表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/38

自己嫌悪

 


 なかなか沈まない西日が差し込むリビングで、赤ペンのキュッという摩擦音だけが響く。


 何度数え直しても、やはり点数は変わらなかった。


 テーブルに広げた解答用紙と、模範解答。俺は自分以外誰もいないのをいいことに、「あーあ。やっべぇ」と大きな声で呟いた。


 今日受けた模試の丸付けを早速してみたが、結果は散々だった。これじゃあ現役のときのほうがマシ、というくらいの目も当てられない結果だった。


 あまり規模の大きな模試ではないし、問題との相性が悪かっただけかもしれない。もしくは現状を把握できてよかったと思うべきなのかもしれない。だが何にせよ、ひどい結果であることに変わりはなかった。


 試験というのは一瞬の駆け引きが必要なスポーツとかではないのだから、少し悲しいことがあったくらいで成績が大幅に下がることはない。でもだとしたら、この悲惨な模試の結果を何のせいにしたらいいのだろう。


 いちおう改めて模範解答を見ながら問題を見返してみたが、どの問題も特別難しくはない。もちろん試験の場では解けなかったのだが、どうして解けなかったのかがよくわからない。もう一度同じ問題が出たら解けるのだからそれでいいじゃないかとも思うのだが、実際には同じ問題が出てくるわけがないのだから気休めにはならない。


 五月半ばに受けた全国模試の結果がこの前返ってきて、それがあまりよくなかったのと、この頃のごたごたで勉強に集中できていないのがあって、気持ちを切り替えるために受けたはずの今日の模試。それがこんな結果だなんて正直、マズい。


 いっそ志望校を下げるか、国立を諦め、私立に絞ろうかとも考えた。私文なら、リンと同じ学校に行けるかもしれないし、それもいいかもしれない。


 俺は悶々と反省とも後悔とも懺悔ともつかぬ考えを巡らせたが、心に重くのしかかる憂鬱は消える気配がなかった。




 翌日、わざわざ予約を取って予備校のチューターとかいう職員に相談してみたが、何の役にも立たなかった。


 スーツの似合わない茶髪の若い女性に中身のないそれっぽい正論を言われたって、「はい、そうですね」としか言いようがない。まあしかし彼女も語尾を伸ばして話す癖だけは直した方がいいと思う。どうしたってバカっぽいし、説得力がない。




 焦りからか、俺はそれからしばらく、何かに追いかけられる夢をよく見るようになった。


 何に追いかけられているかはわからない。夢の中ではそいつが何なのか、はっきりとわかっているはずなのに、目が覚めた時にはもうすっかり忘れていて、漠然とした恐怖だけが心に残っている。


 殺し屋、悪魔、死神……。思い浮かぶのはそういうヤツらだ。俺を破滅へ導く存在。それが俺をどこまでも追ってくる。そういう、とても気分の悪い夢を、最近よく見るのだ。




 機嫌の悪いときに限って、苛立つことは起こるものだ。


 ミライから電話が来たのである。月曜の夜のことだった。


 どうせ母からの伝言だろう。このあいだ、ミライと気まずくなったのを良い機会だと思い、母にもう弁当は要らないと連絡したのだ。


 何度も電話を掛けてこられるのも嫌なので、俺は携帯を取った。


「もしもし、兄貴。オレだけど。こないだ、悪かった。メイも悪気があったわけじゃないんだよ」


 機械を通して少しは緩和されているはずなのに、ミライの媚びるような滑らかな声が、ひどく耳についた。


 ――どうして俺は、弟に気を遣われなければならないほど落ちぶれてしまったのだろう?


 その原因は、他でもなく、受話器の向こう側の人間にあるように思われてならなかった。


「母さんが、心配してる。弁当、また持って行ってもいい?」


 たった二言だった。


 だが、俺にはひどく雄弁に聞こえた。


 ――オレはしばらくそっとしておくべきだと思ったけれど、母さんがどうしてもと言うので仕方なくこう言ってやっているんだ。オレも板挟みで大変なんだ。だから、素直にうんと言ってくれよ……。


 そんな傲慢が随所にちりばめられた言葉と声だった。


 イエスかノーかで答えられるような質問に、俺はあえて言葉を尽くしてやることにした。


「お前はそうやって色んな人に気を遣って偉いよな。……そーいうの、なんていうか知ってるか? 八方美人て言うんだぜ」


 受話器の向こうで何かが落ちる音がした。でもそれはきっと気のせいだろう。


「弁当は要らない。今さら母親ヅラすんなって言っとけ」


 俺はスマホを壁に投げつけた。ガシャンと音がする。だがまだ足りない。


 もっと何かを壊したいと思い、とりあえず目の前にあった電気スタンドを握り、壁に叩きつけた。パリンと綺麗な音がして、壁には小さな傷がつく。


 次に床に置いてあった扇風機を蹴り飛ばした。力なく倒れ込むその姿は滑稽で、ベッドの縁にぶつかり首が折れる姿はそこそこ見物だった。


 少ししてからスマホを見ると、液晶画面が割れていた。いくつもの亀裂が走り、粉々に砕け散ったそれを、俺はひどくみっともないと思った。




 夏期講習はいつもと違う校舎で授業を受けることにした。


 迷路みたいな地下を通ってなんとか駅を抜け出し、道に覆いかぶさる巨大な蜘蛛のような歩道橋を通ったところにある、味気のない灰色のビル。そこが俺が夏のあいだ通う校舎だ。


 廊下や階段は狭く、トイレもタイル張りで古くさい。普段通っているところの方が明るくて綺麗だった。


 講師はというと、あまり違いはない。学校の教師もたいがいだが、予備校の講師はみんなどこかしら似ている。背筋がピンと伸びていて、スーツが似合わなさそうな髪型で、話すのがやたら早くて、妙な経歴の持ち主で、たとえばバツ三とかで。頑固で、ひねくれもので、まあ一言でいえば変人だ。お前らの自分語りになんか興味がないからさっさと授業をしてほしいと心底思う。


 ――通常授業のクラスはお休みなのでちょうどいい。たまには違う先生の授業を聞くのもいいだろう。


 そんな考えでこちらの校舎に来ただけだったが、グネグネとした道を進み、古臭いビルにたどり着くと、やはりいつものところの方が良かったんじゃないかと悔やまずにはいられなかった。


 そして、そんなふうに堪えきれないほどイライラしたとき、真っ先に思い浮かぶのはリンのことだった。


 大きくて、ちょっとつり上がった瞳。小さくつんと尖った鼻。小さな口をめいいっぱい大きく開けて、歯を見せて笑うあどけない表情。色素が薄く、茶色がかったクルクルした髪。瞼を閉じれば、すぐに思い浮かんだ。


 ――リンならなんて言うだろう? リンならどう思うだろう?


 そんなことを考えていると、少しだけ気持ちが安らいだ。


 そのうち何だか勉強を頑張った先に、リンが待ってくれているような錯覚に陥った。


 ――ここを頑張れば、リンと仲直りできる。模試で良い成績をとれば、リンに素直に謝って、また一緒にいられる。


 なんだかそんなふうに思えてきたのだ。我ながら気持ち悪いとは思うが、せめて頭の中でだけでもリンと会えなければ気が狂ってしまいそうだった。


 周りをビルに囲まれ陽の光の届かぬ予備校で、毎日勉強だけをし続ける。俺たちはまるで囚人のようだった。


 朝から晩まで勉強をすることを課せられ、昨日と同じ今日を繰り返す。楽しいことなど何もなく、解かねばならない問題だけが頭上に降り注ぐ。


 ――血のにじむような努力? 死んだ方がマシだと思える地獄?


 そんなものではない。そういうものとはほど遠い。こんなもの、本当の絶望に比べたら甘え以外の何物でもないだろう。他人が見たら、何をぬるま湯に浸っているのだと笑われてしまうのだろう。


 だいたい受験勉強なんて、生きるための一つの手段に過ぎない。クリエイティブでもないし、特段の努力をせずともある程度の結果が出る。


 大学はピンからキリまで無数にあるのだ。どこのレベルで満足するかは人それぞれで、自分がそこで良いと本気で思っているのなら、他人からとやかく言われたって気にしなければいい。


 ――要は勝手に悲劇の主人公を気取っているだけ。


 それはわかっている。理屈ではわかっているのだ。けれど、多くの自己中心的な人間と同じように、客観的な意見など俺にはどうでもよかった。


 リンのおかげで、俺は今日まで生きてこれたのだ。リンだけが、俺に幸せをくれたのだ。だから最初から、俺を本当に不幸にできるのも、リンだけだったのかもしれない。


 失ってから気づくなんて、本当にバカな話だ。


 わかっていたはずだ。ずっと前からそうだった。人生は、思い通りになんていくわけがない。自分のすべてを否定されるようなことが何度だって起こる。苦しくて、悲しくて、眠れない夜がある。そんなことはわかっていた。


 一人でいると孤独を感じ、二人でいると劣等感に苛まれ、三人でいると疎外感を覚える。そんな俺が、幸せになれるはずもないことは、ずっと前からわかっていた。


「人間が嫌い」なんて嘯いているだけだ。人間に嫌われているのは、俺の方だ。人間がどうしようもなく好きなのに、人間サマはどうやら俺が好きじゃないらしい。


 俺には何もない。いい大学に行ける頭の良さも。それだけで生きていけるような運動神経も容姿も。誰かに羨まれるような非凡な才能も。他人から愛される魅力も。人並みの優しさも。努力し続ける根性さえも、俺には何もない。


 空っぽな俺を、誰も選んではくれない。誰にも選ばれない俺は、どうしてここにいるんだろう? 生きている意味なんて、ありはしないのに。


 出口のない真っ暗な部屋に閉じ込められたような、そんな焦燥と不安だけが傍にあった。日々感じる欠落を埋めてくれるものは、もう何処にもなかった。


 何も持っていない俺からただ一つの救いさえも奪うなんて、神様も相当頭がイっている。きっとドラッグでもやっているのだろう。それならいっそ虎にでもしてくれれば楽なのに神様はどこまでも俺に対してはサディスティックで、人生はナイトメアモードだった。


 いつまでもやまない雨の中で虹を待つ余裕などない俺は、ともかく勉強に逃げることにした。他のことを考えないで済むように。自分のしてきたことから目を背けるために、俺は黙々と勉強をし続けた。


 浪人生が勉強をするのは、すべきことをしているのだから、別に逃げではないだろう。でも、やっぱりこれは「逃避」だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ