悪魔女みたび
夏の花と言えばひまわりが真っ先に思い浮かぶけれど、最近はあまり見ていない。何年か前に田舎の祖父母の家で見たのがたしか最後だ。
夏の終わりの頃だったから、そのひまわりは鮮やかな黄色ではなく黒ずんでいて、腰の曲がった老人のようにも映った。
まさに、死にかけだった。お日様に向かって首をもたげて立っているその姿が、ひどく痛々しいと思ったのをよく覚えている。
――きっと今日の台風で、今年のひまわりもみんなボロボロになってしまうのだろう。
夏期講習の期間が終わり、定期の期限も切れてしまったので、今日からいつもの予備校に戻ることにした。そんな記念すべき日だというのに今日は朝から台風が来ていて、大雨が降っていた。
こんな日は髪が爆発するとよくリンが言っていたが、今日はどうしているのだろう。相変わらずクルクルした頭でいるのだろうか。ぼんやりと考えながら、横殴りの雨をやり過ごし、遅延の影響で大混雑している電車に乗って、どうにかこうにか予備校へと向かった。
きちっと帽子をかぶり、後ろで手を交差させた警備員さんに「台風だから、気を付けて」と笑顔で言われたので、「はい、ありがとうございます」と小さな声で答えて予備校の外に出る。
普段はしかめっ面で仁王立ちをしている警備員さんは、遅い時間に帰るときは「おつかれさま」と笑ってくれる。だったらいつも笑ってくれればいいのにと思わなくはないが、気持ちはわからなくはない。
傘の留め具を外すと、少し湿っぽい匂いが広がった。
――もし今日、リンに会えたらなんと言えばいいだろう。
そんなふうに、自習室を出てトイレに行くときなんか少し緊張したりもしていたのに、結局今日は会えずじまいだった。
残念なような、ほっとしたような。どっちつかずの気持ちを抱えたまま、まだ降り続く雨の中へ歩き出そうと俺は傘を広げた。
すると後ろから、「あ」という声がした。振り返ると、予備校の入口のところに平野が立っていた。俺と目が合うと、彼女は一度、気まずそうに視線を逸らした。
俺は初め、なぜそんな顔をするのかわからなくて、ともかく「よう」と声を掛けると、平野は窺うようにこちらに視線を戻し、「えへへ。その、お久しぶりでーす」と苦笑いを浮かべた。
「そういえばそうだな。久しぶり」
「どうしたんですか? なんかいつもと違くありません?」
「別に? いつも通りだよ」
いつもと違ってよそよそしいというか、妙に距離感があるのはむしろ、平野のほうだと思った。
入口に立っていたら邪魔になるだろうから、俺は平野が傘を開くのを待ってゆっくりと歩き出した。
「なんか、いつもよりカッコイイですよ」
「なんだそりゃ」と答えながら水たまりを踏まないように大股で飛び越える。
思ってもいないことをぬけぬけと言うなよと思ったが、そもそもそんなおべっかを平野が使う理由がよく分からなかった。
雨はいくぶんか弱まっていた。これなら電車も遅延したりはしていないだろう。
「ほら、いつもならここで、『俺がかっこいいのはいつものことだろ』とかうすら寒いセリフを真顔で言ってくるじゃないですか」
「お前の記憶の中の俺ってそんな痛いヤツなの?」
思わず笑いがこぼれる。そして、俺はやっと思い出した。
平野の記憶の中の俺は、あの動物園で止まったままだったのだ。
リンのことにばかり気を取られていて、他のことを忘れていたのかもしれない。
ようやく彼女がきまずそうにしていた訳を知った俺は、胸を突く後悔が消えないうちにすぐさまそれを言葉へと変えた。
「そいえば前、悪かったな。いきなりキレて、わけわかんなかっただろ。空気悪くして、勝手に帰って、ほんと、ごめんな」
「……へ?」
平野は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でこちらを覗き込んだ。
「いや、覚えてないならいいんだけど。俺が勝手に気にしてただけだから」
「覚えてますよっ」
平野は突然、雨にも負けない大きな声を出した。彼女が足を止めたので、俺も立ち止まり、そっと振り返る。雨は最後のひと絞りとばかりに夜の街に滴を垂らした。
「ほんと、なんなんですか。今日のお兄さんは、やっぱりなんか変ですよ。素直に謝るなんて、らしくないです。彼女でもできたんですか?」
俺は的外れな彼女の言葉が心底可笑しくて、「んなわけあるか」と笑い飛ばした。
「じゃあ、あれですか。イルカセラピーにでも行ったんですか?」
平野の瞳を見ると、まだ彼女は少し、俺に対して緊張しているようだった。的外れな彼女の質問がつい微笑ましくて、テンパっている彼女が少し可哀想で、
「行ってないけど。でもいいな、夏のイルカ。なんか……癒されそう」
と、なんとなく会話をあわせた。
「じゃ、じゃあっ。行きませんか?」
排水溝に流れ込む雨水がチョロチョロと静かな音を立てる。もう駅は近い。
俺が「どこへ?」と尋ねると、平野は「イルカ」と何だか恥ずかしそうに答えた。
いつもの人を小ばかにしたような余裕のある笑顔は、そこには欠片ほどもなくて、無下に断られる可能性を考えて弱気になっているみたいな。彼女はそんな雨が似合う表情をしていた。
「……いいよ、行きたい。いつ?」
余計なことは聞かず、それだけ言った。
すぐに「明日はどうですか?」と問われ、「いいよ、授業ないし」と即座に頷く。淡々とした言葉のやり取りだった。
平野は「はい、じゃあ朝十時に現地集合で」とだけ言うと俺を追い抜き、駅構内へと入って行った。
雨上がりの街は光がぼやけ、淡く輝いているようだった。




