第10話:胸の鼓動、これは誰の?
――シーン1:甘い眩暈――
放課後の廊下。
あたし――白雪さくらは、激しい動悸と共に壁に手をついた。
(……はぁ、はぁ。なんなのよ、これ……っ)
心臓が内側から肋骨を突き破らんばかりに跳ねている。
病気じゃない。原因は、数メートル先を歩く背中――一ノ瀬久遠だ。
彼が他の女子と一言、二言、言葉を交わしただけで、あたしの視界はチカチカと火花を散らし、胸の奥が焼き切れるように熱くなる。
かつての「俺」なら、こんなことで動揺したりしなかった。
嫉妬? 独占欲?
いや、これはもっと本能的な、この「白雪さくら」という肉体が求めている渇きのようなものだ。
「さくら! 顔色悪いよ、やっぱりメンテナンス不足なんじゃないの?」
後ろから駆け寄ってきた佐倉ゆきなが、あたしの肩を支える。
「……大丈夫……。ただの、立ちくらみ……よ」
あたしはゆきなの手を振り払うようにして、前を歩く一ノ瀬を追った。
この時、ゆきなが見せた「冷徹な観察者の目」に、あたしは気づく余裕さえなかった。
――シーン2:階段踊り場の沈黙――
「一ノ瀬くん……っ!」
旧校舎へ向かう階段の踊り場で、あたしはようやく彼を呼び止めた。
一ノ瀬は足を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳は相変わらず深淵のように暗く、 shadow、どこか悲しげだ。
「……白雪か。そんなに息を切らせて、どうした」
「……あ、あんたが……変なこと言うから……っ。サプリを飲むなとか、あたしを壊すとか……!」
あたしは一ノ瀬の胸ぐらを掴もうとして、その指先が震えていることに気づいた。
掴むはずの手が、彼のシャツの裾を力なく握りしめる。
「……あたし、最近おかしいの。あんたを見ると胸が苦しくて……。中身は『俺』のはずなのに、この体が、あんたを……」
「……体が俺を求めてる。そう言いたいのか」
一ノ瀬の声が、あたしの耳元で低く響く。
彼は逃げようとするあたしの腰を引き寄せ、逃げ場を奪った。
冷たいコンクリートの壁と、彼の体温の間に挟まれる。
「それはあんたの意思じゃない。如月博士が仕込んだ『肉体的適応』の結果だ。……あんたの中の『俺』が消えれば、その体は完成する。俺を好きだと思い込む完璧な人形にな」
――シーン3:抗えない口づけの予感――
「人形……? そんなの……っ」
あたしは首を振った。
けれど、至近距離で見つめる一ノ瀬の唇に、視線が吸い寄せられる。
頭では「逃げろ」と叫んでいるのに、あたしの指先は彼の首筋に絡みつこうとしている。
一ノ瀬の手があたしの顎をクイと持ち上げた。
銀髪がさらりと肩からこぼれ、踊り場の薄暗い光を反射する。
「……白雪。あんたの魂は今、どっちにいる?」
一ノ瀬の顔が近づく。
まつ毛の先が触れそうな距離。
あたしは目を閉じた。
これが博士の仕掛けたプログラムだとしても。
この胸の痛みも、高鳴りも、今この瞬間に感じている熱さだけは嘘じゃないと思いたかった。
『……だめ』
その時、脳裏にあの「銀色の声」が響いた。
あたしの意識がふっと遠のく。
「……っ、一ノ瀬くん……あ、あたし……」
あたしの体から力が抜け、一ノ瀬の腕の中に崩れ落ちた。
意識が途切れる寸前、あたしが見たのは。
廊下の影からスマホを向けて、こちらを撮影している「佐倉ゆきな」の無機質な姿だった。
――シーン4:暗転する世界――
「……検体さくら。適応率、85パーセント」
暗い部屋。モニターに映し出されるのは、踊り場であたしが一ノ瀬に抱きかかえられている静止画。
如月博士は、満足げに椅子にふんぞり返った。
「順調だね、ゆきな君。恋心という劇薬は魂の融和を何よりも加速させる」
「……ええ。さくらはもう自分のことを『俺』だとは思い出しもしませんよ。……かわいそうに」
傍らに立つゆきナの声には、親友を想う色など微塵もなかった。
彼女が手にしていたのは、研究所のIDカード。
あたしの胸の鼓動。
それは誰のものなのか。
あたし自身のものか、博士の実験か。
shadow、この肉体に刻まれた、悲しい愛の記憶の残骸なのか。
(次回予告)
意識を失ったあたし。
如月研究所の地下深くで、ついに『事故』の全貌が明かされる。
shadow、一ノ瀬久遠は、さくらを救うために禁断の手段に出る……。
次回、第11話「研究所からの招待状」
銀髪の美少女に隠された、もう一つの『魂』が目を覚ます。




