動物園
朝九時、俺は平野に言われた通り、まず家の前でリンと合流し、それから集合場所へと向かった。リンは白いホットパンツとストライプのシャツを着ていて、伸びる白い足が目に毒だった。
集合場所の大きな時計へ向かうと、ミライと平野はすでに着いていた。黒と白のギンガムチェックのシャツに、グレーっぽいスカートという平野の今日のコーディネートは大人っぽくて、認めたくはないがとても綺麗だった。ミライも平野に合わせてか白黒グレーのシックな装いで、本当にお似合いのカップルだ。
遠くからでもすぐわかる、絵になる二人の姿に俺は少し戸惑ったが、それは一瞬のことだった。
平野の、
「富永さん、初めまして、平野芽衣ですぅ。会いたかったぁ。ミライ君にお話聞いてますぅ」
などという、悪魔の身体のいったいどこから出ているのかもわからない猫なで声に、吹き出すかと思ったからだ。
まったく、俺に対してもそのくらい愛嬌があればいいものを。
動物園は日曜ということで、子連れやカップルでかなり混んでいた。普段は人混みなど大嫌いな俺だが、リンと一緒なら嫌ではない。
最初に見たのは、猛禽類の檻だった。
俺は嘴とか足とかの毒々しい感じが苦手なのだが、「ワシかっけえええ」「鷹かっけええええ」「トビかっけえええ」「猛禽類げきあつ、待ち受けにするぅぅ」とはしゃぐリンを見ているだけで楽しかった。
カバのたるんだお肉。どこの動物園で見ても日曜日のお父さん状態のカンガルー。でっかい柴犬みたいな狼。ライオンは凛々しさの欠片もなく、日曜日のおっさん再び。ホッキョクグマはいつ見ても暑くないのかなぁと思う。
俺は動物たちを見てもそんなふうな、おおよそ動物園を楽しむ気のない感想を抱くだけだったが、リンの楽しそうな姿を見られれば他の哺乳類などどうでもよかった。「見て見て、ヤマト。あれ、ちょーブサイクじゃね?」なんて笑いかけられたら、なんだか本物のカップルみたいだなぁとこっちまではしゃぎたくなってしまう。
もうすぐ夏が来る。そんな予感を秘めた水無月の太陽に照らされて、リンは普段よりもずっと可愛らしく、輝いて見えた。
ミライと平野はシカを見て「目が死んでるなぁ」「はく製になってもきっとおなじ虚ろな目をしてるんだろうね」「永遠に草食べてそう」「ドアが閉まるときの軋む音みたいな鳴き声だよね」なんていうカップルらしくもない冷めた会話をしていた。あの二人の距離感はいまだにちょっとよくわからない。きっと世間の目には、俺とリンの方がお似合いのカップルに見えているだろう。
わかっていたことだが、このメンバーで来た以上、楽しいことだけではなかった。
それはレッサーパンダを見たときだった。
「耳が白いのがあざとい」とか「自分が可愛いの知ってる」「なんでこいつが自然界で生き残れたのか不思議」なんて、女性陣が盛り上がっている中、ミライがぽつりと言った。
「レッサーパンダのレッサーは小さいとか劣るとかって意味らしいね」と。
「え、そうなの?」とリンが言うと、「パンダより先に発見されたけど、パンダが後から見つかって、レッサーパンダって名前になったとかって聞いた気がする」とミライが続けた。
俺はどうしようもなく、レッサーパンダに自分を重ねてしまい、せっかくの幸せな気持ちに黒い染みを落とされたような気分になった。
少しずつ雲が出てきて、空が陰ってきた。午前中はジャケットだと少し暑かったが日が隠れ、ちょうどいいくらいの気温になった。
昼は売店でホットドックや唐揚げ串を各々買って食べることにした。
ミライは平野のぶんを払おうとしていたが、俺がにっこりと平野に笑いかけると、平野は笑い返し、きちんと自分の財布からお金を出した。
こいつらがどうして付き合っているのかは今日一日見ていてもよくわからなかった。やはり悪魔とATMの関係なのだろうか。
外に並べてある白くて丸いテーブルで思い思いの物を食べていると、平野が口を開いた。
「お兄さんて、なんか部活やってたんですか?」
動物を見ているあいだじゅうずっと話をしていたので話のネタが尽きたのだろう。気持ちはわかるが昔話はやめてもらいたかった。
「やってないよ」
「ずっと?」
俺は否定とも肯定とも取れないように、首を軽く斜めに振った。これでこの話は終わりだと思ったら、「中学のときはやってたでしょ」とミライが余計なことを言った。
「え? 知らなかった。なにやってたの?」
リンが食いついてきた。中学時代の話は意識的にしないようにしていたのだから、知らないのも当然だ。俺が仕方なく、低く小さい声で「洗濯係」と答えても、二人はまだきょとんとした顔をしていた。
「……洗濯、してたんだ」
そう繰り返すと、ミライはようやく気が付いたらしい。
リンは「そうか洗濯部か、いいじゃん、女子力上がりそう」と笑った。いつもの天真爛漫なリンの笑顔も、今の俺には毒でしかない。
「え、そんな部活あるわけないじゃないですか」と平野はまだ追及をやめてくれない。
「メイは何部だったんだっけ?」とミライは話を逸らそうとした。
でも、もう手遅れだった。
空高くカラスが飛んでいた。きっと俺たちの食べ物を狙っているんだろう。
売店で買った割高のメロンソーダを口に運んだが、味がまったくわからなかった。氷たっぷりだからだろう。思わずストローを噛みそうになって、すぐにそれを口から離した。
「サッカー部のマネージャーだって、前言ったじゃん」
平野はそう言って、気が付いたらしい。
「あ、そっか。お兄さん運動部の補欠とかですか? 洗濯しますよね、マネージャーとかと一緒に」
「そ、正解。バスケ部の補欠」
引きつっている口角を俺は無理やり上に持ち上げた。
「ああ、バスケ。背だけは高いですもんね、お兄さん」
いつもの嫌味だ。「『だけ』ってなんだよ」って笑い飛ばせばいい。いつものことだ。
背が高いと言っても一センチ、ミライに負けていることだって、今に始まったことじゃない。
「ちょっとぉ、メイちゃん。そんないじめないの。ヤマト繊細なんだから」
リンは口ではそう言いつつも、声が上ずっていて、口元もにやにやと緩んでいた。
「え、繊細? 神経質の間違いじゃないですか?」
平野も一緒になってニヤついた。
言葉が矢になって、心に突き刺さる。感情の血液がドバドバとあふれ出て、また俺は一歩、共感能力の乏しい社会不適合者へと近づいていった。
「しぃー。その通りなんだけど、しぃぃー」
リンが人差し指を口にあてる。二人はげらげらと笑った。ミライだけがこっちを不安げに窺っていた。
俺がバスケ部の補欠で弟がレギュラーでチームのエースだったことも、そのことを俺が気にしていたことも、ミライだけは知っていた。だからミライは俺に気を遣う。
でも、気を遣われることにさえ俺はイライラするのだ。茶化されて笑われても、気を遣われても、どちらにしても俺の心には大きな波紋が広がる。
どうしてこんな何気ない会話で、劣等感に苛まれずにはいられないのだろう。なんて小さい人間なのだろう。みっともない。恥ずかしい。面倒臭い。うざい。
わかってる。わかってるんだ。そんなことくらい。
でも、リンにだけは……。
リンにだけは、どうしても笑われたくなかった。




