。


 あのハイスペックイケメンがまさかそこまで恋人に執着するタイプだとは夢にも思わなかったが、あの反応を見れば疑いようが無い。彼女の携帯のぞいて、浮気相手と思しき人物(兄)に暴力を振るうだなんて、メンヘラと言っても過言ではないだろう。


 昔からよく喧嘩する兄弟ではあったが、手が出る喧嘩は何年ぶりかも思い出せなかった。というか、陽キャのくせに、陰キャを殴るとは生意気だ。普通、普段は静かな陰キャがキレて、陽キャを殴ろうとして返り討ちに合う、というのがテンプレだろう。陽キャから先に手を出してはいけない。


 殴られた箇所は、なんだか嫌な色に変わっていたので、そのままにするのもどうかと思いとりあえず、家にあったハッカの匂いのする塗り薬を塗った。そのままだとベタベタするので、上からガーゼもつけてみた。白くて綺麗な布をつけて、上からテープで固定すると、なんだかそれだけで少し痛みが引くような気がした。


 ガーゼは昔から家にある救急箱の中にあったやつで、もうあと二、三回使ってしまうくらいの量しかなかった。最初にこれを用意したのは紛れもなく母親で、これが無くなったら新しく買ってきて、補充をするのはきっと自分の役目なのだろうと思ったらあまりに面倒で、これからは怪我をしないように気を付けようと思った。


 迷ったけれど、予備校にはそのまま行くことにした。どうせ俺のことなんて誰も見ていないし、顔にガーゼくらい大したことではない。マスクの位置が多少ずれているようなものだ。


 それに、もしかしたらリンが心配して声を掛けてくれるんじゃないかという下心も無いわけではなかった。




 リンの部屋を横目に家を出て、むしむしジメジメする電車に揺られ、相変わらず雨の降り続くビルの間を縫うように歩き、俺は予備校にようやくたどり着き、黙々と自習をした。


 そして気付くとすぐに、日が傾いていた。


 本日最後の休憩を取ろうかとラウンジに向かう。


 やはり心配は杞憂に終わり、すれ違う人の視線をうっすら感じることがあるくらいで誰かに喋りかけられることもなく、リンと会うこともなかった。雨だからもしかしたら予備校に来ず、家で勉強しているのかもしれない。同じ授業を受けていることもあるのだから、家の前や駅でばったり会いそうなものなのに、最近はめっきりリンを見かけることはなかった。


 ――もしや、意図的に避けられているのではないか?


 自分の思いつきに、俺はひどく落ち込んだ。


 ポジティブに考えてみる。


 ――避けられているということは、忘れられていないということじゃないか。一番怖いのは俺のことなんかすっかり忘れてしまっているというケースだ……。


 これまた想像して、俺は凹んだ。エレベーターに乗っていたのが自分だけであることを良いことに、「うっわぁ、つらぁ」と小さくぼやく。すぐに次の階で人が乗り込んできて、なんだか急に恥ずかしくなった。


 最上階でエレベーターを降りてラウンジに向かうと、差し込んだ西日の中に平野を見かけた。


 ――会いたいのはお前じゃねえっ。


 そう思うのと同時に、体を翻し、脱兎のごとく走り出す。なぜか今は平野に会いたくないと思った。避難訓練と同じくらいの自然過ぎず不自然すぎないペースで俺はトントンと階段を下った。一階にたどり着き、自動ドアをすり抜け、何とか予備校を出た。


 むっと立ち昇る熱気に安堵する。自動車の音に負けじと蝉がじりじり鳴き、日差しが街を朱色に染め上げて、夏の終わりを遠ざけていた。きっと万引き犯が店内から出るときの気分はこんなふうだろう。一安心したところで、さてコンビニのイートインにでも行くかと思っていると、ぐっと腕を掴まれた。


「お兄さん、さっき私のこと避けましたよね?」


 見ると、不機嫌に笑う平野の姿があった。「いや、ちょっと急用があって」という俺の言い訳も彼女の微笑みの前では空々しい。

 女子に腕を掴まれるなんて、と喜ぶ余裕がないくらいがっちり。ちょっと痛いくらいの力で平野は俺の腕を掴んでいた。


「私を見て、逃げましたよね?」


 その強い口調は、万引きGメンのそれだ。張り付いた笑顔に俺はもう恐怖しか感じられなくなってきたので無駄な抵抗はやめた。


「はい、逃げました。ごめんなさい、見逃してください」


 犯行を認めた俺を、平野はようやく放してくれた。


「お兄さんて、どうしようもなくなるととりあえず反射で逃げ出す癖ありません?」


 平野はどうやら割と本気で怒っているみたいだった。


 出入口でたむろしてるのもどうかと思い、俺はおもむろに歩き出す。これも決して逃走ではなく、気遣いだ。


「ほらまたぁ」


 平野も歩き出し、横に並んだ。


「俺が逃げ癖があるだなんて風評被害も甚だしい。根拠はどこにあると言うのだね?」


「根拠を言ってもいいんですか?」


 不敵に笑う。彼女のその笑みにただならぬ悪寒を感じ、俺はすぐに前言を撤回した。


「いやいい。待ってくれ。俺から根拠を言わせてもらおう」


「どうぞ、被告人の言い分を聞きましょう」


「まず、バスケ部は向いてなかったから貴重な時間を他のことに費やすために止めただけだ。それに動物園の時は空気を読んだうえでの戦略的撤退だし、相席屋のときも終電の時間が近かったからだし。さっきだって別に……」


 信号を待つ間、街路樹に止まった蝉を眺めながらぼそぼそと論拠を並べていると、


「えっ。相席屋なんか行ったんですか、お兄さん」


 と平野が目の前を行き交う車にかき消されないくらいの高い声を出した。蝉も驚いたらしく、ぶんと飛び去った。


 指摘されてからしまったと思ったがもう手遅れだった。平野から憐れみを込めた視線が容赦なく注がれる。どうも動揺していて、要らないことまで喋ってしまったらしい。


「不良ですね。ていうか、リンさんと仲直りできないからって相席居酒屋行くなんて。……ぷっ、笑える。しかも相席屋からも逃亡とか」


 自分の無実を証明するために余罪を自白してしまうとは。よりにもよってこんなヤツに話してしまった自分を呪わずにはいられなかった。


「どうせ女の子にキモいとか言われて傷ついちゃったんでしょ。わかります、お兄さんて無表情だから怒ってるかどうかすらもこっちからじゃわからないんで。冗談を冗談と受け取ってもらってないことに気づけないというか……」


「わかったわかった。もうわかったらこれ以上傷口に塩を塗り込むのはやめてくれ。お前のは塩というよりタバスコだ」


 話が変な方向に行くのを避けるために、さっさと降参した。


「で、傷と言えばそれ、どうしたんですか?」


 平野は俺の顔についてたガーゼを見て言った。話を変えようと思ったのに、変えた先もアウトだった。


「……道で転んだ」


「つまんなっ、せめてもっとましな嘘ついてくださいよ」


 平野は確信を持って一笑に付した。


「なんで嘘だってわかるんだよ?」


「女の勘です」


「それつまんなさで言えばおなじレベルだからな」


 平野は軽く笑った。俺の薄いツッコミに見合うくらいに。


「で、ミライ君に殴られました?」


 心臓を撫ぜられたみたいに急に不安になった。なるべくそれを表に出さないように、平静を装いながら「なんか聞いたのかよ?」と問い返す。


「いや逆です、なにも教えてくれないんですよ。連絡しても既読スルーなんて、ミライ君には有り得ないことで。これは何かあったなと思った矢先、私の目の前からシマウマのごとくBダッシュするお兄さんの姿。いやぁこれは、点と点が線になりましたね」


「名推理だよ」と素直に敗北を認めた。同時に、悪魔的なまでの勘の良さを持つこの悪魔女から全速力で逃げたくなる気持ちも少しは分かってもらいたい。


「まあお兄さんのことを殴れる相手なんて、そもそもリンさんかミライ君の二択ですしね。お兄さんの交友関係の狭さが推理の前提です」


 本当におっしゃる通りだったがムカついたので、「うっさいな、お前。お前の彼氏、暴行罪で訴えるぞ」と言い返した。


「弟に殴られて訴えるとか、ウケますね。そんなみっともないマネやめたほうが良いですよ」


 ぐうの音も出ないとはこういうことだろう。


「……彼氏には物理的に殴られ、彼女には精神的に殴られ。サイアクのカップルだよ、まったく」


 平野は「はいはい」と聞き分けの悪い子どもをあやすにように言う。


「なんでもいいですけど。ちゃんと仲直り、してくださいよ」


 散々バカにしておいて急に梯子を外すとは良い度胸だと思うが、そんなことを言っていたらこいつとの話は永遠に進まないのでもう諦める。


「いや、無理だ。決定的に溝は深まった。というかそもそもお前のせいでもあるんだからな」


「え? それは初耳です」


 平野が目をくりっと見開いた。演技には見えなかったが、こいつの場合は何とも言えない。少し探りを入れてみることにした。


「考えてもみろよ、なんであのリア充が浪人中のもやしっ子に暴力を振るったと思う?」


「えー、喝を入れるとかだと思ってました。どうせまたお兄さんが腑抜けたことを言ったから、こう、拳で想いを伝えあったのかと」


 小さなグーをつくって平野は前に突き出した。


「はいはい、わかったわかった。そういうことでいいよ」


 お返しとばかりに言ってやる。


「なんなんですかその態度。教えてくださいよ」


 平野が演技をしていないことは、今のやり取りでわかった。


 そして直後、邪な考えが浮かんだ。


 ――お前の彼氏、お前のスマホを望むようなクズだぞ。

 ――嫉妬して、俺に言いがかりつけて殴ってきたんだ。


 そんなふうな言葉から始めて、誇張したことを言いまくって。得体の知れない黒い霧が、心を覆い始める。それこそ虚言癖なんじゃないかってほど、火のない所にガソリンぶっかけて大火事にして……。


 ――あいつが海外に行くのを良いタイミングとばかりに、別れを勧める……。


 黒い霧はその密度を増し、ぐっと心を包み込む。


 咄嗟に、ヤバいと思った。ここで踏みとどまらなければ、俺はまた戻ってしまう。そんな予感がした。


 タイミングよくコンビニの前にたどり着いた。冷房の効いた店内は夕日に火照った体を冷ましてくれるようだった。「ジュースか菓子か。何か一つお詫びに奢ってやるから選んで来いよ」。そう言って、俺は平野と少しだけ店内で別行動をとった。


 その隙に、俺は素早くこの黒い霧の正体を探る。『なぜそんなことをする? そんなことをして俺にメリットがあるのか?』と自身に問いかける。


 ――弟に嫉妬して、彼に不幸になってほしいから?

 ――あわよくば、平野と付き合いたいから?

 ――リア充のリアルを、ぶち壊してやりたいと思うから?


 黒い霧は途端、ねっとりとした液体へと変化した。触れた闇の深さに、ゾッとした。こんなことを平気で考えてしまう自分を、心底軽蔑した。


 でも同時に少し、ほっとした。こんな自分を軽蔑できる自分がまだいたことに安堵したのだ。思うことと行動に移すことの差こそが、たとえそれが五十歩百歩の差に過ぎないものだとしても、倫理や道徳なのではと思うからだ。万引き犯の気持ちが理解できることと、実際に万引きをすることとは雲泥の差があるように、俺は俺のような弱い人間にも救いがあると信じたいのだ。


「これにします」と平野はハーゲンダッツを持ってきた。なんでやねんとチョップを入れようと思ったが、「俺もそれがいいな」と同じのをもう一つ取ってレジに向かった。


「てっきり『たけぇよ、ボケ』とか言われると思ってたんですけど」


「お詫びだからな。たかがアイス一個で買収しようって言うんだからまあ、こんくらい。てか、ミライと違ってケチな男だとか思われたくない」


「アハハ、ちっちぇぇ」


「うっさいわ」


 俺は今度はちゃんとチョップを入れた。これで、本当におあいこだ。これで全部水に流して、ちゃんとここから始めようと思った。


 平野が俺を水族館に誘ってくれた理由は、とうに明らかだった。ひねくれた彼女の回りくどい優しさに報いるために、どうしてもこの件を自分の力で解決しなければならなかった。そうでなければ、『お前のせいでもあるんだからな』なんて言ってしまった、ちっちゃい自分を帳消しには出来ない。


「私だって避けられたら多少は傷つきますからね。それがたとえお兄さんごときだったとしても」とか。「けっきょく、何だったんですか。喧嘩の理由」とか。イートインでアイスを食べながら、平野はぶつくさ言っていたが、


「悪かった。俺ごときの目では神々しい平野様を直視していられなかったんだ。許してくれ」とか。「兄弟喧嘩と痴話喧嘩は別の問題だから、君たちは君たちで解決してくれたまえ」とか。テキトーなことを言ってごまかした。


 平野は納得した様子は全くなかったけれど、俺に話す気が無いのを悟ると案外あっさり諦めてくれた。元々、俺という人間にそこまでの興味が無いというだけの話かもしれないが。


 予備校に戻ると早々に平野と別れて自習室に戻り、机の前で手を組んだ。囲いのついた机は、一人きりの空間を担保するようで、そうでもない。すぐ隣の人の動きはわかるし机の振動も多少は伝わってくる。今は慣れてきたが、最初はずいぶん気になったのを覚えている。


 たくさんの揺らぎが心に忍び寄るのを感じながら、俺はゆっくりと勉強のスイッチを入れ直した。





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