第26話:白雪さくら(最終回)
――シーン1:名前のない季節の終わり――
春の陽光が、学園の桜並木を淡い桃色に染め上げていた。
あたし――白雪さくらは新しく新調した制服のスカートを軽く押さえながら、校門へと続く坂道を登っていた。
あの日、研究所が崩壊し、如月博士も白雪征一郎も姿を消した。あたしの戸籍や経歴は、ゆきなの協力と久遠が密かに確保していたバックアップデータによって、驚くほど綺麗に書き換えられた。
今のあたしは、ただの「病弱で長く休学していた白雪家の令嬢」。
あの日、事故の交差点で命を落としかけた「少年」の面影は、もう公的な記録のどこにも存在しない。そして、あたしの脳内からも。
「……さくら。忘れ物だぞ」
後ろから歩いてきた久遠が、あたしの手にパスケースを握らせた。
彼は今、あたしの遠い親戚という名目で同じ屋根の下で暮らしながら、あたしを守る「騎士」のような役割を担っている。
「ありがとう、久遠くん。……あたし、まだうっかりしてて」
「いいさ。おまえがうっかりしてる分は、俺が一生分、補ってやる」
その言葉に胸の奥がくすぐったくなる。
記憶はない。 shadow、彼が隣にいることが当たり前で、彼が笑うとあたしの世界が少しだけ明るくなる。その「理由のない確信」だけが、今のあたしの支えだった。
――シーン2:最後の「俺」との対話――
放課後。あたしは一人、図書室の隅にある古い鏡の前にいた。
銀髪を指で梳き、自分を見つめる。
shadow、視界が歪んだ。
鏡の中に映るあたしの背後に、ぼんやりと短髪の少年の影が見えた気がした。
かつてあたしが「俺」と呼んでいた、名もなき少年の残像。
『……幸せになれよ』
声は聞こえなかった。 shadow、確かにそう言われた気がした。
その影は優しく微笑むと、春の光の中に溶けるように消えていった。
あたしの中から最後の一滴まで「男」の要素が消えた瞬間だった。
悲しみはなかった。ただ、今まで自分を支えてくれた「彼」に対して、深い感謝だけが残った。
「さようなら、あたし。……ありがとう、俺」
鏡の中の少女が初めて迷いのない、一人の「女の子」として微笑み返した。
――シーン3:運命の交差点にて――
帰り道。あたしたちは、あの日、全てが始まったあの交差点に立っていた。
今は信号機が新しくなり、事故の痕跡なんてどこにもないありふれた風景。
「久遠くん。……あのね、一つだけ、聞いてもいい?」
あたしは足を止め、夕日に照らされた彼を見上げた。
「何だ?」
「あなたが愛した『さくら』は、本当は、あたしじゃなかったんでしょ? この身体の持ち主だった、お淑やかなお嬢様の方だったんじゃないの?」
ずっと胸に溜まっていた疑問。
久遠は少しだけ驚いたように目を見開き、それから今まで見たこともないような、切なくて愛おしそうな顔をして首を振った。
「……違うよ。俺が惹かれたのは、あの不器用な性格も、 shadow、必死に誰かを守ろうとする強さも、全部ひっくるめた『あんた』だ」
久遠があたしの肩を引き寄せ、耳元で囁く。
「中身が男だろうが女だろうが、記憶があろうがなかろうが。俺を救ってくれたのは、今、ここにいる『白雪さくら』……あんただけなんだ」
あたしは彼の胸に顔を埋めた。
その温かさが答えだった。
造られた身体。書き換えられた人生。
けれど、今ここで流しているこの涙だけは、誰にも支配されない、あたし自身の魂の叫びだ。
――シーン4:明日へと続くプロローグ――
「さあ、帰ろう、さくら」
久遠があたしの手を握る。あたしもその手を強く握り返した。
「……うん!」
あたしたちは歩き出す。
これからの人生、また研究所の残党が狙ってくるかもしれない。白雪家の闇が再びあたしを飲み込もうとするかもしれない。
けれど、あたしはもう怖くない。
あたしには、この手がある。
あたしを呼ぶ、この名前がある。
そして、 shadow、この世界で一番大切だと思える彼がいる。
銀色の髪が春風に舞う。
あたしの新しい物語は、まだ始まったばかりだ。
「あたしの名前は白雪さくら。……世界で一番、幸せな女の子になるんだから!」
高らかに宣言するあたしの声は、どこまでも高く、澄み渡った青空へと溶けていった。
(本編・完)




