レールから外れた僕ら
授業の無い日曜だったが、俺とリンは朝から自習のため予備校にいた。
時刻は十二時二十五分を少し過ぎた頃。約束の時間なので俺は自習室を出て、リンを待っていると、偶然田辺に出会い、今日は三人でのランチとなった。
ラウンジは人が少なくて、広々としていた。自習室は人口密度が高くて息が詰まりそうだったので、ありがたい。
三人で並んで座り、各々昼食を広げる。俺のは朝、コンビニで買ったコロッケパンだ。
「こないだの模試、どうだった?」
田辺がおもむろに話題を振る。食事の時くらい勉強の話題は避けたい気もするが、俺たちは浪人生なので共通の話題もそのくらいしかない。
「俺はぼちぼち」
「まぁたお前はそうやって話を広げる気のない返事をする。だからコミュ障なんだぞ、協調性見せてけ。ほれもうワンカット」
リンがお弁当のプチトマトを手でつまみ、ヘタを取りながら言う。
今日のリンの昼食は家から持参した弁当だ。野菜多めで彩りよく、リンの母親の女子力の高さがうかがえる。
「きくやん、大丈夫。俺もやばかったからって。正直に言ってみ」
田辺がコンビニの納豆巻を食べながら言う。
リンの雑なフリに応える元気はなかったし、田辺の優しさも面倒だった。
コロッケパンはまだ二口目だが、すでに食欲がなくなっていた。受験の時はストレスで太る人も多いと聞くが、俺は運動しないとお腹が空かないタイプな上に、ストレスで食が細くなるタイプなので、その心配はなさそうだ。
「わかったよ……満を持して、正確な情報を伝えるよ。……五十八だったよ」
「や、何がやねん。点数? 偏差値? 二百点満点?」
リンがすかさずツッコミを入れる。
「そこはご想像にお任せします」
「まじきくやん、話広げる気ねぇなぁ」
田辺がいよいよ困ったように笑った。
「なあ、田辺。こいつまじ絶望的につまんないけど、これからも仲良くしてやってな」
「おっけー、任せろ」
正直、今回の結果は、客観的に見ればそれほど悪くはないが、志望校を考えれば決して良い成績とは言えなかった。つまり、言っても反応に困るような点数だったのだ。
しらけると分かっている答えをわざわざ言うつもりにもなれない。
それに、この成績で満足するわけにはいかなかったから、ヘタな慰めとかは絶対にもらいたくなかった。
この時期の模試はまだ現役生が未習の範囲が多く、成績が高く出やすいと聞いていたのに、結果はC判定だった。もっともっと精進しなければならない。
「いや頼むから昼くらい勉強のことを忘れさせてくれよ。脳を使うと消化に悪いらしいぞ」
俺はそろそろ本格的に話をそらしたいと思い始め口火を切った。
「甘いぞきくやん、我々はいつ何時であっても勉強のことを忘れるわけにはいかないのだ。昼ご飯を食べている最中であっても勉強の話をすることで、『ああ、大丈夫。俺、一秒も無駄にしてないっ』って自分に言い聞かせて安心するんだよ」
「なんだよそれ、疲れそうな思考回路だな。メリハリって大事だろ」
どうにかコロッケパンを完食する。もう一つの焼きそばパンは食べずに持って帰ることにした。
「常に景気の悪い顔してるヤマトにメリハリとか言われてもねー。田辺はどうだったの? 模試の結果」
「いやあ、まあね。非常に素晴らしい成績ではあったのですがね。ま、はい、ここで気を緩めずにね、鍛錬を続けていきたいと考えておりますね、はい」
「なにその鬱陶しい喋り方」
「ヒーローインタビュー風?」
「君らの愛の無いツッコミに、私はいよいよ慣れてきておりますね、はい。てかじゃあリンちゃんはどうだったの?」
「私はねー、数学だけよかった。もうマジ広瀬先生のおかげだわ。私はこの出会いに感謝したい。もうやばい、広瀬先生の数学が好き過ぎる。広瀬先生が好き過ぎる」
リンが目を輝かせて言う。彼女は最近、数学講師の広瀬に心酔しているのだ。帰宅途中の雑談の話題も、最近はもっぱら数学のことだ。
「はは、恋だねぇ」
「やー。ほんとこれは恋と言っても過言じゃないね。あの人の数学の話が好き過ぎてやばい」
リンは本当に嬉しそうだったし、田辺も微笑ましいなとばかりに目を細めていた。
つまらない日常会話の、つまらない一幕。
しかし、俺の心中は穏やかではない。
――もしリンが俺のことを好きになってくれたら、俺は俺のことを、どれほど価値のある人間だと思えるだろう?
そんなことを日々考えながら俺は生きているので、目の前で堂々とあんな変人のことを好きだと言われると、それなりにショックだ。
もちろんリンが恋愛感情という意味であのロン毛のおっさんを好きだと言っているのではないとわかっているし、広瀬の数学の話は確かに面白い。
『対数は天文学の分野で使ったりするんだよー、数が大きいものを扱う時に役に立つんだよねー。「対数は天文学者の寿命を二倍にした」とかって言うんだよねー』とか。
『微分の本質はぐにゃぐにゃに変化するものの変化の割合を、拡大して直線で表せることなんだよね。文系の皆さんにはあんまり関係ない話かもですけど、だからこそよく根っこのところを考えてほしいんだ。この範囲、何も考えずに公式にあてはめて解いてるだけになりやすいから。教科書の最初に立ち返って、リミットとかの意味を思い出そうね』とか。
そんなふうに、知識欲を刺激するような話し方をしてくれる。先生の見ている数学の世界に自分も触れてみたい、と思わせてくれる。
だから実際、俺の数学の成績も上がっていたし、リンの気持ちもわかる。が、それを差し引いても余りある俺のリンへの九年越しの想いだ。心の隅っこで嫉妬するくらい許してほしい。
「私文なのに数学好きって珍しいよね」
田辺が言う。彼も食事を終えたらしく、がさごそとゴミを片付け始めた。
「いやもう、数学が今、愛おしくて仕方がない。数Ⅲ勉強したくなってきたもん。理転したくなってきたもん。三角比に微分積分使ってみたくて仕方がない。そして英語と古文が憎くて仕方ない」
リンがマシンガンのように言葉をつなぐ。
「理転」とは文系から理系に転向するということだ。
「あの人、昔から人気の先生らしいからね。昔は参考書とか出してたらしいし」
「そういう情報よく知ってるな」と言うと、
「ま、だてに二浪してないからね」と親指を立てた。
「「ええっ」」と、俺とリンの声が重なり、ラウンジに落っこちる。
「なんだよその反応、知らなかった? 俺のあだ名、ジローじゃん?」
「いや、知らねえよ。知らなかったよ。言えよ、初対面の時に言えよ。私普通にタメ口きいてたよ」
リンのマシンガンがまたも火を噴く。
「いやいや、全然気にしないでよ。てか敬語使われたりしたくないから最初黙ってたんだって」
田辺は寂しさなど微塵も感じさせずに笑う。もうすっかり慣れているのだろう。二浪ということで、相手に線を引かれてしまうことに。
「そっか、おっけ。しかし、どうりでちょっとダメな大人の風格があると思ってたらまさか年上だったとは。二浪してるからジローってことか」
「じゃあ去年はイチローで、来年はサブロー?」
色々思うところがあってさっきから言葉が出てこなかったが、俺はようやく話に加わることが出来た。
すかさず、「来年はこないわっ」と田辺が笑う。
なんだかとりあえず、許されたような気持ちになった。
「というかあれよ。ラーメンが好きだからってのもあってジローなんだ」
「ああ、なるほど」
「ラーメンを食べた後は予備校に行かないというのを信条にしている」
「それは心情じゃなくてマナーでしょ」
「いやぁ、ニンニク抜きは邪道だよね」
狭いラウンジにまた笑い声が響く。
予備校の休憩室というのは、都会のビル群の中にできたエアポケットみたいなスペースだと思う。ぽつりと隔離された密閉空間は世間からの避難所のようで、居心地の良さと居たたまれなさが常に同居している気がする。
「そう、でもさ、話戻すようだけど。私立文系でも経済学部行ったら数学だらけらしいよ。微分とか超使うらしいし」
田辺が優しく言う。いよいよ本格的に彼が年上に見えてきた。
「そうなんだ。うーん、まあやっぱり……理転はないかな」
リンが少し考え込むようにしながら、弁当箱をゆっくりと片付ける。
「そう? 数学が好きなら物理とかやってみたら案外、才能が開花するかもよ」
俺は少し、冗談交じりに言ってみた。
別にリンに理系になってほしいとは微塵も思わない。
でも、田辺がさっきから色々優しくアドバイスというか、色々情報を共有していることに、つい張り合いたくなってしまった。
それに、リンが明るく言いながらも今回の英語と古文の成績に落ち込んでいることは口ぶりから何となくわかっていて。思い付きでもなんでも、何か言ってあげたくなった。
「いや、決めた。理転するなら大学入ってからにする。そのほうがきっと楽だろうし」
リンは綺麗にお弁当箱を綺麗に包み終えると立ち上がり、すぐそばの自販機に歩み寄った。
「そうだね、まずはいったん大学に入っちゃうっていうのも一つの手だよね」
「うん、それにやっぱ浪人てさ、一回負けたのにコンティニューするようなもんだと思うから。他の道に逃げることは許されないと思うし、親にも申し訳が立たないから」
アセロラジュースを買ってリンは席に戻ってきた。あの独特の酸っぱさが苦手で俺は絶対に飲まないが、リンはこれが好きだ。
「うーむ、たしかに。わかるな。社会のレールから外れてるっていう負い目はやっぱ、常につきまとうよね」
二人は「だよねぇ」と顔を見合わせ、自分たちの現状を憂いていた。
それからも二人はしばらくの間、浪人生という境遇の不甲斐なさと申し訳なさについて、熱く語り合っていた。
――近所のおじちゃんに「大学生活楽しんでる?」と聞かれて返事に困るとか。
――「大学生になる前に成人式を迎えるなんて、小学生の時には夢にも思わなかった」とか。
――気を抜くと、「あれ、これって今、何の時間ですかああああ?」と自習室で叫びたくなるとか。
俺はあいづちを打っていたが、二人とはどこか気持ちに温度差があることに気づいてしまった。
俺には昔から、社会のレールから外れている感覚があった。
浪人になったからといって、急に自分がそこからドロップアウトしたという思いは、それほどなくて。
孤独も、疎外感も、劣等感も。俺の傍らにいつもあったものだった。




