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朝帰り

 


 すっかり日が昇りきってから俺たちは眼を覚ました。初めての二日酔いに身体が多少だるかったがその倦怠感さえも今はどこか愛おしかった。


 田辺に礼を言い、電車に乗って家へ帰る。夏の日差しを受けてキラキラと輝く川面を車窓から見つめながら改めて昨日のことを思い出した。


 いくらかの恥ずかしさと後悔が冷えた頭をよぎりはしたが、生まれて初めて自分の思いの丈を誰かにぶつけられたという清々しさの方が勝っていた。


 そしてふと、昨日の田辺の言葉を思い出した。


『性悪説とか性善説とかいうけど、ほんとはみんな、弱いだけでさ。そういう人の弱さを、きくやんなら分かってあげられるから。だから心配しなくて大丈夫だよ』


 昨日、心にするりと落ちてきて、それからずっと心の中心に残っていた言葉だった。すっかり酔いが回った昨晩の脳ではその言葉の意味がよく分かっていなかった。


 だが今ではそれは、黄金色に輝く扉の鍵のように感じられた。


 黒い壁にヒビが入り、その小さな穴から溢れんばかりの光が漏れてくるような。


 大きな窓ガラスが一瞬にして砕け散るかのような。


 そんな、小さくて、大きな戦慄がつり革を掴む俺の手の先を走った。


 酒の味はもうほとんど覚えていなかった。けれど、二日酔いでズキズキと脈打つように痛む頭でも、忘れられないものがあった。




 リンの家を横目に見ながら、そっと自宅に入る。


 家には休日なので当然だが、父親がいた。リビングとつながった書斎でパソコンをいじるその姿はいつもと変わらないように見える。無言の圧、というヤツも一般的には考えられるのかもしれないが、元々口数の少ないこの人には存在しない。


 背後の物音に今さら気づいたとでも言わんばかりに、父はゆっくりとこちらを振り返った。


「朝帰りか。いや、もう昼だな」


 時計を見て、のんきに言った。そこには少しの毒気もない。そもそも興味すらないのではないかと思うほど、淡泊だった。


「その、ごめん……」


 何を謝っているのかはよくわからなかったが、そう言うべきだとなんとなく思った。


「一本連絡だけはしなさい。昼飯、焼きそばでいいか?」


 ひどく業務的に言うから、俺も反射的に「ああ、うん」と答える。


 父さんは相変わらずしかめっ面だったが、どうやら多少は心配をしていたらしい。


 長い付き合いだから、それだけは何となくわかった。


 だが何を考えているかまでは、相変わらずよく分からなかった。


 でもきっと、浪人中の息子がタバコやらアルコールやらの匂いをたっぷり着込んで昼間に帰ってくるというのは気分のいいことではないはずだ。


 だから、ちょっとくらいは怒ってくれてもいいのにと思った。




 翌日の月曜日、予備校で田辺に会った。


 田辺は真っ白なジーンズに真っ黒なシャツを着ていた。


 モノトーンばかり着ている若い男があまり好きではなかったけれど、田辺というフィルターを通せば、そんな感情にも僻みが入り混じっていることを冷静に受け止められる。


「よう、きくやん」と、田辺は何事も無かったことのように話しかけてきてくれた。


 だから俺も、何も無かったみたいに「おう」と応えた。


 けれどそう言ってからすぐに、それは違うなと思って付け足した。


「昨日は、色々悪かった。……その、それと、初めて予備校で会った日、分かったようなこと言って悪かった。お前、成人してるって知らなくて、その……」


 四月に遊びに誘われて一人で先に帰ってしまったときのことは、昨日、勢いで謝ることが出来た。だけど俺にはもう一つだけ、謝らなければならないことがあった。


「あっ、煙草のことか?」


 田辺はどこか少し、楽しそうに問うた。


「ああ。いきなり説教じみたこと言って、その、感じ悪かっただろ」


「いや、きくやん。勘違いしてるぞ。オレはあの時、嬉しかったから全然気にすんな」


「え、だってあのとき……」


「え、オレ感じ悪かったか? あのとき、ちょっと恥ずかしかったのは確かだけど。ほんと、全然。むしろこっちこそそれは申し訳ない」


 田辺もしっかりと覚えていた。田辺はあの時、急にリンが可愛いとか言い出して、無理やり話題を変えたのだ。


「オレ、こういう派手ななりしてるし、一見人当たり良さそうだからさ、誤解されやすいんだ。闇が深そうとか、キレたらやばそうとか。まあだから、初対面なのにちゃんとダメって言えるお前のこと、かっこいいなって思ったんだよ。だいたいオレ、あのときはまだ未成年だったしな、ハハ。だから気にすんなって」


 ぽんぽんと田辺は俺の肩を叩いた。パリピ特有のパーソナルスペースの狭さというか、ボディタッチの多さは相変わらず不愉快だったけれど、俺のこの気持ちの半分くらいはきっと、照れ隠しだろう。


「まあ俺も昨日飲んじまったし、これであいこな」


「ああ、お互い立派なゼンカモンだ」


 ちっちゃな罪の共有に、俺たちは二人、腹の底から笑い合った。


 田辺が二浪だと知った時から、ずっと言いたかったことをやっと言えて、俺は肩の荷が降りた気分だった。そして同時に、彼の本心が聞けたことを心から嬉しく思えた。やはりこっちの扉で間違いじゃなかったのだ、と。


「ありがとな。なんかちょっとだけ、色々わかった気がする。きっと、ボタンを掛け違えてただけなんだ。すくなくとも今は、そう信じてみたい」


「そうか? ならよかったけど。オレのほうこそごめんな、余計なお世話だったかも」


 かっこいい言葉を探したが、難しかった。だからとりあえず、素直になることにした。


「田辺は、優しいヤツだな」


 心の一番上に浮かんできた言葉をそのまま口に出す。


 彼はニコリと笑って、「照れるな」と言ってくれた。


「昼、食いに行かないか? お詫びに奢るよ」


「や、全然奢ってくれなくていいけど、メシは一緒に行こうぜ」


 田辺は「レッツラゴー」とおっさんみたいなことを言って、一歩先を歩き出した。


 後頭部だけが黒くて周りが金色の田辺の頭はトラ柄みたいでダサいなと、相変わらず性格の悪い俺はそんなことを思った。でも同時に、解剖台上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いは美しいのかもしれないとも思った。


 今日も外はクソ暑いというのに、予備校はバカみたいに冷房が効いている。だからぬるい風が吹き抜けるビル街を歩くのは、とても気持ちがいい。まだまだ夏は終わりそうになかった。





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