【9】「雲の上の人」と、向き合う side:花梨
バーの暗がりで交わした、あの深いキスの夜から数週間。
花梨と優哉の時間は、静かに、けれど確実に積み重なっていた。
あれから何回か、彼に誘われて食事をしている。
誘ってくるのは彼。場所は決まって、人目を忍べる完全個室のレストランや、看板のない隠れ家だ。
お互いの仕事の時間を縫って、ランチだったり、ディナーだったり。でも夜遅い時間になることはなかった。
会えば彼は、甘い笑顔で「花梨ちゃん」と呼ぶ。楽しそうに話をし、食事を取り分けてくれる。
でも、それだけ。あの夜のようなことは、もうなかった。
だから、あの日のキスについて、花梨は何も聞けなかった。
今日も。
昼下がりの電車に揺られながら、花梨はさっきの逢瀬を思い出していた。
今日はランチだった。ランチといっても友達みたいに、そのへんのカフェ、というわけではない。高級ホテルのレストラン、最上階の個室が用意されていた。
帰り、いつものようにタクシーで送るよ、と言う彼に、今日は買い物に行くから大丈夫、と断った。
「電車で帰るね」
「本当に大丈夫?」
花梨の顔を覗き込む優哉の心配ぶりがおかしくて、ちょっと笑ってしまった。
時間だって昼間だし、私、もう一般人なんだよ。そう言うと、優哉は照れくさそうに笑っていた。「俺、花梨ちゃんのことになると心配しすぎちゃうのかも」
またそんな言葉にも、胸が高鳴ってしまう。
でも、優哉はあの時以来、キスどころか、触れてくることはない。あの日のことについても何も言わなかった。
(……あの時だけの気まぐれだった、ってことなのかな)
「俳優はみんなクズ」「売れ出したらとっかえひっかえ」
…サキの言葉が事実なら、ちょっとキスするぐらい、なんてことないだろう。
あの時だけ、気分が盛り上がってしまったのかもしれない。もしかしたら、そのあと後悔したのかも。今も食事に誘ってくれるのは、気を遣っているだけなのかも。
彼にとって花梨は、懐かしい話ができる、かつての仕事仲間。
ただそれだけ、なのかも。
――考え出すと暗いことばかり考えてしまう。でも、考えてもキリがない。答えも出ない。
(やめようやめよう)
電車が目的地に着いて、花梨は駅に降り立った。
駅の構内に、大きな広告が掲示されている。最近発売されたミネラルウォーターのものだ。草原の中で商品をこちらに差しだすように持ち、リラックスした笑顔を向けているのは…
(…優くん)
優哉だった。
(そういえば、この広告の話、してたな)
前回の食事のときだったか。
――「朝日と一緒に撮るからって、深夜入りで準備して撮ったんだよね。直前まで雨で、足元泥だらけになって。大変だったな」
…そんなことを言っていた。
彼の話を思い出しながら、立ち止まって見上げてしまう。
「…すみません、ちょっといいですか?」
急に横から話しかけられ、花梨は驚いてそちらを見た。
制服を着た、女子高生二人組だった。
「これ写真撮りたいんで」
広告を指しながら、一人がちょっと不機嫌そうに言った。ど真ん中に立っていた花梨がじゃまだ、ということだろう。
「あっ、ごめんなさい」
花梨はあわてて歩き出す。
女子高生たちは張り切って写真を撮り出した。「ビジュ最高」「この笑顔やばい」そんな言葉が、離れる背中越しに聞こえた。
駅を出て、デパートに向かう。
「ずっと、いっしょにいよう」
低く、やわらかい声が響いて、信号待ちをしていた花梨はまたはっとした。
駅前の交差点、ひときわ目立つ電光掲示板。
「楽しいときも、つらいときも、そばにいるよ」
生活のいろんなシーンで隣にいる優哉が次々に映し出される。
「ダウンロードはこちらから」
スマホアプリの広告だった。いつも持ち歩くスマホだから、いつもそばにいるよ、ということなのだろう。
信号が変わる。
花梨は掲示板から目をそらし、歩き始める。
「ニシハラユーヤじゃん」
「『オフィスラブ』よかったよね」
「ベストカップルすぎなかった?2人マジで付き合ってるんじゃね?」
「え~熱愛出たら無理かも」
「あたしはあの2人だったらアリかも」
今時のファッションに身を包んだ若い女の子たち数名が、そんな話をしながらすれ違っていった。
不思議な気持ちだった。
つい数時間前まで二人きりで話していた人が、街中で次々に現れる。そしてみんな彼に夢中になっている。
自分だってかつては同じような立場だったが、今彼の人気はかつての自分とは比べものにならない。
本来なら雲の上の人なのだ。
広告の中の彼、画面の中の彼はとても魅力的だった。夢中になるのもわかる。でも、それはあくまで彼の一部だ、と花梨は思った。生身の彼と向き合って話しているときに感じる魅力は、また違う。
いきいきと話す声。ふいに出る笑顔。身のこなし。そばで見る彼の姿は、ときどきはっとするほど美しかった。
今、自分だけがそれを見ている、と思うと、何ともいえない気持ちになるぐらい。
優越感?独占したい気持ち?
わからない。
ぼんやり考えて、苦笑する。
(いやいや…私だって、優くんのこと全部知っているわけないのに)
ちょっと自嘲気味に考える。
(ただ一緒に食事をしてるだけじゃない。勘違いしちゃだめだよね)
彼と、楽しい時間を過ごしている。それで十分だ、と毎回自分を納得させながらも、踏み込めない自分に少しもどかしさを感じているのもまた、事実だった。
そのとき、スマホが震える。着信だった。友人のモデル・リアからだ。
「もしもしリア?」
「カリン?おひさ」
「どうしたの?」
「昨日ニューヨークから帰ってきた。急なんだけど、今日の夕方施術お願いできない?」
「いいよ。今サロンの近くだし、すぐ戻れるよ」
「助かる、また連絡する」
電話が切れる。花梨の気持ちは感傷から一気に仕事モードに切り替わった。
<つづく>
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