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和解に代わる決定

 


 九月になったとはいえ、急に夏が終わったりはしない。涼しい日と暑い日を繰り返し、そのうち過ごしやすくなってきたと思ったら、あっという間に寒い日が増えて過ごしづらい日が増えてきて冬になる。季節の変わり目なんて、そんなものだろう。


 そう思っていた矢先の、雨が降って少しだけ気温が下がった日のこと。俺はミライと昼ご飯を食べるべく、駅から少し離れたところにある小じゃれた洋食屋に向かっていた。


 ミライから「飯を食いに行こう」と連絡が来たのがきっかけだった。正直イヤだったが平野に言われた手前なんとなく断りづらく、付き合うことにした。


 道の端に薄紫色のコスモスが咲いていた。雨粒に濡れてそのつつましさに艶が増しているように見える。俺はそういうコスモスの地味な感じが好きだったから、チョコレートコスモスはあまり好きではなかった。人が交配してつくった、という感じが強いからだ。でも今どきコスモスはどんな季節でもたくさん花屋で見かけるし、チョコレートコスモスだけをやり玉にあげるのはかわいそうかもしれない。それを言うなら品種改良で生まれたチワワだって異種交配で生まれたレオポンだって、どれもこれも神への冒涜とか人間の傲慢さの表れと言うべきだろう。


 結局は後付けで、こじつけなのだ。もしかしたら俺が弟に対して抱いている違和感も、そういうものに近いのかもしれない。


 ぽつりぽつりと降り続く雨はどこまでも優しく穏やかで、弟に会うというだけなのにこんなにも緊張している自分が馬鹿みたいに思えてきた。


「なんか久しぶりだね。痩せた? ていうかやつれた?」


 雨の中、傘を差して店の前で待っていたミライは、俺を見ると開口一番そんなことを言った。


「べつに、変わんねえよ」


「母さん心配するから、ちゃんと食べなよ」


 ミライはそれだけ言うと、重そうな木の扉を開けて店に入っていった。


 母の弁当を要らないと言ったことと俺が痩せたことはまったく関係のないことだ。でもミライの言う論理はわかるし、母がそういうことで勝手に罪悪感を抱く人だということもわかっていた。だから特に俺は言い返すこともしなかった。


 ウッドテイストの間接照明がふんだんに使われた店内で弟と向い合せに座ると、いよいよ俺はどうしてこんなところに来てしまったんだろうという後悔がせせりあがってきた。こんなお洒落な店で値段も些か張るレストランで弟と食事をする必要があったのだろうか。


 慣れた調子で注文を済ませると、ミライは明るく言った。


「こないだ、悪かった。その、兄貴の気持ちも考えないで、お節介なことばっか言って」


 ――ついさっきだって、お節介を言ったばかりだろうに。


 咄嗟にそう思ったが、何だかつまらないことばかり悩んでいる自分が悔しくて、「いや。別に」と短く吐き捨てた。「俺こそごめん」と言えるほど、まだ大人にはなれていなかった。田辺や平野には素直になれたが、やっぱりこいつ相手には難しい。素直になろうキャンペーンは一時休止だ。


「あとさ、俺、来月から留学することにした」


 急な話の転換についていけなくなりそうになったが、彼なりに礼儀として面と向かって謝罪をしてから話を始めただけなのだろう。俺はこいつの上手な人づきあいにまたも振り回されていたと分かり、文句の一つでも言いたくなった。


「へー、またか。どこに?」


「ドイツ」


「ウィンナーとビールか。どのくらい?」


「一年」


 俺は思わず「はえっ?」と変な声がでた。


 ミライはきっぱりともう一度、「いちねん」と言った。


「受験は? てか学校はどうすんだよ?」


「今年は受験しないよ。学校は休学する。とりあえず一年行ってみて、来年戻って来て卒業するか、中退して大学は海外行くかも」


 俺は「はぁ」とイエスともノーともとれない相づちを打った。


「ま、もしかしたら大学行かないかもしんないし、帰らないでそのまま向こうで暮らすかもしれないし。はたまた別の国に行くかもしれないんだけどさ。母さん、『そんなことしたらあんたの学歴は中卒になるでしょうが』って怒っちゃってさ。そのうち、『大学には行ってくれ』ってわんわん泣かれて、もー大変だったよ」


 店内に流れるクラシックがやたら騒々しく聞こえた。聞き覚えはあるのに曲名がまったく分からないその旋律の自己主張は激しい。


 もう何が何だかよくわからなかった。この男の思考回路はどこでどうねじ曲がったのだろう。同じ血が流れているとは到底思えず、まるで宇宙人と話しているかのようだった。


「そ、そうか……」と何とか絞り出すと、「今の、なんか父さんに似てたね」とミライが笑う。料理が運ばれてきたので俺は聞こえなかったフリをした。


 運ばれてきた煮込みハンバーグはとてもいい匂いがして、一緒に煮込まれた野菜も綺麗な色をしていた。だが宇宙人と一緒に食べる食事はどこかに緊張感があって、あまり味を楽しむ余裕がなかった。目の前の十代の食欲に、ただただおののくばかりだった。




 食事を終え、店を出た。


 今日の食事代は母さんからお金をもらってきたということで、俺は一銭も払わなかった。


 ――店員さんからすると、自分より身長も高く、ハンサムな同い年くらいの男に食事をおごってもらっている俺はどう映っているだろうか?


 気を抜くと、すぐにそんなことを考えてしまいそうだったので、俺はミライを置いてさっさと外に出た。


 小雨にはなっていたが、まだ雨は上がっていなかった。


「おいしかったね」


 後から出てきたミライが財布を仕舞い、傘を開きながら言う。その口ぶりは母さんによく似ていた。「ああ」と小さく答え、駅に向かう。


 塾に向かおうかと思っていると、


「なあ。兄貴から、話してくれるのを待ってたんだけどさ……」


 とミライが口を開いた。


 だが、続きがない。雨が傘にぶつかる音がやけに大きく聞こえた。


「なんのことだよ?」


 先を促す。じれったい奴だと思った。


「……分かってるだろ? 水族館のことだよ」


 そこにきて、俺はやっとミライの方を見た。


 弟の表情が曇っていることに、そこでようやく気が付いた。


「……ああ、平野と行ったな。それがどうしたんだ?」


 湿っぽい空気がいかにも俺のセリフを胡散臭くするようだったから、出来る限り抑揚をつけないように言葉を紡いだ。


「弟の彼女と二人で水族館に行っておいて、それがどうしたかよ」


 語気を強めて「水族館」と繰り返すその姿は馬鹿みたいだったが、同時にどこか少し愛おしくもあった。


 改札のすぐ前までたどり着き、お互い傘を閉じる。さっさと改札を抜けてしまいたかったがミライはそこで立ち止まった。


「独占欲強すぎんだろ。いーだろ、別に。ラブホ行ったわけじゃねえんだし」


 つい語尾が雑になる。俺がこんな口調で話せる相手は、世界広しと言えどこいつくらいだ。さっさと予備校に行きたいのに、ミライは受けて立つとばかりにこちらを睨みつけた。


「よくねーよ。水族館の次はラブホ行くだろ。絶対行くだろ。弟の彼女にてぇだすとかサイテーだぞ」


「行かねーよ、水族館の次にラブホってバカなのかお前は」


 傍から見ればショートコントのように滑稽な会話なのだろうが、俺たちは至って真剣で、雨の中でもよく声が通った。


「考えてみろよ、リンちゃんが他の男と二人で水族館行ったら兄貴だって嫌だろ」


「それは確かに嫌だけど。でも、お前こそよく考えろよ。俺と平野だぞ? 何かあるわけねえだろ」


「いいや、兄貴は面食いだから美人なら誰でもいいだろ。だいたい、オレに言わねーってことはやましいことがあるからだろ。秘密にしときたかったんだろ」


 ――面食いって何を根拠に……。


 言いかけて、やめた。こいつとの付き合いは無駄に長い。弟なのだから当たり前だが、こいつは俺の黒歴史を色々知っている。この問いかけは墓穴を掘るのが目に見えていた。


「俺はべつにわざわざお前に言うほどのことじゃないと思ったから言わなかっただけだ。そんなに言うなら平野に直接聞けばいいだろ」


 攻め方を変えてみたこのセリフは、意外に効いたらしい。


「……メイに聞けるわけないだろ」とミライは俯き、ぼそっと言った。


 俺はまさかと思いつつも問い続けた。


「はあ? てかじゃあなんでお前、水族館行ったって知ってるんだよ、平野から聞いたんだろ?」


「……メイのスマホのぞいたら、兄貴の写真があって。それでメッセージあさったら、約束してるの見つけた」


 ミライがむくれながら言う。小さい頃、いたずらがバレた時の姿にそっくりだった。不機嫌で、不本意そうなくせに、洗いざらい自分のしたことを喋ってしまうあたりが昔と全く変わらない。


「サイテーはお前だアホ」


 もうこんなアホには付き合っていられないと思った。今日呼び出されたのも、留学の話とか、母さんがどうとかは全部口実で、きっとこの話がしたかっただけに決まっている。それなのにちんたら世間話をしながらメシを食って、最後の最後に面倒事を持ち出すなんてどうかしている。


「うるせー、心配なんだよこっちは。あんな可愛い彼女もって」


 ――あんな悪魔みてえな女のどこが良いんだか……


 と言いかけて、これもやめた。


 電光掲示板を横目で見ると、そろそろ次の電車が来る時間だった。俺はこの急行に乗るべく、話を切り上げることにした。さて、どうしたものかと手持ちのカードを探りながら、

「ンなこと言って、どうせ遠距離になったらすぐ別れんだろ」

 と、ぽとり放った言葉。その言葉が地面に落ちて、波紋を作る前に。


 俺はミライに殴られた。こめかみのあたりを思いっきり殴られた。


 殴られるという状況を全く考慮していなかったから。それこそ、隕石が落ちてくるとかと同じくらい、想像もしていなかったから。


 俺は隕石が落ちてきたときくらい驚いて、まともに受け身も取れず。


 自分が殴られたということに気づいたときにはもうすでに、身体は濡れそぼったアスファルトの上に転がっていた。


「うるさいっ、元はと言えば兄貴が悪いんだろっ」


 ぐわんぐわんと脳が揺れている。追いかけるようにミライの怒鳴り声がやってきた。


 それから、急行に乗りそこなった俺は予備校に行く気がしなくなり、自宅に直帰した。


 雨の降る駅前で弟と痴話喧嘩だなんて、俺の黒歴史の新たな一ページを飾ってしまいかねない、散々な休日だった。




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