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フライング大学デビュー、もとい遅めの高校デビュー

 


 動物園に行く三日前、俺は髪を切ることにした。


「どこでどう切ったらそんなにダサい髪型ができるんですか?」


 と平野に笑われたから……。


 というわけでもないが、いつも行っている安さと早さが自慢の床屋ではなく、繁華街にある小じゃれたメンズサロンとやらに行くことにした。


 勉強も小休止とネットで色々検索したのだが、綺麗なお姉さんがいる美容室は怖いという結論は揺らがなかった。普通に話しかけられるだけでも怖いのだから、そのお姉さんの顔が近いというだけで冷や汗が止まらなくなるのも道理である。


 俺は昔から散髪が苦手だった。まず、よく知らない相手に顔の周りに刃物を近づけられるというだけで信じられないほどの嫌悪感を覚えるのに、それに加えて彼らは親しげに話しかけてくるのだ。


 まったく、なぜ話しかけることがサービスだと思っているのだろう? それはコミュニケーションが希薄になっている現代においては時代遅れの、顧客のニーズを考えない押しつけがましいものだとなぜ気が付かないのだろう?


 マッサージみたいに眠っている間にぜんぶ終わらせておいてくれる散髪があったら大流行すると思う今日この頃である。


 そんな俺がなんとか気合を入れてメンズサロンの扉を開けるというのは、「イメチェン」などという薄っぺらい言葉では形容できず、もはや「革命」とさえ言えるだろう。


 雑居ビルの一室にある店に入り、最初に目に飛び込んできたのは、ピンクの髪の毛のお兄さんだった。


 俺は一瞬、入る店を間違えたのかと思った。しかしあたりを見回すと、たしかに大きな鏡やら椅子があり、髪を切っている人もいる。髪を切っている人の髪の毛はくすんだグレーだし、切られている人のは明るい茶色だが、どうやらここであっているらしい。


「お名前よろしいですか?」と言われ、そのままカウンセリングシートなるものを書くように促される。見ると、「髪の毛のお悩みはなんですか?」から「趣味はなんですか?」まで十個ほどの質問があった。趣味は項目の中からチェックをつけるタイプなのだが、選択肢には「山登り」「サーフィン」などがあるのに「マンガ」「ネットサーフィン」「アニメ」などはない。やはり来る店を間違ったらしかった。


 しかし「サービスについて」という欄に「どちらかというとあまり話しかけないでほしい」という項目があったのがせめてもの救いだ。俺はその四角い枠にゴリゴリと太字でチェックをつけた。もし「学生さんですか?」なんて鋭利な言葉とともに雑談を始められようものなら、俺は居心地の悪さに喀血する自信がある。


 書き終わると、こちらへどうぞと言って奥へ通された。ピンクでもだいぶ度肝を抜かれたのに、半分だけ赤とか、前髪の一部がグリーンとか、彩り豊かな髪の毛をした人が多くいて、俺はもう本格的に恐怖を感じ始めていた。ここはクラブか、バーか、はたまた異世界か。なんにせよ、ここはもう俺の常識が通用する場所ではなさそうだった。


 そんな常識外れの異空間に俺がどきまぎしていると、どこからか「きくやーん」という声が聞こえた気がした。


 ぎくりとそちらを向くと、てるてる坊主のような格好をした田辺が鏡に向けて小さく手を振っていた。どうりで見覚えのある汚いゴールデン頭があると思ったわけだ。


 俺は鏡に映る田辺に軽く会釈だけして、さっさとお兄さんのあとに続いた。


 美容室なんて知り合いに会いたくない場所ナンバーワンだが、この髪色がワンだーランドな世界で逆に田辺に会わない方が不自然だと気づくべきだった。もっとよく下調べをするべきだったと俺は強く後悔した。「男性のスタイリストのみ」「初めての美容室に」「お気軽に髪型のご相談を」という言葉に乗せられすぎた。


 黒い大きな椅子に座らせられ、「今日はどうしますぅ?」と頭の右半分だけ赤い髪をしたお兄さんが馴れ馴れしく声を掛けてきた。


 よくよく耳を凝らすと田辺が店員さんと楽しげに話しているのが聞こえてくる。彼のいつも通りの能天気そうな声を聞いていたら、ここはそれほど敷居の高い場所でもないと思えてきた。


 俺がいつも通り「前髪は眉毛の上で、横は耳が出るくらいで、あとテキトーに短くしてください」と言うと赤髪のお兄さんはちょっと困った顔をした。お兄さんは続きの言葉を待っているようだったが、俺のボキャブラリーでこれ以上どうやって髪型についてのオーダーを出せというのだと思っていると、


「うーんと、じゃあこんな感じとかどうっすか?」


 と鏡の前に置いてある雑誌の表紙にある、イケメンの一人を指さした。


 その雑誌の見出しは大きく「流行のモテる髪型100」なんてある。こんな髪型になったからと言って顔のパーツが違うんだからどうしようもないだろうと思うが、表紙のイケメンたちの中では、お兄さんが指さすイケメンが一番イケメンではない気がしたので、俺は「じゃあそんな感じでお願いします」と言った。


 なぜだか最初に頭を洗われたり、ともすればクリップで髪を留められたり、マッサージをされたりとよくわからないことが多かったが、ともかく小一時間ほどで散髪は終わった。


 普段行っているところと比べると六倍の時間がかかり、四倍の値段がしたが、なんだか少し達成感があった。肝心の髪型はいつもと違うなぁ、というくらいでこれがカッコいいのかはよくわからなかったけれど、ともかく大人の階段を一歩登った気がしたので、それでよしとすることにした。


 翌日、俺の髪を見たリンからは「フライング大学デビュー? それともちょっと遅めの浪人デビュー?」と言われただけだったが、まあそれはそれでよかった。


 動物園に行く前に気合を入れてる、なんて思われるのは死ぬほど恥ずかしいからだ。


 俺にとって本心とは、絶対に隠し通さなければならないものだった。それはひどく醜い感情で、それは人が獣に戻ることを意味していて、それは周囲に弱みを晒すことと同義だったからだ。


 しかし本当のことを言えば、俺は気合が入っていたし、日曜が来るのをとても楽しみにしていた。こんなにも何かを待ち遠しいと思えたのは、幼稚園の頃クリスマスを待っていたとき以来かもしれない。あれこれと妄想を抱いてはフワフワと飛んで行ってしまいそうになる風船のような心を、俺はしっかりと掴んで離さないようにするので大忙しの一週間だった。




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