琉球ガラス
「ウチ来いよ。お詫びに酒飲ましてやっから。泊まってってもいいし」と言う田辺に半ば引きずられるようにして、俺は彼の住むアパートにやってきた。もう家に帰るのも面倒だったので、何でもいいと思ったのだ。
田辺は予備校から二駅のアパートで独り暮らしをしていた。部屋はあまり綺麗とは言えなかったが、そこそこ広い部屋で、家賃が高そうだ。田辺は飲みかけの酒を色々と机の上に並べ、俺にそれを飲み比べさせてくれた。
ウィスキーは琥珀色ですごく好みの見た目だったがアルコールが強く、理科実験のアルコールランプを思い出す。赤ワインはこれまた俺の大好きな色だったけれど、苦すっぱく、何がいいのかわからない。日本酒はその独特の匂いに初めはぎょっとしたが、次第に美味しくなってきた。初めて飲む色とりどりのお酒はどれもこれも魅惑的で、子どもの頃に縁日で味わったような高揚感があった。
一度醒めてしまった酔いは、じっくりと体に戻ってきて、俺の心をふわっと温かくした。
「なあ、きくやん。昼は悪かったな」
汚い部屋に似つかわしくない、澄んだ声がした。
ローテーブルの隣の辺に座る田辺の方をチラリと見ると、彼は真っ直ぐにこちらを見つめている。
俺はすぐに目をそらし、赤色のグラスを口に押し当てた。
田辺が貸してくれた炎のような琉球ガラスのグラスは、この部屋にもこの男にも不釣り合いだったが、とても美しく可憐であることに違いはなかった。
グラスは基本的には赤色なのだが、下の方はひび割れたような柄で黄色っぽい。だんだん上に行くにつれてオレンジになって、そして燃えるような赤色になっていく美しいグラデーションを、俺はいつまでも眺めていられた。だから、何も返事をしなかった。
「今日、付き合ってくれてありがとな。『話したくないことは無理に話す必要ない』、がオレの座右の銘なのに、なんかついほっとけなくてさ。余計なお世話だったよな、ほんとごめんな」
俺が何も言わないつもりでいるのをわかってか、田辺はひとり言葉を紡ぎ続けた。
耳に流し込まれていくそれを聞きながら、俺はグラスを傾け続ける。
すぐに酒は胃に流れ込んで、空になったそれを見ると、田辺は何も言わず瓶を手に取って、次のウィスキーを注いだ。
「……氷」
そう言いかけるや否や、彼は立ち上がり、コップにたっぷりの氷を入れて戻ってきた。
俺はその中から一つをつまんで、ぽちょりとグラスに落とす。その様子をわき目に、田辺は床に足を伸ばし、天井を眺めながら続けた。
「浪人てさ、したことない奴は分かってないけど、ほんとにつらい時間だと思うんだ。それこそ、出産と矯正と浪人のつらさって、やったことある人にしかわからないと思うんだ。だからせめて、きくやんと同じ地平に立ってるオレくらいは、理解者でありたいって。ちょっとその、驕ってたんだ。オレ、こんな見た目でもけっこうお節介でさ、親戚のおばちゃんみたいなとこあるんだよ。ほら、噂話とかも大好きだしさ」
田辺はひとり、乾いた笑い声を上げた。
白っぽい照明も。とっ散らかった部屋も。それらが持つ薄暗さも。何もかもが、鬱陶しいほどに雄弁だった。早く言って、楽になってしまえと、俺の背中を撫ぜ続けた。
「ごめん」や「ありがとう」を素直に言える田辺のことが、俺は羨ましくて堪らなくなった。こんなにも誰かに優しくできる田辺に、俺はどうしようもなく憧れていた。
――本心では、田辺やミライや国見のようになりたかった。
――本当は、ずっと認めるのが嫌だっただけだ。
素直になることは、敗北と同義だった。認めてしまうことは、過去の自分を否定し、あざ笑うことと同等だった。どうしたって可哀想な自分を、俺だけは許して、認めて、愛してあげたかった。
でもここ一か月、俺は俺という人間に、ほとほと愛想が尽きていた。
ほとんどゼロに近しかった自己肯定感は、マイナスの域へ達し、自分を否定することで自分を肯定しようと躍起になっていた。自分を守ることと、自分を嫌いにならないこととのバランスは、とっくのとうに破綻していた。
開け放たれた窓から夏の夜風が吹き込んでくる。だがすっかり回った酔いはもう醒めることは無く、内に籠った熱をより一層強く感じるばかりだ。
「……なあ、田辺。俺に何があったか、聞いてくれないか?」
気づくと言葉が口をついていた。
田辺は夜の海のように、静かに頷いた。
それから俺は、波間に言葉を浮かべるように静かに事の次第を説明していった。
自分はどんな家庭環境で育ち弟にどのような感情を抱いているか、というところから、あの日リンに蹴り飛ばされたことまで、何もかもを思うままに吐露した。
そして先日の、動物園での事件について順を追って事細かに起こった出来事を説明した。
その内容に、虚偽の供述や誇張は無かったと思う。
事ここに至ってまで、自分を着飾って見せるつもりは毛頭なかったし、ここのところ何度も何度も思い出しては反芻していたから、俺はとても上手に自分の過去を語ることが出来たと思う。
田辺はそれを、時折重々しく息を吐きながら。時折俺の混ぜる自虐ネタに笑いながら。時折質問を投げて補足説明を促しながら。俺の長く鬱陶しい昔話を真剣に聞いてくれた。
そしてどのくらいの時間が経っただろうか。
「まあ、そういかんじで。リンにも決定的に嫌われて。俺はそれから、毎日死にたいなと思いながら、生きてるっていうわけなんだ」
俺はそう話をまとめ、ぐいっと酒をあおった。
すると、すっかり赤い顔をした田辺が突然、
「それはお前が悪いわけじゃねーよ」
と大きな声で言った。
田辺の濁声が鼓膜を揺さぶって脳に届きガンガンと響き渡る。俺は近所迷惑じゃないかと窓を少し閉ざしながら、「ああ、ありがとう」と無難な言葉をひねり出した。
というのも、こいつはまた知った風な口をきくのかと身体が反射的に身構えたのだ。何もかも洗いざらい話してしまった後で今さらだが、俺の心はずいぶんと身勝手にできている。
分かった風なことを言われるくらいだったらいっそ
『お前が悪いから素直に謝ったほうがいいぞ』
なんて月並みな説教をされた方がまだマシだな、などといつも通りのひねくれた予防線が脳内にはすでにしっかりと張り巡らされた。
だが田辺は俺の防波堤を見越してか、
「誰だって触れられたくないとこはあるだろ? それに比べられて劣ってるなんて言われたら誰だって傷つくっつの」
と、言葉を継ぎ足し継ぎ足しして、俺の心を揺さぶった。
「その三人は仲が良すぎてきくやんになら何言ってもいいって思ってんじゃねーかなぁ」
彼の緩い言葉が、二人の間にふわっと落ちる。
俺はその言葉の柔らかさに途端に申し訳なくなって、
「そうかなぁ。でもやっぱり、あそこで帰った俺も、よくなかったんだよ、たぶん」
と、それを大切に拾い上げた。
「なー、きくやんは逃げグセがあるよなぁ」
「おいぃぃ、なぐさめろよぉぉ」
今度はちゃんと、落ちる前に拾うことが出来た。田辺がケラケラ笑うから、俺はつい得意げになって、彼の肩を掴んでゆすると、
「やめろぉ、酔いが回るぅ。吐くぅー」
と言ってゲラゲラと笑った。
なんだか頭と身体がふわふわして、自分のものじゃないみたいだった。心地よい気だるさに包み込まれ、もう何もかも取るに足らないことのように思えてきた。
「いいじゃんか、悪いって思うなら謝れば」
田辺が氷を口に頬張りながら言う。
「えー、簡単に言うなよぉ」
「だいじょぶだって。きくやんならできるって」
田辺はぎゅっと親指を立てた。ハムスターみたいな顔に俺は笑った。
「なんだよそれ」
「オレ、人を見る目だけは確かだからさ」
「あーあ、おまえって良いヤツだなぁ」
口はもう、心と喉と直結していて、スラスラと言葉が出た。
田辺は「ありがとう」とまた楽しそうに目を細め、笑ってくれる。
「……前、四月にさ。遊びに誘ってくれたとき。せっかく誘ってくれたのに、先帰ってごめんな。気ぃ遣わせたよな」
もうここまできたら、ヤケだと思って、俺はつい隠していた秘密の箱を開けることにした。墓場まで持っていくつもりだった、とっておきのパンドラの箱だった。
でも田辺は、そんな俺の覚悟を知ってか知らずか、
「んな昔のこと、まだ気にしてたのかよ。やっぱきくやんは優しいヤツだなぁ」
と笑い飛ばした。
俺みたいな奴は考えすぎない方がいいこともあるらしい。長いこと親戚のおばちゃんを脊髄反射で喋ってるみたいだなぁと心の底で見下していたが、今になってようやくそれが大切なことで、幸せなことなのだと気が付いた。
「きくやんは自分のことに精いっぱいなだけで、ぜったい自分が思うほど悪い奴じゃねーよ。大丈夫、心配すんな」
田辺の声は徐々に熱を帯びた。
「それに他のみんなもさ、きくやんと一緒なんだよ。みんな色々悩んでて、普通に生きたくても、生きられないんだ。性悪説とか性善説とかいうけど、ほんとはみんな、弱いだけでさ。そういう人の弱さを、きくやんなら分かってあげられるから。だから心配しなくて大丈夫だよ」
――何を根拠に、とか。上から偉そうに、とか。
そんないつものひねくれた思考回路は、彼の言葉をありのまま受け取ろうと必死な自分に縊り殺された。もらった言葉を心に焼き付けて、放さないようにしようと思った。
なんだか、泣いてしまいそうだった。「ありがとう」と一言告げるのが精一杯だった。
それから俺たちは肩を組んだり、好きな子の話をしたり、一昔前のポップスを歌ったりしながら、浴びるように酒を飲んだ。
顔を赤くして笑う田辺の姿は、見ていてこっちまで愉快になった。
それから田辺が、実はもう二十歳だということを話してくれた。一度、他の大学に入ったもののどうしてもそこが合わずにやめて、一浪のときは年度の途中からのスタートだったと言う。
「偏差値がけっこー低いとこだったんだけどさ。だからかはわかんねぇけど、みんな遊ぶこととヤることしか考えてなくてさ、あんまり楽しくなかったんだよ。だからきくやんみたいにちゃんと人生悩んでるやつは好きだぜ」と言うから、俺は「だからお前は大人っぽいんだな」と笑い飛ばした。俺たちに歳なんて、もう関係なかったんだと思う。
気の早い夏の太陽が地平線の向こうから姿を現し、空が白んで街が灰色にぼやけるまで、俺たちは話をした。取り留めもない、つまらない話を飽きることなくし続けた。
きっと俺と同じくらいの年ごろの人間には、こんな時間はごくありきたりで、そこら中に転がっているものなのだと思う。
でも、それはたぶん俺がずっと求めていたものの一つで。どうしようもなく愛おしくて、楽しくて。救いに他ならなかった。




