ジュブナイル2
夏は恋がしたくなる季節。そんなCMやらキャッチコピーは腐るほどあるが、今年ほどそれらに疑問を感じたことはない。
夏なんて暑いだけだ。ベタベタして、蚊が出て、日焼けして。何もいいことはない。
だから俺が冷房の効いた室内に籠って、誰とも喋らず、もやしのように生きているのは合理的な選択に他ならない。夏だからと騒いでいる世の輩はただの阿呆だ。熱に浮かされて踊り狂う有象無象と俺は違う。
そう、俺はこれまで合理的な選択肢を選び続けてきた。
この夏、俺はふと気が付くと、これまでの人生を幾度となく振り返っていた。
リンと出会ったこと。弟と比べられることが多かったこと。リンが引っ越したこと。リンとまた会えたこと。何となく過ごしてきた中学時代。リンと再会して、ちょっとだけ楽しいと思えた高校時代。浪人して、でも成果が出なくて、くよくよ悩んで、みんなと一緒にいられなくなって……。
どんなふうに自分の人生を振り返ろうとも、今までの行いにどれだけ理由を後付けしようとも、最後はいつも同じところに行きついた。
同じ言葉がグルグルと何度も頭をよぎり、五月蠅いテレビのように嫌でも意識を向けざるを得ない。考えても考えても、答えは出なかった。そもそも、自分が何をこんなに悩んでいるのかさえもわからなかった。
何とかその出口のない暗い部屋から逃げ出そうとしたが、一向に光は見えず、ドアノブさえも見つからない。俺はそんな状態から目をそらそうと、勉強にすべてを注ぐことにした。
――朝起きて真っ先にリンの顔が思い浮かぶから、急いで英単語帳を開く。
――楽しかった時間が頭をよぎったら、数学の問題を解きまくる。
――布団に入って目をつぶると余計なことばかり考えてしまうから、今日勉強したことを眠りにつくまで思い出し反芻する。
そうやって、自分の心から感情らしき感情を削ぎ落としていくと、不思議と以前よりも良い人間になっているような気がした。
余計な喜怒哀楽はなくなり、粛々となすべきことをなしていく。家と予備校を往復するだけでまったく運動をしないからお腹は空かないし、夜は眠くもならない。低燃費で効率のいい人生だ。昨日と今日が入れ替わっても、きっと気づけない。そんなコピーアンドペーストの、モノクロな毎日だ。
だから俺は最初、その声が自分に向けられたものだとは気づかなかった。
「きくやん。きくやんってば」
久しぶりに人の声を聞いた気がした。田辺だった。
魂が身体に舞い戻ってくるような、そんな感覚がして、急に視界が開けた。
ここは予備校の教室前。授業と授業の間の、休み時間。田辺は俺の知り合い。そんな基本的な情報がぽつぽつと頭に浮かんでは消えていった。
ともかく「ああ」と返答を絞り出したが、声がかすれていた。
「大丈夫か? なんか顔色悪くね?」
変わらない田辺の姿になぜだか涙が出そうになったが、それは堪えた。
「あ、ああ。いや、別に。だいじょうぶ」
「ほんとかよ? あんま無理すんなよ。きくやんもこっちの校舎来てたんだな。俺も普段習ってる先生がこっちで授業するから来てんだけどさ」
「そうなのか」と俺は何の意味もない言葉を発した。どうやって人と会話をしていたのかを忘れてしまったみたいだった。
なんとなく目を合わせづらくて視線を下に落とすと、田辺が変なジーンズを履いていることに気が付いた。ピストルで撃ち抜かれたみたいに穴が開いている、ボロボロのやつだ。こんなものを履くのが最近のオシャレというやつなのだろうか。
「そういえばさ、最近、富永ちゃんと会ってないの?」
「なんか言ってたのか?」
噛みつくように素早く首をもたげ、早口で言ったからだろうか。田辺は少し戸惑った表情を浮かべた。
「いや、悪い、何も。きくやんが元気ないのは富永ちゃん絡みだろうなって思っただけ」
「いや、その、……ちょっと、色々あって」
「喧嘩でもしたの?」
なんでこいつはこんなに鋭いんだろう。やはりリンから何か聞いたんじゃないだろうか。そう思っていたら、「きくやんは自分で思ってるよりわかりやすいタイプだよ」と笑われた。
その笑顔は誰かによく似ていて、でもそれが誰だったかはあまり思い出したくはなかった。
高校時代、数人だけいた友達モドキの中に、田辺のようなタイプはいなかった。俺なんかと話してくれるのは、俺と同じように根暗で、友達を作るのが苦手なやつばかりだ。
田辺はさりげない気遣いができて、余裕があって、この広い世界で自分を主人公とする物語をちゃんと歩んでいる。俺とは違うのだ。だから、俺は田辺のことをわからないし、田辺は俺のことをわからない。わかるだなんて、簡単に言わないでほしかった。
何も言わない俺の肩を、田辺がぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だって、きくやんは優しいから。気楽に考えなよ、何とかなるって。ま、なんかあったらいつでも相談しろよ」
そう言って能天気に微笑む田辺の顔が、今度はぴったり重なった。
途端にあの日の曇り空がフラッシュバックし、抑え込まれていた黒く醜い感情が渦を巻いて蓋を押しのける。
俺は田辺の腕を力いっぱい叩き落した。
「俺は、田辺とは違うんだよっ。くだらないことでもいちいち悩むし、みんなが当たり前にやってることだって俺には難しいんだよっ。そんぐらい分かれっ」
自分のどこにそんな力が残っていたかわからないというほど、大きな声が出た。
歪む視界の向こう側に、檻の中に入れられた赤茶色の動物が見える。
ああ、そうだ。あれはレッサーパンダだ。
地にへばりつき、草を食むだけのつまらない日々を送っている哀れな生き物。できることは、空を飛ぶ鳥に思いを馳せて、醜い嫉妬に苛まれることだけ。
そう、あれは俺だ。あれが俺なのだ。
「脳みそ空っぽです」と自白しているようなプリン頭のヤツに、あんな惨めな生き物のいったい何が分かると言うのだ。
弟に「未来」という名前を付けられた兄の背負う苦痛が、本当に分かると言うのか。
誰も俺を理解してくれないし、誰にも俺を理解してほしくない。そのことが最後の砦であり、努力も怠慢も偶然もすべてを帳消しにしてくれる必然の女神であった。
わかったようなことを言わないでほしかった。日向に咲いた花が、日陰に咲く花を訳知り顔で語るなど、絶対にあってはならないことだった。
袖で目元を拭い、俺はすべての罪を擦り付けるかのごとく、強く睨み付けた。
八つ当たりは百も承知だった。けれど、そうすることでしかもう自分を保つことができなかった。
一瞬、田辺の輪郭が揺らいだ気がした。そう、それはまるで彼を構成しているすべてが組み変わるような、そんな揺らぎがあった気がしたのだ。
「……そうやって決めつけられると、ちょっと傷つくよ」
彼はどこか悲しげにそう言った。その声ははっきりとせず、いつもうるさいくらいしっかり喋る田辺らしくなかった。
彼の目は、高いところにいる人間が低いところにいる人間を見るときのそれではなかった。悲しみだけがただそこに、静かに佇んでいた。
鈍い光を宿したその瞳を前に、俺は途端に言葉を失った。壊すなら、無残な姿をさらす電化製品がいいに決まっている。そんな目で、悲しいなんて言わないでほしかった。
周囲が若者たちの溌剌とした空気で満ちていようと関係なかった。ただ二人の間には、深い海のような静寂が広がっていた。
「きくやん、飲み行こうぜ」
虹が空に溶けていくかのように、スッとその表情が消える。
いつもの人懐っこい笑顔で、彼はそう言った。




