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イルカ・海豚・ドルフィン

 


 台風一過というやつだろう。多少風はあったが空はよく晴れていて、気持ちの良い日だった。大雨の翌日というのは、湿ったアスファルトの匂いがして、俺はけっこう好きだ。


 水族館の正面入り口に着くと、平野がいた。時計を見ると待ち合わせの時間を一分過ぎたところだった。


「悪い、遅れた」


「大丈夫ですよ。さ、行きましょう」


 夏らしい深く澄んだ青色のワンピースを着た平野は、にこりと笑った。その笑顔は俺にはもったいないくらい美しく見えた。


 イルカショーは十一時からだというので、とりあえず館内をまわって見ることにした。


 つぶらな瞳をいつまでも見ていたくなるアザラシ。オレンジとか青とか、艶やかな色をした熱帯魚。すべてを見透かしたような冷たい瞳のウミガメ。よちよち歩きの魚臭いペンギン。夢に出てきそうな大きなサメ。


 どれを見ても、「ふーん」と思うだけだった。でもペンと紙と、そこに印刷された活字ばかりを見る毎日を送っていたからか、俺の目にはそのどれもが色鮮やかに映った。


 時間になってイルカショーを見に行った。


 指示に従いぴょんぴょん飛び跳ねるイルカ。口角上げ過ぎのショーのお姉さん。一つ芸をするたびにイルカの口に運ばれる魚。


 とても真剣に見ていたつもりだったが、癒されたかと聞かれればよくわからなかった。いったいこれをどういう心情で見ればいいか掴みきれないまま終わってしまった。隣の平野も無表情というか、心ここに在らずといった様子で眺めていたので、まあそんなものかとも思った。




「リンさんと、仲直りできました?」


 水族館を出て、俺たちは遅めのお昼ご飯を食べようと街をブラブラしていたときだった。


 平野がほんの少しだけ緊張の色を帯びた声で尋ねた。きっとこれが今日の本題だったのだろう。


 俺は幾つか候補を考えはしたが結局、最初に思いついた言葉をそのまま口にすることにした。


「まだだよ」


 平野は俺の返事を聞くと、あざとく小首をかしげ俺の瞳を覗き込み、ニヤニヤと笑った。


「まだですかぁ。いやぁ、いいですね。いつかは仲直りするってことですもんね」


「お前には素直に謝れたんだけどな。やっぱりちょっと勇気がいるよ」


「えー、なんですかそれ、バカにしてます? まあでも先送りにするとそのぶんイヤになってきません?」


「もう二か月も経ってるからな。そこは気にしたってしゃあない」


「いさぎいいのか悪いのかよくわかんないですね」


「とりあえず次の模試で納得できる結果を出せたら言おうかなって思ってるんだけど」


 呆れているような、それでいて面白がっているような。そんな複雑な表情をして、平野はクスクスと笑った。


 太陽が高く昇り、街は人で溢れている。普段の俺なら一秒でも早く家に帰りたいと思うはずの状況なのに、今日はそんなこともなかった。やはりこれはイルカ効果だろうか。


 平野の笑いがひと段落ついたところで

「お前はもっと、自分のことしか考えてないやつだと思ってたよ」

 と言ってみた。


 言ってから、少し後悔した。思ったことを素直に口にしただけだったが、もう少し他に良い方があったのではないかと思ったのだ。最近は素直になろうキャンペーンを実施中だが、こういうベクトルの素直さはあまり良くない。


 平野に怒った様子はなかった。


「ま、別に間違ってないとは思いますよ。自分のことだけ考えた結果、周りの人間のこともちょっと考えて生きてるだけですし」


「じゃあなんでそんな打算まみれで生きてるのに、あんなバカみたいな嘘ついたんだよ?」


 平野の顔をよく見ようと横を向く。今日の彼女は髪を後ろでまとめていて、耳の後ろの白く柔そうな肌が露わになっていた。陽の光に照らされて少し汗ばんでいるそこをなぜか見てはいけないような気がしてきて、俺はすぐに視線を前へと戻した。


「ああ、父親が酒飲みのギャンブラーってやつです? あれ、あながち嘘でもないんですよ」


 平野がすごく普通に言うから、俺は聞き間違えたのかともう一度彼女のほうを見た。


「うちの父親、色々問題だらけで。母親が出て行ったのも本当ですし。こないだようやく離婚が成立して、一件落着です」


 なんて言っていいかわからなかった。


 平野はいつも、人と目を合わせて、ニコリと余裕のある笑みを浮かべて話す。


 でも今は、焦点の合わない瞳で、遠くの人混みをぼんやりと見つめていた。


 だからきっと、そういうことなのだろう。


「まあ学費がやばいのは本当なんで、国公立いくか私立の特待生狙うかの運命の二択ですけど」


「え、お前、じゃあ予備校はどうしてんの?」


「スカラシップって知りません? 成績優秀者はタダなんですよ、あそこ」


 平野は「実は私、頭良いんですよ」といつものように余裕たっぷりで言う。


 だが俺はまだ、相応しい言葉を見つけられていなかった。


 だからとりあえず、謝るところから始めようと思った。


「悪かった。嘘だって決めつけて。お前も、色々あったんだな」


 言ってからふと、田辺の言葉を思い出した。


 俺はきっとこれまで、自分のことばかり見過ぎていたのだろう。


「えぇ、お兄さんらしくないです。そんなこと思っててもおくびにも出さないで、居心地悪そうな顔しながらひねくれたことばっかり言ってるのがいつものお兄さんじゃないです?」


 飄々と言ったが、彼女は彼女で俺の謝罪になんだか居心地が悪そうだった。


「ほっとけ、俺だって難しいお年頃なんだよ」


 俺の強がりに平野はひとまず笑ってくれたが、だんだんとその笑いが小さくなって消えて、一時の静寂が訪れた。


「……まあ別に、謝らなくていいですよ。嘘をついたのも、ミライ君をからかったのも本当ですし。私は私を憐れんだりしないので。だからお兄さんも、これまで通りでいてください」


 平野の声は風鈴の音のように澄んでいて、夏の騒がしい街の中でも不思議とよく響いた。


 やっぱり、言葉は見つからなかった。


 でも平野の強さも、彼女が抱える弱さも、俺にはやっと少しだけ分かった気がした。そのアンビバレンツな歪みこそが、彼女の魅力なのだろう。


 きっと、ミライは何となくわかっていたのだろう。平野の話の、すべてが本当でないことも。すべてが嘘でないことも。嘘で本心を綺麗に包み込んでしまった彼女を、あいつは丸ごと受け入れようとしていたのだ。


 やはりうちの弟はあらゆる面において俺よりも大人びているということを、いま一度認めざるを得なかった。


「なあ、申し訳ないついでに聞いときたいことがあるんだけどさ。どうして平野は四人で動物園行くの企画してくれたんだ?」


 俺はせめて少しでも真っ当な人間になるために、もう一つの答え合わせもしておくことにした。


「ああ、あれですか。あれは私の気まぐれですよ。ミライ君をからかったことへの罪滅ぼしと、そのことでお兄さんを巻き込んだ迷惑料と、ミライ君の家族への根回しと、お兄さんをからかいたくなったのと……。まあそんな感じですかねぇ」


 平野は話しながらゆっくりと指を四つ折った。たしかにそれだけ理由があったら気まぐれとも言えるだろう。


 そして、「まあ逆にあんなことになっちゃって、ほんと申し訳ないと思ってます」としゅんとした顔で続けた。そのらしくない横顔を見ていたら、平野は俺とどこか似ているんじゃないかと思った。


 汚くて、醜くて、真っ黒で。汚い自分が嫌で嫌で仕方ないのに、色々こじらせて、大人ぶって諦めてみたり、子どものフリして開き直ったりして、どうにかバランスをとってる。


 そういうところが、俺と平野はなんとなく似ている。もちろんそんなこと言ったら平野は否定するだろうし、違うところなんか数えだしたらそれこそ星の数ほどあるけれど。そんな彼女だからこそ、真っ直ぐなミライに惹かれているのだろう。


「……なんかさ、お前が妹になるのも悪くない気がしてきたよ」


 お礼を言おうと思ったが、素直に言うのはちょっと癪だった。だから気の利いた言葉を言おうと思ったのだけれど、正直自分でもこの言葉がどう気が利いているのかわからなかった。


 でも平野は、

「そのセリフはだいぶキモイですけど、まあ褒め言葉として受け取っておきましょう。やっと私の可愛さに気が付きましたか」

 といつものように笑ってくれた。


「リンほどじゃないけどな」


「そう思うならさっさと仲直りしてくださいよ」


 平野が「やっぱりご飯はもういいです」と言うので、駅へと引き返すことになった。一歩前を歩く平野が、踵の高い靴を履いていることに俺はいまさら気が付いた。歩幅を大きくして平野の隣に追いつくと、今度は少しだけ歩幅を狭めた。


「まあでもお兄さん、やっぱりちょっと変わりましたよね。男子三日会わざれば刮目して見よってやつですか」


「お前、俺のこと年上だと思ったことないだろ」


「年上だとは思ってますよ、リスペクトはしてませんけど」


 平野はまた人を小ばかにしたように笑った。


 駅で別れ、俺はひとり家へと帰った。頭がリフレッシュできたらしく、その日は疲れていたはずなのにずいぶん勉強がはかどった。


 イルカ効果はわからない。でも、俺は水槽の外で生きてるんだって、そう思えた一日だった。


 あと、すごく恥ずかしい話だから、死んでも誰にも言えないけれど。


 リン以外の女の子と二人でどこかへ遊びに行くのは、人生初めてのことだった。




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