【8】5年前と、今の熱 side:花梨
ビルの中になかば強引に連れこまれる。
屋上の扉を開け、すぐ目の前の階段を下りていき、そして、彼は踊り場で立ち止まった。
踊り場の上の窓から、会場の光と月明りが入ってくるが、全体的に暗くしんとしている。
「どうしたの、優く、」
最後まで言えなかった。
優哉が振り向くなり肩をつかみ、いきなり唇を重ねてきたから。
ノースリーブでむきだしになっている肩の素肌に触れる彼の手は驚くほど熱く、そして唇も熱かった。少しだけ鼻をつくアルコールの香り。
唇は一瞬で離れたが、またすぐ重なる。何回かそれが繰り返され、やっと花梨は今起こっていることを理解した。
(…え、キスしてる!)
理解が追いついた瞬間、花梨はとっさに彼の腕をつかみ、少し距離を取った。
「優くん!」
なんとか声をかけると、彼はキスをやめて、こっちを見た。
お酒のせいか、ちょっと目が赤くなり、息も荒い。髪も乱れていた。
薄明りのなかで浮かび上がる彼の姿は、花梨もたじろぐような色気を放っていた。思わず目をそらす。
優哉は少し身体を揺らして、花梨の腕を振り払った。
「…ごめん」
掠れた静かな声で彼は言った。
と思ったら、今度は彼が花梨の腕をつかみ引き寄せる。
「…!」
またキス?と思ったら違った。気づくと花梨は彼の腕の中にいた。
抱きしめられている。
熱い身体。
彼は頭を下げ、花梨の耳元でささやいた。
「でも俺、もう大人なんだよ」
彼の顔がまた近づいてくる。
もう花梨はなすすべがない。なにも考えられず、また彼のキスを受け入れた。
さっきと同じ、短く、もう1回―――
「かりーん!!!」
屋上側から響いてきた声に、花梨はすごいスピードで我に返り、半ば優哉を突き飛ばすようにして距離を取った。
屋上の扉が開く。
「あ、karin!ゆうくんもいるじゃん!いないってなって探しちゃったよ」
顔を出したのは、複数の編集者だった。
「ごめんなさい、お手洗いどこだったっけ?って迷っちゃって」
落ち着いた声で花梨は返す。内心パニック状態で、彼の顔なんてとても見れないが。
「ビルの中じゃないよ、屋上の、こっち!」
「…あーごめんなさい、中かと思ってこっち来ちゃった」
優哉もまた、いつもの調子で答えた。
「最初に言ったじゃーん。なにゆうくん、酔ってんの?」
「そうかもー。でももうちょっと飲みたいな」
「さすが!いいよ飲んじゃおう!」
軽口をたたきながら、彼は花梨の横をすり抜け、階段を上がって他の人と合流する。
「karin?」
上がってこない花梨を見て、ひとりが声をかける。
「…ごめん、ちょっと仕事の電話かかってきてた。確認したらすぐ戻る」
「はーい」
扉がばたんと閉まる。
急に力が抜けて、花梨は階段のところに座り込んだ。
(…初めて…キスしたんだ)
考えがぐるぐる回る。身体が火照ったように暑い。それは、季節のせいだけじゃない。
(でも優くん、どうして?)
(酔ってただけ?なんか怒ってた?なんで?)
しばらくの間座り込んで考えていたが、ぐるぐる同じ考えがめぐるばかりで何も思いつかない。
さすがに戻らないとまずいな、と思った。一応、主役なのだ。
花梨は意を決して立ち上がり、会場に戻った。
目の隅に、談笑する優哉が目に入ったが、なるべく自然に立ち回って合流しないようにした。
そして、次の日仕事だから、と言って、早めに抜けた。彼の顔は見ないようにした。
それが、優哉と会った最後だった。
実は、この打ち上げの時点で、花梨はモデルを引退することを決めていた。最後の大仕事をした相手だから、彼には言っておこうかとも思っていた。でも、すべてはうやむやになってしまった。
せめてメッセージで報告、と思ったが、どうしてもキスを思い出すと、勝手に気まずくなってしまった。
彼からも連絡がなかったから、向こうも忘れたいと思っているのだと思った。
花梨はある時点であきらめた。もう、彼のことは考えないようにしよう。ただの仕事仲間だった。それだけだ。
でも、忘れられるはずがなかった。なんといってもファーストキス、そして、唯一のキスだったのだから。
◇◇◇
時折、夢に見た。
5年前の彼。今テレビや町中で見る彼の姿より少し幼い彼。
「俺、もう大人なんだよ」
短く重ねる熱いキス。
顔が離れる。
彼が熱っぽく自分を見つめている。
その彼は――
(え、今の優くん?)
年齢を重ね、誰もが魅了される大人の男になった彼の姿。
「花梨ちゃん」
彼は至近距離で名前を呼び、また唇を重ねる――――
ppppppppppppppp
耳に届いたアラームの音に、はっと目を開く。
花梨は反射的にスマホを探し、アラームを止めて――
そこでぼんやりながらも気づいた。
(ゆめ、か)
ベッドから起き上がる。いつもの朝。淡いベージュと白で整えたシンプルな寝室、バルコニーに通じる窓から、柔らかな日差しが差し込んでいる。
いつものようにそのままスマホを操作し、今日の予定や客からの連絡をチェックして――
『ゆう:昨日はありがとう』
今度こそ、完全に目が覚めて、思い出した。
(ゆめ……夢じゃなかった!!)
昨日、優くんと食事に行った。バーに行った。そして――
メッセージは4通届いていた。
『昨日はありがとう。楽しかった』
『まだいろいろ話したいし、話も聞きたい』
『また近いうち、会える?』
『おやすみ』
送信時間は深夜1時。
昨日は何もする気になれず、早々に寝支度して寝てしまっていたから、気づかなかった。
メッセージをしばらく見つめたあと、花梨は思わずもう一度ベッドに倒れこんだ。
(また、会うの?)
昨日は何がなんだかわからないまま、タクシーを呼んでもらって帰宅した。
優哉の様子は特に何も変わらなかった。キスの、あのとき以外は。楽しそうに話し、紳士的に帰らせてくれた。タクシーに乗ったあと、姿が見えなくなるまでバーの前で見送ってくれた。
正直、慣れているのかも、と思った。彼を取り巻く噂を考えればそれが当然の結論だった。いろんな女の子に会い、甘い対応をして、気に入れば――持ち帰る。そういうことを繰り返しているのだろう。そして、花梨については、結局持ち帰る気になれなかったんだろう。気に入らなかったんだろうと。もしかしたら、花梨の態度が明らかなNOに見えたのかもしれない。経験ゼロの身からすると、何もわからないが。
だから、自分に言い聞かせた。これっきりだと思おうと。やっぱりスターの彼と、もはや表舞台の人間ではない自分とは全然違ったのだ、と。
一緒に過ごした時間―焼肉店にいたときも、バーにいたときもとても楽しかった。秘密を打ち明けてくれたときは信頼を感じてとてもうれしかった。今まで知らなかった自分の心の一部に、温かな血が通っていくような、そんな感情の高ぶりも感じた。
でも、それは花梨だけだったのかもしれない。
いや、そうだろう。経験豊富な彼からすれば、数ある女の子との食事のうちのひとつ。気まぐれで誘って、来たから相手した。それぐらいだ。きっとそうだろう。
…けれど、連絡が来た。
「……今の、演技じゃないから」
彼の言葉と仕草を思い出し、また顔が熱くなる。
業界では「遊び人」だの「とっかえひっかえ」だのと噂されている彼。
でも、「秘密」を打ち明けてくれた時の、あの真剣な眼差し。 唇が離れる瞬間に頭を優しく撫でる、温かい手。
(信じていいのかな……)
いろんな気持ちが入り混じる。
でも、正直になるなら、メッセージを見ながらこみあげてくるのは、うれしさだった。
終わりじゃなかった。これっきりじゃなかった。
まだ私たちには「続き」がある。
そのことに、心躍る気持ちはごまかせない。
―――そう、このときは、まだ始まったばかりだった。
読んでいただきありがとうございます♪




