不協和音
――俺という魂は、この世界における一個の旅人に過ぎない。
二人に悪気がないのはわかっていた。
――誰の魂にもそれ以上の価値はない。
俺がイヤだって言えば、やめてくれるのも知ってる。
――だから、人間が互いに苦しめ合うことくらい、バカげたことはない。
きっと二人は、謝ってくれるだろう。
――それでも人は、些細なことで争ってしまう。
だが、謝ってほしいわけじゃなかった。
むしろ、絶対に謝罪なんてしてほしくはなかった。
ただどうしようもなく、惨めで、悔しくて、悲しかった。どうしても耐えきれなかった。
「そうそう、背だけだからさ」
口角をぎゅっと上げようとしたがもうダメだった。ピクピクと頬が痙攣し、笑顔を浮かべることを拒絶している。
周りの様子がやたらと目に入るのは、きっとみんなの顔を真っ直ぐに見られないからだろう。二人で同じ方向を見つめているカップル。エサを欲しそうにあたりをうろつく鳩。手作りのお弁当を囲み、楽しそうに笑っている家族。
――みんなみんな、死んじまえばいいと思った。
「弟がレギュラーやってるところで、ドリンクつくってモップかけとかやってたんだぜ。カッコ悪いだろ?」
――あーあ、言っちゃった。笑えよ。笑うとこだろ。何か言えよ、悪魔女。
ちらりと見ると、平野は「やっちまった」とばかりに目を見開いて固まっている。
こいつもこんな顔するんだな、と俺は少しだけ愉快な気持ちになった。
動物園を吹き抜ける風は動物たちの息吹が混じって生臭く、仄かに暖かい。汚いものを嫌う現代社会においてこの生き物特有の匂いは異質で、なぜだか俺はロンドンスモッグを思い出した。
「悪い、帰る」
それだけは言った。それが俺なりの、最後のプライドだった。
自分のゴミを抱えて立ち上がると、リンが「待ちなよ」と俺の腕を掴んだ。
普段なら嬉しいと思うだろうに、今はまったく嬉しくなかった。ただ鬱陶しいだけだ。
「いいよ。ちょっとなんか、気まずくなっただけだから」
「だからって、なんで帰るのよ」
大きくて、綺麗な瞳が射るようにこちらを捉えていた。俺はいつだって、真っ直ぐに人の心を問いただす彼女の目に憧れていた。
けれど同時に、ずっと怯えていたのだ。その瞳が救いようのない醜さと、死に物狂いでそれを隠し通そうとする虚勢とを見抜くことを、俺はずっと怖れていたのだ。
自己防衛のため、俺の脳は素早く回転を始めた。
ミライはイケメンで運動も勉強も得意で。平野は性格は悪いが顔が良くて、世渡りも上手くて。リンは可愛くて、世界一優しくて……。
三人と釣り合ってなくて、どうしようもないのは俺だ。だから、大丈夫だ。
彼らとは対等じゃないんだから、俺が彼女たちに笑われるのも、彼女らのなんてことない言葉に傷つくのも、当たり前だ。だって俺は、分不相応にも、彼女たちと一緒にいたいと思ってしまったのだから。
不協和音は俺だ。俺がいなくなれば世界の調和は保たれる。
「俺がいたら、空気悪いだろ」
思わず目を背けると、リンは力強く手を引っ張った。
「自分で悪くしといて何言ってるの?」
冷たい声だった。俺は人生で初めて、リンに対して憎いという感情を抱いた。
「だから、俺が帰れば丸く収まるだろっ」
無理やり手を振りほどいて歩き出す。走り出したかったが、それだけは堪えて、一歩一歩地面を踏みしめて前に進んだ。
三歩ほど、歩いた後だった。背中に強い衝撃を浴びて、前にずっこけた。アスファルトでこすった手から血が出て、肘や膝がじんじんと痛む。
振り返ると、ずれた眼鏡越しに歪んだリンの像が結ばれていた。リンは鼠色の空をバックに、目を真っ赤にしてこちらを見下ろしている。その顔はまるで具合が悪いみたいに真っ白で、頬だけがくっきりと赤く染まっていて、口は真一文字に結ばれていた。
さっきまであんなに楽しそうに歯を見せて笑っていたのに、どうしてそんな顔をしているんだろうと思った。誰がリンにそんな顔をさせたんだろうって。
リンは何か言おうとして、言葉を探しているようだった。
でも結局、リンは何も言ってはくれなかった。
雨が降りそうだった。
俺は立ち上がり、家路を急いだ。
走って帰ったから、雨が最初の一粒を落とす前に家にたどり着くことができた。
ベッドのあたりに服を脱ぎ捨てる。見ると、ジャケットの背中あたりにスニーカーの跡がついていることに気が付いた。
「あいつ、よくこんなところまで足上がったなあ」
ふとつぶやいた自分の声は震えていた。気が付くと涙がこぼれ落ち、靴跡の上にぽつりぽつりと染みをつくっていった。
リンが怒った。
いままで、怒らせたことは何度もあった。でもいつも、いつの間にか仲直りしていた。
そう、リンには何度も怒られてきた。でも泣かせたのは、初めてのことだった。
どうしたらいいかわからなかった俺は、ともかくすがりつくことにした。
俺にとって最も大事なことは、リンと一緒にいることで。リンに一緒にいてもらいたいがためだけに許しを請うた。
親に外に放り出された子どものように、教師に廊下に立っているように言われた生徒のように、俺はそうすることが誠意なのだと疑わなかった。
結果は、散々だった。
翌日、予備校でリンを見かけた俺は、走って追いかけて声を掛けた。「昨日はごめん」と。
リンは「どうして私が怒ったかわかった?」と優しく聞いてくれた。
だから俺は正直に、
「どうしても、わからないんだ。なんで、リンが怒ってるか。その、知りたいんだ。それで、できたら仲直りがしたい。だから教えてくれないか」
と言った。
「わかんないなら、教えたってわかんないよ」
「わかるまで考えるよ」
誠意を持って答えたつもりだった。自分の中に燻る怒りを必死で押し殺し、聖人ヅラしているつもりだった。でもそれは、自己満足に過ぎなかったらしい。
「……やっぱり、わかってないんだね」
リンは心底悲しそうにそう呟いたあと、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「あたしが怒ってるのは、ヤマトが人と向き合わないで逃げたからだっ。昔からあんたはそうだ。自分に自信がないからって人の気持ちまで勝手に決めつける。自分の気持ちをぶつける勇気も、相手の気持ちを聞く度胸もない。否定されたくないからって、先回りして、自分で自分を否定する。最低だよ。そんな人間と誰も一緒にいたいなんて思わない」
周りの人がこちらを見ていた。でもそんなことはどうでもよかった。
誰にだって優しくて明るいリンが、光のない瞳で、人を傷つけるための言葉を使う。
こんなリンは、見たことが無かった。こんなリンを、見たくはなかった。
俺はまた、逃げ出した。




