旧友
うだるような暑さも少し落ち着く夜。
予備校からの帰りの電車の中。俺は一人、英単語帳をめくっていた。
――scarcely……「ほとんど~ない」。
――fact……「事実」。
――beside……なんだったけ。「そばに」だったような……。
「あ、菊池じゃん」
呼びかけられ、ほとんど防衛反応とも言うべき速度で単語帳から視線を外す。顔をあげるとすぐそばに、黒と茶色の混ざった髪色の男性がいた。
「久しぶりじゃん」
親しげに声を掛ける彼が何者なのか、一瞬、俺はわからなかった。
白のTシャツに、上から黄色と黒のチェックのシャツを羽織り、下はジーンズと、黄土色のスニーカー。背中にはロフトで売っていそうなリュック。
どこにでもいそうな、普通の大学生の格好をしたその人物に、俺の心は「こんな知り合いはいないぞ」と叫んでいた。
だがしかし、英単語の海から引き揚げられた思考は徐々に記憶の森をさまよい歩き、ついに彼のことを思い出すことができた。
彼は国見聡。高校時代の友人だった。
「あ、国見か」
「そうそう、お前、一瞬忘れてやがったな」
にこっと笑ったその表情で、記憶は鮮明に蘇る。
普段、人間を顔ではなく、髪型と服装で識別している俺だが、鬱蒼とした高校時代を共にやり過ごしてきた、片手で数えられるほどしかいない貴重な友人ともなれば話は別だ。
国見の笑顔は、俺の高校時代の数少ない思い出の一頁だった。
「いや、びっくりしただけ。お前、変わったな」
国見は高校時代は眼鏡で黒髪だった。ありていに言えば、もさっとした陰キャで、俺と同族だった。
しかし今の彼は眼鏡をかけておらず、髪の毛も茶色が占める面積が増え、黒の領土を侵食している。誰だかわからなくなっていても当然だった。
「そう? みんな大学入ったらこんな感じだよ。菊池は変わんないな。あ、それデュオじゃん。なつかしー」
国見は俺の手に持つ赤と青の単語帳を愉快そうに眺めた。
友人の変貌ぶりに、胸がざわざわし始める。
彼は元々、こんなに騒がしい男ではなかった。俺が高校時代に仲良くしていた数少ない人間のひとりなのだ。どう考えても根暗な陰キャ。クラスカーストの最底辺に決まっている。俺たちはそれでいいのだと思って生きていたはずだった。
だが今の彼は、紛れもなく、そこから抜け出そうとしていた。
「オレも英語勉強しなきゃなぁ。トーイック受けなきゃなんだよ」
車内の強すぎる冷房が、また一段と強まった気がした。
俺は彼の言葉を聞き流し、
「……なんかちょっと、お前、酒臭いぞ」
と、声を潜めて告げた。
「ん、そう? 飲み会帰りだからかな」
国見は声のボリュームを変えないまま続けた。よく見たら、彼の顔は赤くなっている。
「いいのかよ、その……月曜から飲んでて。明日も学校あるんだろ」
――お前、俺と同い年だろ?
言おうか悩んで、その言葉はぐっと飲みこんだ。自分の常識は彼の非常識に成り下がってしまったのだから、価値観を押し付けることは無為だ。
「いいのいいの、大学生なんて毎日が日曜日みたいなもんだから。明日は自主休校にする予定だし。文学部って試験もない授業がおおくてレポートばっかだから余裕なんよ」
「自主休校って……」
彼は高校時代、「学校にゾンビ来ねーかな」とかぼやきながらも、なんだかんだ一日も欠席せず、遅刻もしないヤツだった。俗に言う大学デビューというやつなのだろうが俺は時の流れの速さに戸惑わずにはいられなかった。
俺の微妙な空気を感じ取ってだろうか。国見は唐突に「浪人、どう?」と話題を変えてきた。
「……まあ、色々あるけど。今は集中できてる、と思う」
無難な言葉をツギハギしただけの言葉はひどく他人事で、自分の近況を表すものとは到底思えなかった。自分の口から飛び出したはずなのに、それは希望や嘘がないまぜになって遠くの誰かの言葉になってしまった。
周囲の乗客たちはきっと心の中で、俺たちのちぐはぐな会話をせせら笑っているだろうと思った。
ここのところ、しばらく人間らしい会話というものをしてこなかったせいか、俺の社交性やコミュ力は地に落ちているようだ。自分にはリンしかいなかったのだから、それは当然のことだし、それはそれでいいと思っていた。
しかし、現実世界の住人とこうしてコンタクトを取らねばならないとき、俺はふと俺を見失う。
――俺の浪人生活はいったいどうなのだろうか?
冷静に考えると、眩暈がしてくる。
――受験に受かるための足踏みの一年なのだから、受からなければ価値はない。
そう言い切ることは簡単だ。まだ判定は出ていないのだ、と。
だが、楽しまなければダメだと広瀬も言っていた。耐え忍ぶだけの一年にしてほしくないと。
俺はいま現時点で、この浪人生活に対し、どう評価を下すべきなのだろうか。
そして、知り合い以上友達未満の相手に成り下がってしまった旧友対し、俺はどんな言葉を紡ぐべきなのだろうか。
国見はそんな俺の苦悩を知ってか知らずか、「そっか、頑張ってるならよかった」と苦笑いを浮かべた。
電車が進む。会話に空白が生まれる。俺は急いでリンや田辺。ミライや平野がこういう時なんというかを考え、言葉を探した。
「……国見はどう、大学。楽しい?」
国見は待ってましたとばかりに相好を崩して話し始めた。
「うーん、思ってたよりは楽しいよ。昼まで寝て、バイト行って、飲んで。の繰り返しかな。いろんな人と喋れてさ、すごく世界が広がるんだ」
「へぇ、そうなんだ。それはよかった。サークルは? 落語研究会、入ったの?」
「いや、落研はなんかちょっと暗そうだったからやめてさ。よさこいサークル入ったんだ」
「よさこいって、あのお祭りの?」
「そうそう、踊るやつ」
彼は狭い車内にも関わらず、腕をぶんぶんと振り始めた。
俺はその姿をただ眺めていた。白い目で見ることも、温かい目で見ることも、どちらも出来なかったので、目の前で起こるその事象をただ眺めていた。
彼と俺は、よく二人で休み時間に、渡り廊下で空を眺めながら、落語の話やプロレスの話をした。
――談志は教科書に載せて、授業で聞くべきだとか。落語は教科書とかそういう堅苦しいものとは無縁でいるべきだとか。
――プロレスは受けの美学という言葉に逃げすぎだとか。一般ピーポーにプロレスの素晴らしさを分かってもらうためには、分かりやすい標語がいるんだとか。
他人からしたらつまらない青春だろうが、俺には今でも良い思い出だった。
だが彼の中ではもうすっかりそんな過去は無かったことになっているのだろう。
四か月という時間はかくも残酷なものかと思わずにはいられなかった。
「あ、オレ、次の駅だ」
大きすぎる独り言が、俺の心をまたも海面に引っ張り上げた。
「菊池が変わってなくて安心したよ。受験終わったら、一緒に飲み行こうな。じゃ……」
国見は心の底から嬉しそうに言う。
やっと終わりの時間が来たのだ。今日初めて俺と国見は同じ感情を共有できた。あとは「おう、またな」と言うだけ。その一言で秩序は保たれ、静寂は取り戻される。
でも、どうしても、俺は友を裏切ることが出来なかった。
「なあ、最後に一つだけ……。バカなお前に教えといてやるよ。未成年はな、酒飲んじゃいけないんだぞ」
国見の笑顔は消し飛び、半開きの口だった。
赤い顔は、すこしだけ白くなった気がした。
ゆっくりとドアが開く。外気が車内にむんわりと流れ込んできた。
「じゃあな」
消えそうな声で、彼はそれだけ言って、電車を降りた。
鹿の剥製みたいな、淀んだ瞳が脳裏に焼き付いていた。
車内は相変わらず冷房が効きすぎていた。照明も、光が強すぎるような気がした。人間も、いささか乗りすぎていた。何もかもが、過剰だった。
悲しかった。かなしくてかなしくて、堪らなかった。
だが、こうすべきだと思った。後悔は、ないはずだった。
どうしても、俺は友を裏切ることが出来なかった。
たとえそれが二度と戻らない、終わってしまった友情だとしても。俺が変わらず俺のままでいることを、四か月前の彼に証明しなければならなかった。
『月曜から飲むくらいなら、こんな健康的な時間に終了しないで、朝まで飲んでろよ』
『なんでテニスサークルじゃなくて、よさこいなんだよ』
『だいたい、なんだその汚い頭は。黄土色のスニーカーとかダサいだろ。非リアが頑張ってる感がみっともないんだよ。つまんねえ没個性的なあそぶんがくぶになりやがって』
言葉に出来なかった思いが、ずっと渦巻いていた。
どうにかその濁流を掻き消そうと、単語帳を開いた。
――be beside oneself……「ひどく興奮する、取り乱す」。……「トムはひどく取り乱していて、現実と虚構の区別がほとんどできなかった」。
俺はどうでもいい例文にすら余計な感情が沸き起こってくるのを感じて、ぱたんと単語帳を閉じた。
電車の中は水風船で溢れていて、どうにも目のやり場に困り、すっと瞳も閉じてしまう。
このまま目を閉じてどこか遠くへこの身体を運んでしまいたいと思うのに、空気の読めないアナウンスは乗り換えるべき駅の名を告げる。俺は仕方なく瞼を開けた。
自分が嫌い。他人が嫌い。何もかもが嫌い。
モヤモヤした。ホームで俺を待ち受ける暑さが、ただただうざったかった。
これがまだ一か月以上続くのかと思うと、今すぐ死んで、楽になりたいと思った。




