第3話:女子トイレの境界線
――シーン1:女子という「役割」――
一ノ瀬久遠に放たれた「自分を騙している」という言葉が、呪文のように俺の頭を離れない。
授業中もふとした瞬間に彼の後頭部を見つめてしまう。
(あいつ、何なんだよ……。俺が「元男子」だってバレたのか? いや、そんなはずはない。如月博士が記録はすべて抹消したはずだ……)
脳内では荒々しい男言葉が渦巻いているが、座っているのはチェックのスカートを履いた銀髪の美少女。
そんな俺の葛藤を置き去りにするように、休み時間のチャイムが無情に鳴り響く。
「さくらー、トイレ行こ!」
隣の席から、佐倉ゆきなが明るく声をかけてきた。
これだ。女子高生特有の習慣、「連れトイレ」。
男だった頃の俺には理解不能だったこの儀式が、今の俺には最大の難所だった。
「あ……えっと……ごめん、ゆきな。私は……少し後から行く……わ。ちょっとノートをまとめちゃいたい……の」
「えー? 相変わらず変なとこ真面目だね。じゃあ先に行ってるよ!」
ゆきなが教室を出ていく。俺はペンを握りしめたまま、深く溜息をついた。
……限界だ。
朝から我慢していた生理現象が、この「柔らかい体」に容赦なくプレッシャーをかけてくる。
――シーン2:境界線の前で――
廊下の突き当たり。
「女子」と書かれた赤いシルエットのプレートが、俺を嘲笑っているように見える。
(落ち着け。俺は今、白雪さくらだ。外見も、戸籍も、何もかもが女子……。入っても通報はされない……)
自分に言い聞かせ、俺は意を決してその境界線を踏み越えた。
芳香剤の甘い香りと、パウダールームで鏡に向かってリップを塗り直す女子たちの喧騒。
「ねえ、見た? 一ノ瀬くん、超タイプなんだけど」
「でもさっき白雪さんと話してたよね。やっぱり美人は得だわー」
個室に入る。内側から鍵をかけ、ようやく一人になった。
だが、ここからが本当の地獄だ。
スカートを捲り上げ、ぱつぱつのショーツを下ろす。
そのたびに指先に触れる、滑らかな肌の感触。
男だった頃には決して知ることのなかった、女子の体の「仕組み」と向き合わされる時間。
「……ふぅ」
用を済ませ、水を流す。
個室を出て手洗い場の鏡の前に立つ。
そこには銀髪を揺らし、少し頬を赤らめた「白雪さくら」がいた。
この体は美しい。あまりに美しすぎて、時々、自分という「中身」がこの美しさを汚しているような、泥沼のような自己嫌悪に陥る。
「……気持ち悪い……わね。自分でも」
ぽつりと漏れた言葉は誰にも届くことなく、水道の音に消された。
――シーン3:静かなる追跡――
トイレを出て、誰もいない裏廊下を通って教室に戻ろうとした時。
「……そんなに自分の体が嫌いか?」
心臓が止まるかと思った。
壁に背を預けて立っていたのは、一ノ瀬久遠だった。
「な……一ノ瀬くん!? どうしてここに……っ」
「偶然だ。……あんたトイレから出てきた時、ひどい顔してたぞ。まるで死に場所でも探してるみたいにな」
彼は俺に歩み寄る。その距離が近くなるにつれ、ブレザー越しでも分かるほど俺の心拍数が跳ね上がった。
「な、何を言ってるのか……分からない……わ。私はただ、少し疲れが……」
「敬語もその女らしい喋り方も。全部メッキが剥がれかけてる。……白雪さくら。あんた、あの事故の時、本当は何が起きた?」
一ノ瀬の瞳が、俺の瞳の奥を覗き込む。
その瞬間、俺の脳裏に、激しい雨音と、歪んだ鉄屑、 shadow、真っ赤な血の記憶がフラッシュバックした。
「……っ、やめて!」
俺は一ノ瀬の胸を突き飛ばした。
女子の体とはいえ、元運動部の感覚で放たれた一撃は重い。一ノ瀬は少しよろめいたが驚いたような顔をして、すぐに悲しげな微笑を浮かべた。
「……その反応。やっぱり、ただの美少女じゃないな」
「うるさい……! あ、あんたに何が分かる……っていうのよ!」
俺はたまらず、その場から逃げ出した。
全速力で走る。スカートが翻り、銀髪が風に舞う。
背後で一ノ瀬が追いかけてくる気配はない。
(何なんだよ、あいつ……。あたしをどうしたいの……)
教室に戻ると、ゆきなが「さくら、どこ行ってたの?」と不思議そうな顔をしていた。
あたしは何も答えられず、ただ自分の柔らかい胸に手を当てて、激しく波打つ鼓動を鎮めることしかできなかった。
それは「恐怖」なのか。それとも初めて自分を見つけてくれた人間に対する名もなき「期待」なのか。
あたしの中の「男」と、この体の「女」が、バラバラに悲鳴を上げていた。
(次回予告)
一ノ瀬久遠への疑惑と動揺が止まらない中、
如月研究所から一通のメールが届く。
『定期メンテナンスの時間だ。白雪さくら検体』
明かされる身体の秘密、そしてゆきなが抱える「ある想い」。
次回、第4話「放課後の秘密会議」
物語は日常の裏側に潜む「歪み」を暴き始める。




