第5巻:第2章 意外な訪問者
「いやいや、聖女さま。昨日は大変に失礼しました」
翌日、メイベルはわざわざ馬車で迎えに来た市長の案内で、先日見損ねたプラントを見に行くことになった。馬車に乗っているのは市長とメイベル、それと同行するジェニフィとキャロルの4人だ。
馬車は黒い箱形で、3頭の馬に牽かれている。座席は向かい合わせ。その前の席に市長とキャロルが座り、メイベルとジェニフィは後ろの席だ。出入りするドアの側に付き添いの2人が座っているため、メイベルは奥の席で市長と向かい合うように座っている。
その馬車の車輪はゴムタイヤだ。それが外の道の石畳でポンポンと弾み、その振動が馬車の中まで伝わっている。
「ついつい聖女さまからメガネの発想を伺いましたら、作らずにはいられない気持ちになりましてね。それで昨日から出来たメガネを掛けてるのですが、これがまた便利ですよ」
市長が掛けているメガネを指差しながら、メイベルに楽しそうに語りかけている。
メガネのレンズには真ん中に水平な線が入っていた。半分に切ったレンズを上下に重ねただけのもの。上が遠距離用のレンズで下が近距離用。要するに遠近両用の老眼鏡だ。
「ということで、今日はお詫びもかねて、聖女さまを徹底的にご案内しましょう」
「何が『ということ』なのかしら?」
市長の言葉を聞いていたジェニフィが、頬に手を当てて困った表情を浮かべている。
その正面で市長の隣に座るキャロルが、
「お祖父ちゃん。公務をサボる口実が欲しいだけなのよ」
と、馬車の窓枠に頬杖を突いて、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。
そんな付き添いの修道女たちを無視して、
「ところで、勇者さまは来られないのですか?」
と、市長がナバルが来なかったことを尋ねてきた。
「ナバルは経理事務の人たちが困ってると聞いて、手伝ってますよ」
最初に答えたのはメイベルだ。それに続いてジェニフィが、
「今朝、出掛けにエミリオが経理部に呼び戻されまして、話を聞いた勇者さまが手伝うと仰られたのですわ」
と事情を伝えてくる。
「経理部に!? ああ、不正経理疑惑の件ですか。市庁舎で大きな騒ぎになってますね」
話を聞いた市長が、なぜ来ないのか、その理由を納得する。だが、すぐに、
「それにしても勇者さまは剣士と聞いておりましたが、経理もお出来になるのですか?」
という疑問が浮かんだようだ。
「ナバルはここまで来る途中、一緒に旅をしてきたキャラバンの女将さんから、帳簿管理のやり方を学んだんです。それがすっかり気に入ったみたいで」
「帳簿管理? それはメルキアの秘術のことですか?」
メイベルの話に、市長がそう言って身を乗り出してきた。
「メルキアの秘術……ですか?」
「ええ、メルキアを商業都市に発展させたと言われる秘術……と言いますか、特別な計算方法と聞いてます。力学や電磁気学における微分積分みたいなものではないかと……」
メイベルの疑問に、市長が真剣な顔で答えてくる。どうやら市長は帳簿管理がどのようなものか知らないようだ。その市長にメイベルが、
「それで不正経理疑惑って、何が起こったんですか?」
と、市庁舎で何が起こっているのかを尋ねる。
「ラクスでは明日5日が職員の給料日なのです。それで昨日から給与の準備をしていたところ、金庫に今月分として用意していたはずのお金が足りなかったというのですよ」
「はあ、足りなかった?」
市長の話で惚けた顔になったメイベルが、魔法の杖にコツンと額を当てた。
「聖職者たちは教会で暮らしてますから問題はありませんが、一般職員にとっては給与が予定通りに手に入らないと大変ですからね。だから大騒ぎなのですよ」
「えっ!? そんな大事な時に一番上の市長さんが外出するのは、あまり好ましくないと思うんですけど……。それに不正ナントカ疑惑って……」
「ははは、問題ありません。むしろ、わしが居ても邪魔になるだけです」
メイベルの心配を、市長がそう言って笑い飛ばした。
「それに、この騒ぎは毎月の恒例行事ですよ。勘定を間違えたとか、補塡を忘れてたとか、別の予算にまわしたのを忘れてたとか、間違えて別の金庫に仕舞ってたとか、そんなのばかりです。不正疑惑などと言うのは、一部の役人が『どこかで不正に使われてるから予算が回ってないんだ』っていう言いがかりで、そのうち出てきますよ。
ま、足りなかったら足りなかったで、またどこかから融通してくるでしょうからね。何も問題はありません」
「えっと……。それはそれで問題ではないかと……」
安気に構えている市長に、メイベルが呆れた顔でツッコミを入れた。
「それよりも聖女さま。そろそろ珪油精製プラントですが、その前に湖を見ましょう」
振り返って馬車の進む先に目を向けた市長が、メイベルに回る順番を伝える。
道は相変わらず土手の上を走っていた。銀色の建物は、その土手よりも高く盛り土された基礎の上に建っている。その建物から湖に視線を移したメイベルが、
「湖? ああ、そうそう、湖といえば、最初に見た時から気になってたんですよ。形がどれも四角いじゃないですか」
という疑問を口にしてきた。
「ひょっとして、すべて人工物ですか?」
「聖女さま、お気づきでしたか。その通り。これらの湖はすべて魚を養殖する池ですよ。はるか古代からこの平原で使われている、魚の牧場みたいなものです」
メイベルの質問に、市長がさっそく湖の正体を明かしてきた。
その間に馬車は盛り土の上を通る道からはずれて、湖へ向かう下り坂を走っていた。
「お魚の牧場!? そういえば今朝の料理に、お魚の蒸し焼きが出てきたわ。『ここで獲れたお魚』って聞いたけど、お魚の牧場で育ててたのね。すっごく身が締まってて、口当たりが鶏肉みたいな感じだったわ」
朝食を思い出したメイベルが、湖に強い興味を感じたようだ。
「それにしても大きな湖ですね。どのくらいの大きさがあるのですか?」
「もっとも小さな池でも、1周10kmを超えてます。大きなものでは1周80km。面積にして300平方km以上ありますよ」
「一周80km!? あまりにも大きすぎて、見てても想像できないわ」
緑色に見える水面近くまで降りた馬車からは、湖の向こう側が水平線に隠れていた。そんな湖の中に2艘の小舟が浮かんでいる。岸から数百mは離れてるだろうか。その近くの岸には大勢の人が集まっている。どうやら、これから地引き網が始まるようだ。
窓からその様子を見ていたメイベルに、
「聖女さま。馬車の進む先を見てください。あそこに木立ちが見えるでしょう」
と、市長がもっと先に目を向けるように言ってきた。
「あの木立ちのあたりに水路があって、こちら側の大きな湖と、木立ちの向こう側にある小さな湖が結ばれているんです」
「湖が結ばれてるんですか!? ひょっとして魚が移動できるように、すべての湖がつながってるとか?」
「いえいえ、そんなことはありません」
メイベルの予想を、市長がそう言って否定してきた。
「ラクス周辺には大小合わせて46の人工湖があります。それらは大きい湖と小さな湖が必ず2つ1組で隣り合うように作られているのですよ。水路は組となった湖の間にだけ作られてます。しかも大きい湖の広さは、小さな湖の4倍から5倍にそろってます」
「2つ1組で、その間にだけ水路が……。しかも小さな方の4、5倍……。それには何か理由があるのですか?」
「もちろんありますよ。魚を育てているのは、大きい方の湖だけです。小さな湖では魚の餌となる小さな生き物を育てているのですよ」
「餌を!? つまり大きい湖で育つ魚が食べる餌は、その4分の1から5分の1の広さがあれば十分に育つってこと……ですか?」
メイベルが市長の言葉を繰り返しながら、話を理解しようと努めている。だが、
「あ、でも湖がつながってたら魚が小さい湖の方へ泳いでいって、餌が育つ前に食べてしまうんじゃ?」
という問題が浮かび上がってきた。
「ところが、そうでもないのです」
市長はメイベルの質問を期待していたのだろう。その質問が出てきた途端、表情に笑みが浮かんでいた。
「これから行ってみればわかりますが、小さい湖の表面は、一面水草に覆われてます。そのために湖が日光で温められないため、水が冷たくて魚が入ってこられないのですよ」
「水が冷たい!? それでどうして魚が入ってこないの?」
市長の説明に、メイベルが今1つ理解できないという顔をする。
「聖女さま。魚は温度の変化に弱いのです。それなのに急に冷たい水の中に入ろうものなら、動けなくなって腹を上にしてプカプカ浮かぶハメになりますよ」
「プカプカって……。あ、そういえば調理用の生け簀で、そんなことがあったわね。わたしは活け作りには何か抵抗があるから、使わなかったけど……」
メイベルの脳裡に、昔の経験が浮かんできた。それは調理に使う魚を入れておく水槽に水を足したところ、魚が動かなくなってしまったというものだった。メイベルにはあまり関心の薄いできごとだったため、すぐに思い出せなかったようだ。
「あ、それなら餌の方はどうなの? 小さい湖は冷たいんでしょ。それだと餌が育たないんじゃ……?」
「ところが餌になる生き物は、冷たい水の方が良く育つのです。世の中はけっこううまくできてるのですよ」
「へぇ〜、そうなんだ……。でも、それだと大きな湖にいるお魚と、小さな湖にいる餌になる生き物が出会わないように思うんだけど。間に水路があると言っても、お魚はそこを通って小さな湖には行かないんでしょう?」
すぐに次の疑問を感じたメイベルが、そのことを尋ねてきた。
「そう思われるでしょう。ところが2つの湖がつながっているために、水路に流れができているのです。それで大きな湖に餌が自動供給されるのです」
「へぇ、流れが……。でも、その流れはどうして生まれるのかしら? 2つの湖の温度差かしら?」
「そこはまだ詳しくわかってないのですが、わしは地球の自転と湖の大きさに関係があるのではないかと思ってます」
メイベルの疑問に答える市長が、馬車の揺れでズレてきたメガネの位置を中指で軽く持ち上げて直した。
「実はわしが子供の頃、その自動供給の原理を確かめようとした学者がいましてね。湖を100分の1にした実験用の池を作ったのです。ところが、その池にはまったく流れは起きなかったのです。その池と湖の違いを考えると……」
「ちょ、ちょっと待って!」
説明を続ける市長の言葉を、いきなりメイベルがさえぎってきた。
「原理を確かめようって、この湖は人工的に造ったものでしょう。それなのに、わざわざ原理を確かめようって……?」
「聖女さま。世の中は理屈が先ではなく、初めに試行錯誤があって、理屈はあとから追いかけるものです。なので技術が確立して実用化されていても、理屈を説明できないものは珍しくありません。昨日お話ししたグライダーの翼も、原理はわかってなくても、どうすれば飛べるのか。古代の人たちは試行錯誤でその秘訣を得ていたのです」
「それは、そう……だけど……」
市長の意見はもっともと思いつつ、メイベルは今一つ理屈がわからないことが不満だった。だが、そんなメイベルの心情など気にも留めず、
「で、話を戻しますが、餌を大きな湖に運ぶ流れは、大きい方の湖の広さが20平方kmを超えたあたりで起こるのではないか。ついでにその流れが餌となる生き物を湖全体に運んでいるため、魚の棲む場所に偏りがないのではないか。わしはそのように考えてます」
「へぇ、湖が大きいのには、それなりの理由があるのね」
まだ不満そうな表情をしているが、そう零したメイベルが湖に目を向けた。そして、
「これだけ大きな湖だから、さぞかし真ん中のあたりは深いんでしょうねぇ〜」
と呟くように言って、ふぅっと息を漏らした。
湖はいかにも深いぞと主張するように、緑色の水面が広がっていた。
「水の深さは、だいたい2mですよ」
「…………へっ!?」
市長の言葉で、メイベルが目を真ん丸にしたまま固まった。そのメイベルが、油の切れた機械のようにギギギッと首を市長へ向けながら、
「2m……ですか? こんなに鮮やかな緑なのに?」
と、気になる言葉を繰り返した。
「湖の底は真っ平らなのですよ。2mぐらいの深さで」
市長が手を水平に動かしながら、メイベルの確認に答えた。その市長が、
「これも昔の人たちが試行錯誤して得た秘訣でしょう。水深が2mぐらいで平らなのには、それなりの理由があるのです」
と言いながら、目を広い湖面へと向ける。そして湖を見詰めたまま、
「聖女さま。もしも湖の深さが1mだったら、いったいどうなると思いますか?」
とメイベルに尋ねてきた。
「えっと……。どうなるのでしょう?」
質問されたメイベルが、答えの取っ掛かりが摑めなくて問い返した。それに市長が、
「ここは北回帰線の少し南です。夏だけでなく、春や秋でも陽射しは強いですよ」
と、ヒントらしき言葉を口にする。
「ひょっとして、強い陽射しで湖が温かくなるんですか?」
「その通り。しかも陽射しの強い春の終わり頃には温かくなりすぎて、ここに棲んでいる魚たちは、泳ぎながら煮魚になってしまうのです」
話を聞くメイベルが、頭の中で大きな鍋を思い浮かべていた。
「それに陽射しの弱い秋や冬でも、湖の底に溜まった泥が腐って大変なことになります」
「ようするに、悪臭を放つのね」
市長の言葉を、メイベルがそう言って理解する。
「そこで水深を1m半まで深くすると、陽射しは湖の底まで温められません。その深さになると底に溜まった泥が腐らずに済むのです」
「へぇ〜。腐らずに……。昔の人はよく考えたんですね」
市長の話に、メイベルが関心したように口を開けている。
「あ、でも、どうして水深は1m半ではなく、2mなのですか? それでは余分に掘り下げる分だけ、湖造りが大変そうですけど」
「さすがは聖女さま。良いところに気づきましたね」
メイベルの疑問に、市長がニコッと微笑む。
「実は深さ1m半では、集まってきた鳥たちが魚を食べてしまうのですよ。でも、水深が2mになると、集まってくる鳥の数が減り、食べられる被害も減ります。どうやら鳥たちは2mまで潜れないため、魚たちは底にいれば安全なのでしょう」
「うわぁ〜。そんな理由が……。ホントによく考えてますね」
深さの理由を知ったメイベルが、感動したように身を乗り出してきた。
「それじゃ、もう少し掘れば魚たちも安心できるんじゃ……」
「ところが、それほど簡単な話ではないのです」
メイベルの考えを、市長が微笑みながら否定してくる。
「実は水の深さが3mに近づくと、魚たちが水面に上がってきてしまうのです」
「えっ、何で!? そんなことしたら、鳥に食べられちゃうのに」
市長の話に、メイベルがわけがわからないと言いたそうな顔で疑問を口にした。
「この理由ですが、どうやら水中で生まれる対流に原因があると思われるのです。水深が1m半になると、陽射しが底まで温められないとご説明しましたね。それによって湖の底に冷たい水の層が生まれます。それが湖の表面で温められた水の層との間で上下の対流を起こすと考えられます。それが水の中に空気を取り込むのでしょう。ところが水深を3mに近づけると、その対流がいきなり止まってしまうのです。それで水の中に空気が取り込まれなくなるのか、魚たちが水面で口を開ける現象が起こるのです」
「へぇ〜、そんな現象が起こるの……。だから水深は2mぐらいなのね」
説明を聞いたメイベルが、そう零して背もたれに深く背中を預けた。そのメイベルが、
「昔の人は、よく考えてお魚の牧場を造ったのね。さぞかし気の遠くなるほどの試行錯誤を繰り返したんでしょうね」
心持ち軽く拳を握り、感心しまくったように首を何度も上下させている。
「ところで、また気になることを聞かせてください。この湖で、どのくらいのお魚が獲れるのですか? といっても数で言われてもピンと来ないけど……」
「それは、難しい質問ですね」
メイベルの求める疑問に、市長が困った顔で苦笑する。
「それでは、こういう答え方でよろしいですかな。この湖を埋め立てて牧場にしたとしましょう。そこで取れる牛の肉は、この湖のわずか300分の1です。重さにしてね」
「…………えっ!? 300?」
市長の答えに、メイベルが自分の耳を疑った。
「えっと……、この湖と同じ広さの牧場があったとして、そこで取れるお肉の300倍のお魚が獲れるのですか?」
「その通りです」
メイベルの確認に、市長がそう言って首を縦に振った。
「しかも牧場と違って、ここは一度湖を造ってしまえば、あとはほとんど手間がかかりません。牧場のように毎晩牛を牛舎に集めることも、餌を一生懸命に運ぶことも……」
「自動供給システムができてますもんね。なるほど……」
妙に納得したメイベルが、首を地引き網を行っている岸に向けた。そこではすでに網が揚げられ、漁師たちが獲れた魚を荷馬車に放り込んでいるところだ。
「聖女さま。湖の恩恵は魚だけではありませんよ」
市長の言葉に、メイベルが顔を馬車の中へと戻してくる。
「湖の底には、魚の糞やゴミが溜まります。それで湖は少しずつ浅くなるため、10年に1度、水を抜いて泥をさらってるのです。それで、その泥ですが、農作物にとっては非常に質の良い肥料となってまして、農地へ運んで使っているのです。
聖女さま。そこら中に丘が見えるでしょう。あのほとんどが農地です。はるか昔より泥を運んでは農地に撒いていたため、どんどん高くなってます。まあ、おかげで夏場の洪水の季節になっても、農地は水没を免れているのですが……」
「あ、そうそう。それも気になってたのよ」
市長の気になる言葉に、メイベルがそんなことを言い出してきた。そのメイベルが、
「昨日、聞きそびれちゃったんだけど、この平原が水浸しになるって本当ですか?」
と、少し鼻息を荒くして聞きたいことを尋ねる。それに市長が、
「それは本当ですよ」
と、当たり前のことのように答えてきた。
「この平原を流れるフレキ川の水かさが、夏場になると増えます。ラクスのあたりでだいたい5mです。そのため都は洪水の季節になっても水没しないように、街の基礎を本来の平原の高さよりも下水システム分の余裕を持って、7m高くしてるのですよ。それと同じように、街の外に作られた道も洪水の季節になっても水没しないように高くしています」
「下水込みで7m!? それはすごいわね」
そう零したメイベルが、馬車の外に目を向けた。
湖畔に沿って走り続けた馬車は、木立ちのある場所に着いていた。そこで動きを止めた馬車の前には、幅の広い水路が横たわっている。
「さて、降りましょうか」
市長の言葉を受けて、2人の修道女が先に馬車を降りた。そのあとに続いて魔法の杖を手に持って馬車を降りたメイベルが、目の前にある高い木立ちを見上げる。
遠くから見ている時には気づかなかったが、木立ちにある木はどれもが大きな根を地面から露出させていた。その根が互いに絡み合い、水路の上で橋のようになっている。その根の高さは、メイベルの身長の3倍近くはありそうだ。
「あの線のあたりまで、水に沈んだってことかしら?」
木を見上げるメイベルが、木の根に残された泥で汚れた線を指差す。その高さは市長の話にあった5mほどの高さだ。
その木から落ちてきた葉が、水路に落ちてポチャッと音を立てた。その木の葉が大きい湖の側から小さな湖へ向かってゆっくりと流れていく。
「あれ!? 上と下で流れが違うわ」
水路に目を落としたメイベルが、水の上と下で流れが反対になっているのに気づいた。
それをジッと観察しているメイベルに、
「聖女さま。水路の底を、白いものが流れているのが見えると思います。それが魚たちの餌になる生き物ですよ」
と言いながら市長が近づいてくる。
市長の言った白いものは、すぐに見つかった。やや赤みのある白い生き物で、形は何となくエビに似ている。中には2cmほどの大きいものもいるが、ほとんどは5mmにも満たない小さな生き物だ。
「すごいわね。どうして上と下で逆に流れてるのかしら?」
「水温の違いですよ。大きな湖から水路に流れ込む水の方が温かいので、小さな湖から押し出される水の上を流れるのです。それで大きな湖へ餌が流れ出るのですから、なかなか素晴らしい仕掛けですよ」
「本当に、すごい仕掛けだわ……」
水の流れを見ながら、メイベルはしきりに感心していた。
そのメイベルが、水路をたどって小さな湖へ向かった。途中に大きな木の根がいくつも行く手を邪魔しているが、それらをくぐって先へと進む。水路の長さは200mほどだ。そして、いくつめかの木の根をくぐったメイベルの目に、一面を水草に覆われた小さな湖の光景が飛び込んできた。
「うわぁ……。きれい…………」
メイベルが木の根に手をかけたまま、美しい光景に固まってしまった。
大きな湖に対して小さな湖と呼んでいるが、そこははるか何キロ先までも続く大きな湖だった。その一面を肉厚の葉を広げた水草が覆っている。水草の葉は明るい緑色で、陽の光を浴びて瑞々しく輝いていた。その上で咲く花は10cmほどの大きさ。丸く膨らみのある形をしている。しかも花の色はピンクや黄色、青紫など、パステル調を思わせる明るく淡い感じだ。そんな花の咲き誇る光景が、どこまでも遠くまで続いている。
それに見とれているメイベルのあとを、キャロルが追ってきていた。
「ああ、もうウィウィ・ロータスが咲いてるわ。もう少し先かと思ったのに……」
「色鮮やかな水草!?」
チラッとキャロルを見たメイベルが、また湖に目を戻した。そして、その場で身をかがめ、水草の隙間から水の中を覗き見ようとする。
「あ、エビがたくさん泳いでる……」
水草の葉陰に隠れて、小さな生き物が動いていた。水路で流されているのを見た、エビに似た姿の小さな生き物だ。
「聖女さま。それはエビじゃなくて、ミズアミですよ。アミの仲間です」
キャロルがメイベルの隣に立って、同じような恰好で水の中を覗く。そのキャロルが、メイベルの言葉をそう言って訂正してきた。
「アミ? アミって、エビとは違うの?」
「違うも何も、別の生き物じゃないですか」
メイベルの質問に、キャロルが意外そうな表情を浮かべてきた。そのキャロルが、
「よく見てください。エビとアミでは頭と尻尾の形がまったく違いますよ」
「頭と尻尾と言われても……。小さくてよく見えないし……」
メイベルはエビとアミの違いがわからなくて困った。真剣な目で水の中を見ても、泳いでいるミズアミは1cmにも満たない小さな生き物だ。その頭と尻尾の形なんて、とてもではないが認識できるものではない。
普段からエビとアミを見慣れていて違いを感じているキャロルと、エビしか知らないメイベルの感覚の違いだ。リス、モモンガ、マウス、ラット、ハムスター、モルモットをそれぞれ別の種類と認識してるか、それともまとめてネズミと認識しているか。それと似たようなものである。
「きゃっ、冷たい……」
ミズアミをすくい取ってよく見ようと思ったメイベルが、水に手を入れた。そのメイベルが、水の予想以上の冷たさに驚いて、思わず手を引っ込めている。
「ははは。聖女さま。水の冷たさに驚かれたようですね」
そこにジェニフィに付き添われて、市長がやってきた。その市長が歩き疲れたのか、程よい高さにある木の根を見つけて、そこに「よっこらしょ」と腰を下ろす。その市長に、
「水草で陽が当たらないだけで、けっこう冷えてるものですね」
と答えながら、メイベルが再び水に手を入れた。
「陽が当たらないだけでは、そんなに冷えませんよ。水草──ウィウィ・ロータスによって冷やされているのです。厚みのある葉から水分を蒸発させる時に、気化熱で湖を冷やしてると言われてますよ」
「へぇ、そうなんだ……」
そう相槌を打ったメイベルが、手のひらにミズアミをすくい取っていた。メイベルの中指の太さの半分もない大きさのミズアミだ。それが濡れた手のひらに張りついて、苦しそうにもがいている。
「キャロルさん。やっぱりどこが違うのか……」
「えええ〜!? 頭と尻尾をよく見てよ。エビは頭がとがってるけど、アミはそんなにとがってないでしょ。それにエビの尻尾は広がってるけど、アミの尻尾は広がってない」
アミの張りついた手をジッと見て、メイベルが困った声を漏らした。そのメイベルの手を摑んで、キャロルが指を差しながら違いを教えようとしてくる。
そんな2人のやり取りを見ていた市長が、
「2人して、何の話をしとるのだ?」
と、きょとんとした顔で尋ねてきた。
「聖女さまがエビとアミの違いがわからないって言うから」
「エビとアミ? それはわからない方が普通だろう」
キャロルの答えを聞いた市長が、そう言ってふんと鼻で笑った。
「その違いを意識するのは、生物学者とこのあたりで暮らすわしらだけです。聖女さまにはアミというより、小エビと呼ぶ方が馴染みがあると思うのですが」
「はぁ……。まあ、そうなんですけどね」
市長の言葉に、メイベルが魔法の杖を持った手の指先で頬をポリポリと掻く。そのメイベルの手のひらでは、水から揚げられたミズアミがぐったりしていた。
「ま、生物学者に言わせれば、まったく別の生物種だそうですよ。節の数とか、脚の付き方とか、わしにはよくわからん違いですけどね」
そう教えてくれた市長が、ふうと息を吐いてから立ち上がった。一方でメイベルは、弱っていたミズアミを水に返している。
水に入れたメイベルの手の上で、ミズアミはしばらく動かないでいた。だが、しばらくしてピクッと大きな動きをみせると、すぐに逃げるようにメイベルの手から離れていく。
「お祖父ちゃん。頭と尻尾の形は関係ないの?」
「頭と尻尾の形? わしはそんな違いは知らんぞ。エビの触角は2本でアミの触角は6本という違いではないのか?」
キャロルの確認に、市長が不思議そうな顔で答えてきた。その答えに、
「えええ〜っ!?」
と、キャロルが変な声を上げる。
経験でエビとアミを見分けていても、2人の間には判断材料の違いがあったようだ。
昆虫のチョウとガの違いを論じる時、綺麗か地味か、何かに留まる時に翅を開くか閉じるか、それとも触角の形か、昼行性か夜行性か。人によって注目する場所が違うのと似ている。
そんな2人の会話を聞いていたメイベルが、くすっと笑みを漏らした。
「ところで市長さん。ちょっと気になるのですけど、あの木の高いところに泥で汚れた跡があるってことは、あそこまで洪水で水に沈んだってことですよね。ということは、今は大きい湖と小さな湖に分かれてますけど、洪水になったら一緒にならないですか?」
「一緒になりますよ。2つどころか、この平原にあるすべての湖が1つになります」
市長がゆっくりとメイベルに歩み寄りながら、質問に答えた。
「それだと、せっかく機能してるお魚の牧場のシステムが、壊れ……ませんか?」
「壊れますよ。それは仕方のないことです」
そう言った市長が、水辺まで来て歩みを止める。
「じゃあ、洪水が終わったあと、どうやって元に戻すんですか? すっごく大変な人手がかかるように思うんですけど……」
「大変な人手が!? わしらは何もしませんよ」
市長がメイベルが何を気にかけているのかを悟って、くすっと微笑んだ。
「洪水が退いて1か月もすれば、湖は元通りに戻ります。ウィウィ・ロータスが湖一面を覆い尽くして、その頃にはミズアミも餌になるほどの大きさに育って……」
「1か月で元通りに……?」
そう零したメイベルが、疑うような目で湖を指差している。
「ここに咲いてる水草も、ここで泳いでる小さいエビも、あっちの湖にいる大きなお魚も、洪水になったら、みんな流されちゃいますよね」
「流されますよ。綺麗サッパリと」
メイベルの言葉を、市長が異論を挟まずに肯定する。
「それが、1か月で戻っちゃうんですか?」
「戻りますよ。何もかも元通りに」
市長の答えに、メイベルの目が信じられないと言いたそうにジトッとしたものになる。
「大きい湖にいるお魚たち、洪水があると川に逃げちゃいませんか?」
「水が退く時に、また湖に戻ってきますよ」
「湖に戻ってきたら、人間に獲られるかもしれないのに?」
「でも、川に棲むよりも餌が豊かなので、棲み心地が良いのでしょう」
「お魚には学習能力があるのですか?」
「学習能力があるから、餌の豊かなところに戻ってくると思いますけど」
メイベルが腑に落ちなそうな表情で市長の顔を見ている。
「あのぅ、湖が元通りになるまで1か月もかかるんですよね? その間はほとんど餌を食べられないんじゃないですか?」
「魚たちは1か月ぐらい餌がなくても平気ですよ。人間のような恒温動物ではないのですからね。ま、それでも何かしら餌になるようなものはあると思いますけど」
メイベルの疑問に、市長がさらりと答えている。でも、それが納得できないのか、
「ところでお魚が川から戻ってくるのは何となくわかりますけど、水草と小エビはどこから来るのですか? 小エビが泳いで戻ってくるとは思えないんですけど」
「ウィウィ・ロータスもミズアミも、洪水の季節が来る前に、湖の底にある土の中に種や卵を残すんですよ。それが洪水が終わった頃に芽を出したり卵から孵ったりして再び繁殖するおかげで、また元通りの姿に戻るわけです」
「…………はぁ……。それは良くできてますね……」
とうとうメイベルは何も言い返せなくなってしまった。そんなメイベルに、
「昔の人たちは試行錯誤を重ねて、できるだけ手間をかけないシステムを作り上げたのですよ。先人たちの得た叡知というものは、なんとも素晴らしいものじゃないですか」
と市長が満足した顔で語って、馬車の待つ場所へ戻っていこうとする。
その市長がふと立ち止まり、振り返ってメイベルに顔を向けてきた。
「聖女さま。これまでお話した先人たちの得た叡知は、すべて魚の牧場に関するものでした。それに匹敵する叡知が、あちらの湖にありますよ」
「お魚の牧場に匹敵する叡知!?」
ピクッと眉を動かしたメイベルが、市長のいる場所へ歩き始めた。そのメイベルが到着するのを待たず、市長は再び馬車の待つ方へ歩いていく。
「もう1つの叡知は、途中で見た銀色の建物──珪油精製プラントに関係あります」
「珪油精製プラント!? っていうか、珪油って何ですか? 初めて聞く言葉ですけど」
市長を足早に追いかけながら、メイベルが気になる単語を尋ねた。
だが、市長はメイベルの質問には答えず、ここまで来た道を戻っていく。その後ろを歩きながら、メイベルは早く答えてくれないかとやきもきしていた。
「市長さん。こちらの湖にある叡知って何ですか?」
馬車のところへ戻ってきたメイベルは、湖畔でしゃがみ込んで水に手を入れていた。
水の温度は、小さな湖とは比べ物にならないほど温かだった。そんな湖の底に、何匹もの魚が泳ぐ姿が見える。
「聖女さま。この湖の色、綺麗な緑色をしてると思いませんか?」
「それは最初から思ってるわ。というか、この緑色のおかげで、湖が深いと思ってたんだもの」
そう答えたメイベルが、水から手を出して立ち上がった。そのメイベルが、自分の手に何か緑色の小さなものが付いていることに気づいた。
「市長さん。この緑……。これが湖の色の原因ですか?」
「早くも気づかれましたか。その通り、それがこちらの湖で繁殖してる植物プランクトンの一種──珪藻です」
そう言いながら、市長も湖の近くまで歩いてくる。その市長が、
「この珪藻は、実は魚の餌になってるミズアミの餌なのです。大きい湖で珪藻が育って、それが小さな湖へ運ばれていってミズアミの餌となり、そして大きくなったミズアミが大きな湖に運ばれてきて魚の餌となる。見事な供給システムの1つなのです」
と言って、湖の遠くの方へ目を向けた。だが、その視線を湖へ来る途中に見た銀色の建物へ向けて、
「ですが、この珪藻を集めて搾ると上質な油が取れることがわかりましてね。わしらはその油を『珪油』と呼んどるのですが、この地方では昔からその珪油を調理の火や夜の灯りに使っていたのです。かつては手作業で油を搾り取っていたのですが、30年ほど前からあの珪油精製プラントで、一気に精製するようになったのですよ」
と語り始めた。
その話を聞きながら、メイベルは手に付いた緑の点々──珪藻をジッと見詰めている。
「珪藻が小さな身体の中に油を持っているのは、水の中で浮くためだそうですよ。搾った油だけでなく、搾りかすも固めて固形燃料として使えますからね。昔の人は良くまあそんなすごいことに気づいたものだと感心しますよ」
「はぁ……、そう、ですねぇ…………」
手に付いた小さな点々を見ながら、メイベルはどのぐらい取れるのだろうかと疑問を感じた。だが、メイベルがその疑問を口にする前に、
「さあ、聖女さま。次はあの珪油精製プラントへ行きましょう」
市長がそう言い残して、さっさと馬車に乗り込んでしまった。
その馬車の横では、ジェニフィとキャロルがメイベルが乗り込むのを待っている。
そして、メイベルは疑問を残しながら、また馬車で移動することになった。
「聖女さま。あそこに見える珪油精製プラントで作られた珪油が、船の燃料や帝都で使われるガスになっていることをご存じですか?」
馬車が動き始めた頃、ようやく市長が口を開いて、そんな話題を振ってきた。
「帝都で使ってたガスって、ここで作られていたの?」
「まあ、帝都で使うすべてではないと思いますが、20年ほど前から大量に輸出するようになったのですよ。それが可能になったのも、このラクスで動力船の開発が成功してからです。船にたくさんの液化したガスを詰め込んで、一気に帝都まで運べますからね」
「うわぁ〜。動力船って、ここで生まれたものだったんだ」
市長の言葉に、メイベルが目を丸くして感心したような声を上げる。その様子がおかしかったのか、斜め前に座るキャロルが口を押さえてくすくすと笑い出した。
「聖女さま。お祖父ちゃん、自慢したいだけなんですよ。その動力船を動かすエンジンを発明したのが自分だって」
「おいおい、キャロル……」
どうやら図星だったのだろう。困った顔をする市長が、顔を真っ赤にしている。
だが、メイベルは市長に尊敬の眼差しを向けて、
「動力船のエンジンって、市長さんの発明だったんですかぁ……」
と、感動している。
「いやぁ〜、何と言いますか……。船にエンジンを載せるのは、わしのアイデアです。が、最初に船に載せた空気エンジンだけは、わしの発明品ではないのですよ」
心持ちメイベルから視線をそらした市長が、アゴの横を指で掻きながら、そんなことを言い出した。その話を聞いたメイベルが、
「それにしても、船の燃料と帝都で使うガスですか……。あんなに小さい珪藻を集めて搾り取るんじゃ、あまりたくさんは取れないんじゃないですか?」
と、魔法の杖を抱えて珪油精製プラントに目を向けながら零した。だが、それを、
「お言葉ですが聖女さま。この湖1つだけで、毎日800tの珪油が取れるのですよ」
と、市長が否定してくる。
「800t!? それって、どのぐらいなの?」
「およそ1000kLになります」
「あの、そういうことを知りたいんじゃなくて……」
市長の答えは、あまり役に立たなかった。その市長が、
「30年前に一番古い精製プラントが造られ、現在、18基が稼働しています。そこに見える精製プラントは、その中でも最新鋭の施設ですよ。それらのプラントが一組の湖から、毎日800tもの珪油を精製してます。聖女さま。プラントから街に向かってパイプラインが伸びてるでしょう。あのパイプを通って、街に精製された珪油が送られているのです。その量、1つのプラントから年間約23万t。年間の精製量が1日の365倍になってないのは、洪水の季節の間は操業できなくなるからです」
と、熱く珪油精製について語り始めた。
「もし、ラクスが所有するすべての湖に精製プラントを造れば、年間で1100万tもの珪油を確保できます。これを同盟を組んでいる都市と一緒にすれば……。いやいや、ここは筋道を立てて考えましょう。ピスク平原で夏場に冠水する面積は約6万平方km。とすると湖は200組ぐらい作れそうですね。とすると、年間5千万tぐらい……」
「そんなに作っても、使うあてがあるのですか?」
市長の皮算用に、メイベルがようやくツッコミを入れた。
「使うあて……。それが大きな問題なんですよ……」
メイベルの一言に、市長が憂鬱そうな表情を浮かべてくる。
「かつて湖で採れる珪油は、調理場の煮炊き、灯り、そして風呂を沸かすためと活躍していました。蒸気で機械を動かす技術が生まれると、ますます珪油の需要は高まり、更に珪油をガス化する技術の誕生で、ますます用途が広がったのですが……」
揺れる馬車の中で、市長が天井を見上げながら昔を語り始める。
「30年前、第1号の珪油精製プラントが建てられた少し前、なんと水力温水器が発明されましてね。あれで一気に珪油の需要が落ちてしまったのですよ」
「はぁ……」
生返事したメイベルが、気落ちした市長の顔を覗き込むように見ている。
「でも、珪油は動力船の燃料になるんですよね。わたしの記憶では動力船はかなり増えているので、かなり需要が伸びたと思うのですが……」
「そう思われますか? 思いますよねぇ。動力船はどんどん増えてるわけですから。それで需要が増えると見越して、市では精製プラントを増やしたのですよ。ところが……」
そこまで話して、市長ががっくりと項垂れてしまった。その市長に代わって、
「聖女さま。プラントを増やしたのは、お祖父ちゃんにとって一番の政策ミスなのよ。需要の見込み違いで、お祖父ちゃん、けっこう野党議員たちから叩かれてるの」
と、キャロルが話してくる。
「なるほど。昨日はガスを使わなくても暖房ができるとか、お風呂のお湯を沸かせると聞いてすっごく感心したんだけど……。それはそれで別の問題が出るのね」
「まさに、聖女さまの仰る通りです。動力船の燃料としての需要は伸びているのですが、それまで使われていたところの落ち込みが上まわっていて……」
メイベルの言葉に、市長が嘆くように零した。
「それで新たな需要を掘り起こそうと、帝都へ売り込んだのです。ちょうどその頃、北にあるユーベラスでタール炭田が閉鎖され、ユーベラスから外へ持ち出される石炭の供給が一気に減った頃です。それでお互いの利害が合致し、大量に輸送することになったのですが……。あれから20年。思ったように増えてませんからなぁ。聖女さま。何か需要を増やすよいお考えはありませんか?」
「需要を増やしたいと言われても……。帝都ではガス灯の一部が電気に換わってるから、これからも需要はますます減りそうよ」
市長の愚痴に、メイベルが追い討ちをかけるようなことを言った。それに「電気?」と聞き返そうとした市長だったが、急に聞く気がなくなったのか「はぁ」と嘆息した。
さて、メイベルたちの話題になった帝都は、南アルテースからはるか北の地にある。
帝都の背後にそびえる蒼の山脈は、今では見事に雪化粧していた。その雪の一部は、帝都まであと数百mの高さにまで迫ってきている。
その帝都の中央にある聖サクラス教会。その敷地内にある郵便物等の集配施設へ、
「うわぁ〜、ここは暖かいですぅ」
と言いながら、青い厚手のコートを羽織った少女が入ってきた。少女はやや丸みのある顔でメガネを掛けている。仮ではあるが正修道女のパセラ・アヴィシスだ。
そのパセラに、
「あ、パセラ。いらっしゃい。宮廷の仕事は終わったの?」
と言って、金髪で赤い瞳のレジーナ・テルルが声をかけてきた。レジーナは濃い灰色の修道服を着た見習い修道女だ。左腕には金色に縁取られた袖章がつけられ、そこには羊皮紙の絵と1本の羽ペンが描かれている。事務などを受け持つ書記係を示す袖章だ。
「終わりましたぁ。大司教さまの事務室と来賓の間以外は、すべて暖房が切られてて、寒かったですよぉ」
そう答えながら、パセラが羽織っていたコートを脱いだ。パセラが着ているのは正修道女の着る青い修道服の冬服だ。左袖には金縁で、1枚のお皿と交差させた1組のナイフとフォークの図柄が描かれている。これは接客を受け持つ給仕係の袖章だが、普段は宮廷内の雑用が仕事である。
「せっかく暖まろうと思ってるところを悪いけど、ここもそろそろ空調が止まるわよ」
「ああ、そうなんですかぁ?」
レジーナの言葉に、パセラが残念そうな表情を浮かべた。
「ったく、ガスの備蓄が足りないから供給制限なんて、洒落にならないわよね」
そうぼやきながら、レジーナが目の前に置かれた手紙にポンポンポンと消印を捺す。そして、それを行き先別に仕分けて、紙紐で1つにまとめていった。
その作業を目で追っていたパセラが、
「どうしてガスが足りなくなったのでしょうね?」
と口にして、レジーナの前のカウンターに肘を突いた。
「パセラ、ちゃんとニュース聞いてないの?」
「ニュースですかぁ。あまり聞いてませんねぇ」
レジーナの質問に、パセラがきょとんとした顔で答えてくる。
「あんたねぇ。少しは社会にも目を向けなさいよ」
「はぁ、すみません」
レジーナの嘆きに、パセラが肩をちぢこませて謝ってきた。そんな態度に微笑みながら、
「今年はいつもより早く寒くなったせいでガスの消費が高まったのと、ラトゥース大洋の時化が収まらなくて、ガスを運んできたタンカーが港に入れないせいらしいわ。一番長く立ち往生してる船は、今日で13日目って話だものね。それで明日にもガスの備蓄が底を突きそうだから、今日から供給制限って話みたいね」
と、レジーナがガス不足で暖房が止まる理由を話して聞かせる。
「そういえば、帝都で使ってるガスって、どこから来てるのですかぁ?」
「それは南アルテースとシルヴよ。昔はユーベラスからも来てたらしいけど……って、ユーベラスから来てたのは石炭だったかしら?」
そこまで言いかけて、レジーナの動きが止まった。そのレジーナに、
「南アルテースって、すごく遠いですぅ。そんなところから、わざわざガスを持ってきてるのですかぁ?」
と、パセラが意外そうな顔で尋ねてきた。
「う〜ん。その答えはちょっと待ってて。暖房が止まる前に仕事を片づけたいわ」
答えを保留にしたレジーナが、そう言って手紙の整理を急いだ。
行き先ごとの代金を調べて、手紙に貼られている領収済み金額が間違ってないかを確かめる。そして間違ってなければ消印を捺して行き先別にまとめ、それを紙紐でくくって後ろにある仕切り棚に放り込んだ。
「よし。今日のお仕事は終わり」
そう言ったレジーナが、手をパンパンと叩いた。そのレジーナが、
「ちょっと待っててね。今、燃料関係の資料を探してくるから」
と言って、集配施設の奥にある資料室へ入っていく。
この集配施設には手紙や電信など、帝国中から情報が集まってくる。そのため、ここは帝国の中央情報局でもあり、資料室には最新の情報がそろっているのだ。そこから、
「探すのが面倒臭いから、これで済ませちゃいましょ」
と言いながら、レジーナが分厚い本を持って戻ってきた。
「レジーナぁ。それは何の本ですかぁ?」
「生活白書よ。昨年の記録だから、ちょっと古いかもしれないけど」
レジーナが本を開いて、目次で調べたいページを探している。その本を、パセラがカウンター越しに覗き込んでいた。
「あ、ガスに関しての記事があったわ」
ページを確かめたレジーナが、本をパラパラとめくる。
「んっと……。ユーベラスのタール炭坑が閉鎖されてからは、帝都にとって南アルテースのヒュエル港が最大の燃料供給先で、ガスの8割がここから来てるのね」
記事を指でたどりながら、レジーナが欲しい情報を探していく。
「あ、タンカーについてあったわ。1隻のタンカーが運ぶのは2万t。ヒュエルを出てザンドゥまで、リダス半島を大きくまわって……。うわぁ、1か月もかけて運ばれてきてるの? で、1隻が運んでくるガスは、サクラスと周辺の都市で10日で消費する。冬にはそれが4日になる。で、タンカーは昨年の10月時点で24隻あって、それが……って。ちょっと待ってよ。24隻で1か月って片道よね。それで1隻分を4日で消費って、それじゃ足りないじゃない。最低でも25隻必要だわ。どういうこと?」
「それは、2割はシルヴから来てるからでは?」
「あ、なるほどね。言われてみればそうだわ」
カウンターを挟んで2人で白書に目を通している。
「それで、最近は動力船の大型化や数の増加に伴って、船の燃料としての需要も増えてるのね。でも、燃料はもっと大きなタンカーで運ばないと経済効率が悪い。そのためにも大きなタンカーの入れる港の整備が急がれ、またヒッポス・ドラゴンに代わる強力で小回りの利く引き船の開発が望まれる。って、引き船って、何するの?」
「船を引っ張る船ですから、引っ張るのではないですか?」
「どこで? 何のために?」
「…………さあ?」
2人は船のことには詳しくないようだ。
「あ、そういえばレジーナぁ。電信室の前、今日は誰もいませんねぇ。昨日までは大忙しだったのに、急にどうしたのですかぁ?」
「ああ、あれ?」
顔を上げたパセラの質問に、レジーナがニコッと微笑む。
「技研でナントカ交換器っていうのが開発できたみたいでね。今日から人の手で仕分けなくても宮廷と教会と議会、それからいくつかのお役所と近衛隊に送られてきた電信は、それぞれの場所へ送られるようになったのよ。おかげでかなり楽になったわ」
そう答えたレジーナが、開いていた白書をパタンと閉じた。その白書を手に持って、
「さて、空調が止まったみたいだから、これを片づけたら場所を変えましょう」
と、これからの予定を言ってくる。
「どこへ行きますか?」
「そうね。なら、近衛隊の詰め所、クラウのところへ行きましょう。あそこなら……」
「ううう〜、寒いですねぇ……」
レジーナが行き先を決めようとした矢先、集配施設にコートを羽織った近衛騎兵が入ってきた。これから向かおうとした詰め所にいるはずの、近衛騎兵隊の小隊長であるロード・クラウ・(中略)・アキロキャバス・(以下略)だ。
「あら、クラウ。これから近衛隊の詰め所に行こうと思ってたんだけど……」
「詰め所へ!? それはやめた方がいいですよ。あそこも暖房が止まって、今はもうすっかり冷蔵庫状態です。なので逃げてきたのですが……」
クラウがコートの前を開けながら、少しでも早く暖かい空気で身体を温めようとしている。そのクラウの顔を、レジーナが白書を持って立ち止まったまま見ている。
「詰め所も暖房が止められたの? ここもさっき止まったところなのよ」
「えええ〜っ!? せっかく来たのに、ここも止まってたのですか?」
レジーナの言葉に、クラウのコートの前を開く手が止まった。そのクラウから視線をはずしたレジーナが、白書を返しに奥の資料室へ入っていく。
「これは困りましたねぇ」
コートの前を閉め直して、クラウが困った顔でぼやいた。そのクラウの視線が、カウンターの外でコートを持って立っているパセラに向かう。
「パセラちゃん。宮廷の暖房はどうなってますか?」
「宮廷でも、ほとんどの部屋が暖房を止めてますぅ」
「やはりというか、率先して切りましたか。帝国議会でも中央会議室以外の暖房をすべて切ったそうですからね。為政者としての心意気ってとこでしょうか」
「はぁ、それは……」
クラウの言葉を、パセラが呆けたような感じで聞いていた。そんなパセラを見ていたクラウが、顔を上げて天井近くの壁をみる。そこには、
「ああ、暖房が切られましたから、だんだん冷えてきてますね」
空調の吹き出し口があった。
室内では事務仕事を続けている職員たちが、手を休めてコートを用意し始めている。その中には早くもコートを羽織り、冷え込みへの備えを終えた者もいた。
ところが突然、吹き出し口からカンカンカンという音が聞こえてきた。
「あれ!? ひょっとして空調が動き始めましたか?」
音を聞いたクラウが、そんな言葉を口にした。このカンカンカンという音は暖かい空気が流れ始める時、通風管が熱膨脹する時に鳴らす音だ。そこに奥から戻ってきたレジーナが、
「みんなぁ。ガスの供給制限、解除されたってさ!」
と、事務室に入ってくるなりそんな情報を伝えてきた。そのレジーナが、
「……あ、空調、もう動いてるのね」
空調を見上げながら、元いたカウンターのところまで戻ってくる。
「レジーナぁ。制限解除って?」
「シルヴからフルヴィ川を下ってきた船が、今朝、ポルタウに着いたらしいわ」
パセラの質問に答えながら、レジーナがカウンターの奥にある席に腰を下ろした。
「それで、その船が運んできたガスが、ついさっきサクラスに到着したんだって。このあと運ばれてくる分を合わせると、2日分になるらしいわ。だから、取り敢えず供給制限を解除することにしたみたいよ」
「たった2日分ですか? それは心許ないですね」
クラウがレジーナの話を聞きながら、コートを脱ぎ始めた。吹き出し口から出てくる風で、部屋が再び暖かくなってきたからだ。
「まあ、そうなんだけどね。でも、サンルミネで小さなタンカーに積み替えられたガスが、内陸の大運河を通って明日にも到着するらしいの。その到着が1日遅れても大丈夫だろうってことで制限を解除するみたいよ」
「そうですか。それならば一安心ですね」
そう言いながら、クラウが脱いだコートをたたんでカウンターに置く。そのクラウが、
「それでは暖房の問題は解決ということで、次はメイベルちゃん関係の情報を……」
と、ここに来た本当の目的を言ってきた。それにレジーナが「ないわよ」と、あまりにもあっさりと否定してくる。
「ないんですか? まったく?」
「そうね。あるといえば今朝の朝刊に、『昨日、聖女メイベルが南アルテース第2の都市ラクスに現れ、盛大なパレードで迎えられた』とあったけど……」
と答えたレジーナが、机に頬杖を突いた。そしてそのあとに、
「ソロリエンスの記事だけどね」
と付け加えてくる。
「レジーナちゃん。その記事の裏づけは……」
「ないわよ。まったく、さっぱり、これっぽっちも」
クラウの確認に、レジーナがトドメを刺すように「ない」を強調してきた。それで情けない表情になっているクラウの横顔を、パセラが面白そうに見ている。
「はぁ〜。それにしても、情報がさっぱり入ってこなくなったわね」
そう零したレジーナがら、カウンターの下に置いていたファイルを手に取った。ファイルの背表紙には『メイベル関連』と書かれた紙が貼られている。これまでメイベルに関して集められた情報をまとめたファイルだ。
開いたファイルの最後には、聖女がラクスに来た記事がスクラップされている。
「レジーナぁ。メイベルはその記事の通り、ラクスにいるのではないですか?」
「それは、ちょっと考えづらいのよね」
パセラの考えを、レジーナが頬杖を突いたまま否定してきた。
「ほら、メルキアから先、7日間も消息が途絶えてるじゃない。この間には大きな都市がいくつもあるから、記事が本物ならもっと目撃情報があっても良いと思うのよ」
「そういうものでしょうか……」
パセラはレジーナとは違う理由を感じているようだ。だが、これと言える意見もない。
ということで、今日も3人は有力な情報を得られなかったようだ。
その3人が消息を求めているメイベルは、
「近くで見ると、思ってた以上に大きいわね」
珪油精製プラントに到着して、銀色に輝く建物を見上げていた。
建物の北側には水蒸気を噴きながら、大きな腕を上下させて弾み車を回す機械が動いている。蒸気が小刻みに噴き出すシュシュシュッという音。機械がきしむギギギッという音。そしてぶつかる時のガツンガツンという音。プラントの近くはやかましいというほどではないが、いくつもの音の交わる異質な場所になっていた。
「市長さん。この機械の動いてるところでは何をしてるのですか?」
「ポンプで水を汲み上げ、珪藻から油を搾り取り、熱で油を成分ごとに分離し、更に加圧加熱処理することで燃料として使いやすい油に加工してるのです」
機械の腕を指差して尋ねるメイベルに、市長がゆっくりとハッキリした声で答えた。
「この建物で使ってる蒸気機関は、わしの発明した蒸気エンジンのポンプですよ。この建物で必要な動力を、すべて蒸気エンジンで生み出してます」
「動力を水車じゃなくて、蒸気エンジンから得てるのね」
市長の話を聞きながら、メイベルが蒸気を噴く動力部を見上げる。
「わしが今の蒸気エンジンを発明する前の蒸気機関は、回転運動ではなくピストンを往復させるだけのものでした。それでも水を汲み上げるには十分なものでしたからね。その汲み上げた水で水車を動かせば十分な動力を得られたので、それで珪藻から油を搾ることは可能だったわけです。それで得た油を熱して油をいくつかの種類に分離するのですけど、昔の蒸気機関は、その時の余熱でポンプを動かしていたのです。まあ、蒸気機関が使われる前は風車で水を汲み上げてましたので、風任せではなく安定して油が得られるようになったので、それでもかなり生産量が増えたのですよ」
「へぇ、その前は風車で水を汲み上げてたの……」
市長の話に、メイベルが昔の機械にも興味を覚えたようだ。
「で、昨日、聖女さまに見ていただいた空気エンジンを発明した学者がいましてね。蒸気機関と同じように余熱で動くわけですが、空気エンジンを水を汲み上げるポンプとしてだけではなく、生み出された回転運動で水車の代わりに珪藻を搾り取る圧搾機としても使ってみたところ、珪油の生産が飛躍的に高まったのですよ」
「うんうん」
話を聞くメイベルが、身体を前のめりにして真剣な顔をしている。
「で、わしはその空気エンジンを参考にして、それまで往復運動しかできなかった蒸気機関を改良して、回転運動を得られる蒸気エンジンを作ったのです。この蒸気エンジンの方が空気エンジンよりも力がありましてね。これまでのポンプと圧搾機としてはもちろん、更に余った力で油を加圧加熱なんて処理もできるわけです」
「加圧加熱? それは何のために?」
「ふっふっふっ。よくぞ聞いてくれました、聖女さま」
メイベルの質問に、市長がニヤリと笑みを浮かべて、立てた指を左右に振ってみせる。
「珪油を加圧加熱処理すると、圧力や温度でいろいろな種類の油が生まれるのですよ。その中でも珪油ガスはもっとも使い勝手のよい燃料でして、これを液化したものが帝都にも運ばれて使われているのですよ」
「えええ〜っ。あのガスって、そうやって作られてたの!?」
市長の話に、メイベルが拳を握って更に身体を前にのめらせる。
「聖女さま、ご覧ください。先ほど馬車で、パイプラインが街へ向かっているとご説明しました。ですが、パイプラインは更に南へ伸びて、海沿いの街──ヒュエルへ向かってます。そこで船に積まれ、はるばる帝都へも運ばれているのです」
「うわぁ〜、それは知らなかったわ……」
メイベルが丸くなった目で、パイプラインをたどった。
プラントを出たパイプラインは、道と並行にラクスの街へ向かっている。メイベルがラクスに到着する前、丘から見たパイプだ。だが、パイプはそこで終点ではなく、他の湖から来たパイプラインと合流して、更に先に見える森の中へ向かっていた。
そのメイベルが見てる前で、ラクスの街からグライダーが飛び立っていく。
「市長さん。今、グライダーを飛ばしたのって……」
「蒸気カタパルトですか? あれは昔の往復運動しかできない蒸気機関と同じで、蒸気圧でグライダーを射ち出すんですよ」
「あのグライダー。そういえば昨日、エンジンで回す風車を載せればもっと遠くまで飛べるのにって話しましたよね。風車というかエンジンを載せなくても、強い蒸気カタパルトで射ち出せば、もっと遠くまで飛ばせるのではないですか?」
「はっはっはっ。わしも若い頃、聖女さまと同じことを考えましたよ」
市長が笑いながら、メイベルの近くに歩いてくる。
「今より強い蒸気カタパルトは作れます。でも、それでは射ち出す時の衝撃にグライダーが耐えられないのですよ。翼がもげて胴体だけが射ち出されるとか、もっとひどい時には胴体から頭だけが千切り取られてしまうとかね。それに、今でも射ち出す時の衝撃に耐えられるようにグライダーを補強してるのですが、その補強材がけっこうな重量になっています。なので今よりもはるかに強い蒸気カタパルトに耐えられるグライダーは、補強材のおかげで重すぎて飛べないかもしれません」
「ああ、そういう問題があるんだ……」
メイベルが名案だと思った考えは、すでに否定されたものだった。それを知らされたメイベルは今、机上の空論という言葉を強く実感している。
「それに聖女さま。強い蒸気カタパルトは、乗ってる人にも強い衝撃を与えますよ。わしは若い頃、それでムチ打ちになったことがあるのですよ」
「…………あ……。そうなんだ……」
首筋を押さえる市長の仕種に、メイベルが気の抜けた声を返している。
「それはそうと聖女さま。エンジンを載せた乗り物ですが、もっと普及できないものでしょうかね?」
そこまで言いかけたところで、市長が神経質そうに頭をポリポリと掻いた。
「わしは船にエンジンを載せれば燃料の需要が増え、油を作るラクスはその売り上げで豊かになれると目論んだのですが……。エンジンを載せてまともに動くのは、大型の船だけです。小さな船に載せるために小さくしたエンジンは、力が弱すぎてヒッポス・ドラゴンの代わりにはなれません。船の大きさを無視して力のあるエンジンを載せれば、エンジンの重みで船が沈んだり、なんとか浮いてても荷物を積む余裕がなくなったりで……」
「ああ、それで動力船には大きな船しかないのね」
これまでの旅でメイベルは大型の動力船には何度も乗ってきた。だが、小型の船となると水棲のドラゴン──ヒッポス・ドラゴンに引かれる水上バスや人の手で舟を漕ぐ平底舟ばかりで、エンジン付きで自走できる小型船はなかった。その理由は、まさに力が弱いという部分にあったようだ。
「いやはや難しいものです。動力船には大きな船しかないのでは、手を出せる人が少なすぎます。おかげで、こちらが思っていたほど船の数は増えませんでしたからねぇ」
「ホントに理想通りにはいかないものなのね」
市長の話を聞いたメイベルが、実用化の難しさを感じている。
そんな話をしているうちに、2人は建物のすべての動力を生み出している蒸気エンジンのところまでやって来た。
「うわぁ〜、大きい……。これが蒸気エンジンですか?」
大きな円筒形の塔を見上げて、メイベルが口をぽかんと開けた。
円筒形の建物の上には煙突があり、そこから黒い煙が昇っている。煙突の横には細い管が並び、そこから噴き出しているのは水蒸気のようだ。
「これが船の中にも……」
「聖女さま。そこは珪油を精製する塔ですよ。蒸気エンジンは塔の下です。横倒しの円筒がくっ付いてるでしょう。そこですよ」
「えっ!? こんなに小さかったの?」
エンジンを見たメイベルの口から、思わずそんな言葉が飛び出した。
蒸気を作る円筒部分は直径2mもなく、長さも3mほどだ。その下から数本の腕が出ていて、それが往復運動しながらメイベルの身長ほどの弾み車を回している。
「市長さん。この蒸気エンジンは、力がない大きさですか?」
「聖女さま。力のないエンジンなど使えません。蒸気エンジンはこのぐらいの大きさがないと、十分な力を出せないのです」
「へぇ〜。この大きさがあれば十分なんだ……」
メイベルと市長の間に、大きさに対する認識の違いが生まれたようだ。その2人の会話を聞かされているキャロルが、その喰い違いに気づいて「ん?」と首を傾げている。
「市長さん。この蒸気エンジンは、どのくらいの重さがあるのですか?」
「それの重さですか? たしか8tではなかったかと記憶してますが」
メイベルの質問に、市長が記憶を掘り起こしながら答えた。
「8t……。そんな重さじゃ、小船には積めないわね」
「ええ、そこが問題なのです」
「でも、そのぐらいなら陸を走らせるには十分なんじゃ……」
「何を仰いますか、聖女さま!」
メイベルが口にした言葉を、市長が強い口調で否定してきた。
「蒸気エンジンで陸を走れる乗り物があったらと、わしは何度も試行錯誤しました。しかし、いまだ成功してないのです。まず蒸気エンジンの重みで車輪が支えられません。鉄で車輪を作れば重みには耐えられますが、今度は路面が耐えられません。車輪にかかる重みで、地面にめり込んでしまうのです。そこで車輪の幅を大きくして地面にめり込まないようにしたのですが、そうすると車輪が重すぎて蒸気エンジンでは回せなくなります。それほど陸を走る乗り物の開発は難しいのですよ」
「あのぅ、市長さん……」
問題点を力説してくる市長に、メイベルが困った表情を浮かべる。そのメイベルが、
「その程度の問題なら、足まわりを鉄道や無限軌道にすれば済むと思うのですけど」
と意見を出した。
「鉄道!? それとク……なんとか、ですか?? 何ですか、それは?」
「えっ!? 鉄道や無限軌道をご存じないのですか?」
問い返してきた市長の言葉に、メイベルが息を呑んで少し黙ってしまった。
「えっと、鉄道というのはですね、鉄で長いレール……というか、2本の棒を平行に置いて、その上を鉄の車輪で走らせる乗り物です。帝都にある技術研究所では、電気を使った電気機関車の実用試験をやってまして、すでに重さ24tのモーターを載せた機関車が立派に動いてます。もっとも、電気をどうやって送るかが問題になってますけど」
「おおおっ! 24tでも動きますか。ということは、蒸気エンジンで陸上を走る乗り物は十分にできそうですね」
メイベルの話に、市長が顔を紅潮させて拳を握っている。
「それと無限軌道というのは、板を帯のようにつなげて環にした履帯を車輪代わりにするもので、田んぼの中のような、泥濘んだところというか、泥の中を走る稲刈り機や耕耘機などの農耕機に使われている技術です」
「なんと、泥の中を走る技術があるのですか!? うむむ、わしには想像のつかない技術ですが……、そんなことが可能になっているとは……。うおおおおおぉ〜……」
興奮した市長が、いきなり吠えた。その声にメイベルとジェニフィがびっくりしたようだ。ただ1人、孫であるキャロルだけは、いつものことと言いたそうな涼しい顔だ。
「聖女さま。鉄道は鉄の棒の上を鉄の車輪で走るもの……と考えて、良いのですか?」
「はぁ、それで間違いはありませんけど……」
「となると1つ気がかりなことがあります。棒の上を鉄の車輪で走るのは良いのですが、それではすぐに棒から落ちてしまいませんか?」
「その心配はありません。車輪の内側の径を外側より大きくなるように斜めにしておけば、2本の棒の上をまっすぐに走れます」
「まっすぐ走れる? では曲がる時はどうなるのですか?」
「2本の棒、これをレールといいますけど、この間が一定であれば、車輪はレールの上をまっすぐでも曲がっていても走り続けます。車輪が斜めになってますから、曲がる時には外側の車輪は径の大きい内側がレールと接触して、内側の車輪は径の小さい外側がレールと接触します。それで車輪が1回転する間に進む距離が、内側と外側の車輪で変わってくるんですよ。そのおかげで車輪はレールからはずれることなく、自然に曲がれるんです」
「おおおっ。それは単純な理屈だが、なんと機能的な……」
市長がまたも考え方に感動して吠えた。その直後、
「辛抱堪らん! 大至急、市庁舎へ帰るぞ。馬車を出してくれ!!」
馬車に駆け戻った市長が、馭者に行き先を告げて乗り込んだ。それに驚いた馭者が、
「聖女さま。申し訳ありませんが、あとで迎えに戻らせます!」
と断りを入れて、そのまま馬車を走らせてしまった。
「えっ!? あの……」
置き去りにされたメイベルが、いったい何が起こったのか理解できないまま、その場から遠ざかっていく馬車を見送っている。一緒に置き去りにされた2人も、
「市長さま。またいつものご病気かしら?」
「お祖父ちゃん、戻って設計図を描く気よ。間違いなくね」
苦笑と不満の雑じった目で、帰っていく馬車を目で追っていた。
「聖女さま。どうしましょう? このプラントを見学しながら、時間を潰しますか?」
「う〜ん、それしかないのかなぁ」
魔法の杖を地面に突き立てて、メイベルが困った顔で空を見上げる。
そのメイベルの目に、空を飛ぶ人の姿が飛び込んできた。
「あ、魔導師だわ……」
青空の中を、白いマントをたなびかせた魔導師が飛んでいた。遠目には性別はわからない。北西の方角から、まっすぐにラクスへ向かって飛んでいるようだ。
「偵察の魔導師かしら?」
キャロルも魔導師を見つけたようだ。
その魔導師はメイベルたちから1kmほど西を飛んでいる。
「キャロルさん。偵察って?」
「この季節はよくあるのよ。どこかの都市が、ラクスに攻めてくる前にね」
「この季節、どこかの都市が、攻めてくる?」
キャロルの言葉の意味がわからなくて、メイベルが首を傾げた。
「グライダーが近づいていきますわ」
都市の周りを飛んでいたグライダーの1つが、魔導師の背後から近づいていた。その接近に気づいたのだろう。魔導師が高度を上げてグライダーを振り返った。そして下を通りすぎるグライダーに、軽く片手を挙げてあいさつのような仕種をしている。
「わぁ!! 目が合った!?」
空に浮かんでいた魔導師が、不意にメイベルたちのいる方向に顔を向けてきた。それで目が合ったように感じたのだろう。キャロルが思わず後ずさりしている。
「こちらに飛んできますわ」
「こら、ジェニフィ。あたしを盾にしないでよ!!」
正体のわからない相手が、自分たちに向かって少しずつ加速しながら飛んでくる。それに不安を感じたジェニフィが、キャロルの背後に隠れようとした。
メイベルも相手の正体がわからないだけに、魔法の杖を構えて不測の事態に備えた。メイベルの脳裡に、帝都からの追っ手かもしれないという悪い予感がよぎっていく。
そのメイベルたちに近づいてきた魔導師が、10mほど手前でスッと停止した。
「誰!? すっごく綺麗な人だけど……」
メイベルが魔導師の正体を見て怪訝そうな顔をした。
魔導師は女性だった。年の頃ならメイベルの少し上ぐらいだろうか。まるで女神のごとく整った顔立ちをしている。体格はメイベルに似て細身だ。
「その黄色い服の者よ。ひょっとしてメイベルではないか?」
「あなた、誰!?」
声をかけられたメイベルが、険しい表情で女性魔導師を睨み返した。見知らぬ相手にいきなり名前を言い当てられたのだ。警戒感を強めるのも道理だ。ところが、
「わらわはフェレラじゃ。こんなところで会えるとは奇遇じゃのう。憶えておるか?」
と言ってきた女性魔導師の言葉に、メイベルが目を丸くして、まるで息をするのも忘れたように動かなくなった。
「フェ、フェレラ!? ……って、その口調は……本物ぉ??」
ようやく動いたメイベルが、いきなり素っ頓狂な声を上げた。その前に降りてきて、
「おお、憶えておったか。嬉しいぞ」
女性魔導師が微笑みながらメイベルに抱きついてくる。
「あなた、本当にフェレラなの? っていうか、竜の山脈のフェレラ……よね?」
「そうじゃ。ウソは言っておらぬぞ。って、こらこら……」
頬をつまんでくるメイベルに、女性魔導師──フェレラが文句を言った。そのフェレラの腕を摑んだメイベルが、
「ちょ、ちょっと。こっちに来て!」
と言って建物の陰へと引っ張り込もうとする。ところが、
「あひゃあ!」
メイベルの口から変な声が飛び出した。フェレラを引っ張ろうとしたのだが、メイベルにはまるでドアノブを摑んだまま駆け出そうとしたような感じだった。フェレラの腕が伸びたところでそれ以上は引っ張れず、そのまま引き戻されるように尻もちを突いている。
「メイベル。大丈夫か?」
「何? 今のは……」
フェレラの腕を摑んでぶら下がったまま、メイベルは空を見上げていた。そんなメイベルの顔を、フェレラが心配そうな顔で覗き込んでくる。
「急だったので、注意が遅れた。今のは慣性の法則じゃ。わらわの身体はそちたちと比べると、密度がはるかに高いのじゃ。以後、気をつけるが良いぞ」
「密度!? 慣性の法則……」
フェレラの言葉に、メイベルがいったいどういうことか何となくわかってきたようだ。目をジトッとしたものにして、尻もちを突いたままフェレラを見上げる。そんな2人に、
「あのぅ、聖女さま、こちらの方はどのようなお知り合いの方でしょうか?」
「聖女さまとは大変にお親しい方のように思えますけど……」
と、ジェニフィとキャロルが興味深そうに声をかけてきた。
「ふむ。あいさつが遅れてしまったな。わらわはフェレラ・コップと申す。人間が竜の山脈と呼んでおる山を住み処とする一族の、長老の孫娘じゃ」
「これはご丁寧なあいさつをありがとうございます。わたしは聖ラクス修道院の正修道女ジェニフィ・クラインでございます」
「あたしは同じくキャロル・フランクよ」
ジェニフィが深く頭を下げる横で、キャロルは気さくに握手を求めていた。その求めに応じて、フェレラがキャロルと握手する。続いて握手を交わしたジェニフィが、
「……竜の山脈……ですか!? そこのフェレラさんって……まさか…………」
フェレラと握手を交わしたまま、驚いた顔で表情を凍らせている。
「ん!? ジェニフィ、どうしたの?」
キャロルが何があったのだろうと、首を傾げてジェニフィの顔を覗き込んだ。
「ひょっとしてフェレラさんって……。まさかマウンテン・ドラゴン……ですの!?」
「あ、バレてしもうた……」
フェレラが答えた直後、握手をやめたジェニフィがズザザッと後ろへ下がっていく。
「えっ? 何?」
キャロルにはジェニフィの反応が、すぐには理解できなかったようだ。それで、
「ジェニフィ。あんた、何やってるの?」
と、急に後ろへ下がった理由を尋ねる。
「キャロル。あなた、へ、平気ですの? そ、その方、ドラゴンですわよ」
「ドラゴン。まっさかぁ、どう見たって人間じゃん」
ジェニフィの言葉を、キャロルが笑い飛ばした。だが、急に表情を硬くすると、
「あれ!? ドラゴンって、人間に化けられるんだっけ?」
と、引き攣った顔でフェレラの顔を見てくる。そのキャロルに、
「化けるとは失礼じゃな」
とフェレラがぼやいた。とはいえ、
「すまぬ、メイベルよ。この場合、わらわは何と答えれば良いのかのう?」
メイベルに助け船を求めてきた。それに、メイベルが頭を抱えて悩んでいる。
「あのさ、ジェニフィさんとキャロルさん。『フェレラはちゃんとした人間よ』って答えたら……、信じてくれます?」
メイベルが伺うような目で、2人に尋ねてみた。その質問に、2人が首を振って答えてくる。中でもジェニフィの振り方は、首が切れてしまいそうなほど激しい動きだ。
「フェレラ。もう手後れみたいだわ」
「ふむ。それは失敗したのう」
フェレラが軽く首を傾けて、指でアゴのあたりをポリポリと掻く。そのフェレラに、
「ところでフェレラ。ラクスまでは、何の用事で来たの?」
とメイベルが尋ねた。
「人間社会の見学じゃ。メイベルたちと会ってから、わらわは人間の社会に大変に興味を持ってな。こうやって人々の暮らしぶりを見学する旅をしておるのじゃ」
「へぇ。そうなの」
フェレラの答えに、メイベルが何となく嬉しそうな表情を浮かべる。
「しかし、ドラゴンの姿のままでは、わらわの望むような見学ができないのじゃ。人間たちはドラゴンをどれだけ恐れているか、街に降り立ってみたら、イヤというほど思い知らされたぞ。泣きわめいて逃げる者がいるわ、武器を持って襲ってくる者がいるわと」
「うんうん。その気持ちはわかるわ。わたしも初めてカームさんと会った時、あまりの怖さに気を失っちゃったものね。ドラゴンは理由もなく人間を襲わないと知ってたのに」
フェレラの話に、メイベルが数か月前のことを思い出して妙に納得している。
「それで、魔法で人間の姿に変身することにしたのじゃ。これなら人間たちが逃げたりせぬから、人々の暮らしを見学できるからのう。ただ、声をかけてくる者が多くてのう。それもオスばかり……。おかげで、あまりゆっくり見学できないのが問題なのじゃ」
「ああぁ……。それはすっごく当然のような気がするわ……」
メイベルが苦笑した表情を浮かべて、フェレラの顔をジッと見詰める。
「フェレラ。人間に変身するのはいいけど、その顔はあまりにも美人すぎるわ。それじゃ、男たちが言い寄ってくるのも当然よ」
「なに!? この顔は美人なのか?」
フェレラが自分の顔を指差して、そんなことを聞き返してきた。
「わらわは人間の顔など区別できぬ。だから、できるだけ平均的な顔にしたつもりじゃ」
「平均って……。それは大間違いよ。今のフェレラの顔は、絶世の美人顔よ」
「そうなのか? おかしいのう。わらわは平均にしたつもりなのじゃが……」
この時、メイベルとフェレラは、互いに大変に重要なことを知らなかった。絶世の美男美女の顔は、その時代や社会における平均的な顔であるという事実だ。
美人顔と言われたフェレラが、自分の顔を手でぺたぺたと触りながら、どうしたものかと悩んでいる。人間の顔を区別できないだけに、平均的な顔を真似るしかないようだ。
そんなフェレラの顔を、キャロルがジッと見ながら近づいてきていた。2人が親しげに話しているので、警戒する気持ちが少しだけ薄れたらしい。
思いっきり後ずさっていたジェニフィも、今はメイベルの後ろまで戻ってきている。
「それはそうと、フェレラ。あなた、さっき人間の顔は区別できないって言ったわよね。それなのに、よくわたしがわかったわね?」
「それは当然じゃ。わらわたちドラゴンは相手を目だけでなく、肌で感じる波動でも見ておるのじゃ。これなら見た目で区別できない人間でもある程度は見分けられるぞ。中でもメイベルの波動は個性が強くて特徴があるからのう。遠くからでも、すぐに気づいたぞ」
「へぇ〜。ドラゴンは見た目だけじゃなくて、波動でも個人を見てるのね……」
フェレラの説明に、メイベルが新たな発見をして気持ちを昂ぶらせている。
「そういうメイベルこそ、どうしてここにおるのじゃ? サクラスへ帰ったのではなかったか?」
「あ、それにはちょっと言えない事情があって……」
いきなり尋ねられたメイベルが答えに困った。答えを濁してその場を誤魔化そうとする。
と、その時、フェレラのお腹がキュ〜グルルルル……と豪快な音を鳴らした。
「今の音……」
「おっと、すまぬ。今日は長い距離を飛んできたからのう」
そう言って、フェレラがお腹を押さえた。そのフェレラが、
「魔力の使い過ぎで、お腹がすいてきたようじゃ。すまぬが食事のできるところへ案内してくれぬか。この話の続きは、そこでしようではないか」
と、メイベルに案内を求めてきた。
「食事のできるところねぇ。下手に屋内に入って何かあったら困るから、屋外でできるところがいいわ。あのぅ、キャロルさん。そういう場所はありませんか?」
「屋外で食べられるところ?」
メイベルに案内を振られて、キャロルが一瞬考え込んだ。そのキャロルに代わって、おずおずと手を挙げたジェニフィが、
「あのぅ、屋外でお食事できるところでしたら、いくつか心当たりが……」
と会話に加わってきた。それに微笑んだフェレラが羽織っていたマントを広げると、
「ふむ。それは助かるぞ。風で街までひとっ飛びじゃ。案内をお願いするぞ」
起こした風でメイベルたちを包んで、空にふわっと浮かぶ。そして浮かぶ高さに悲鳴を上げるジェニフィを案内役にして、4人はラクスの街へと飛んでいった。
「すまぬ。この魚料理、お代わりじゃ!」
広場に並べられた無数のテーブル。その1つをメイベルたちは囲んでいた。
ここは聖ラクス教会の西側に作られた広場だ。聖ラクス教会は小高い丘の上に建てられている。その上に巨大なドームを持つ大聖堂が建てられていた。中央のドームは高さが優に80mはある。ドームの直径は70mほど。しかも六方を半ドーム型の建物に支えられているため、ドームの下には1辺が100mを超える巨大な空間が作られている。聖ラクス教会では、ここで毎日の礼拝が行われているのだ。
そんな大聖堂の周りには、数多くの宗教関係の建物が並んでいる。小さな丘自体が教会の敷地だ。ちなみに大聖堂の南側の斜面には、山なりに傾斜した広場が作られている。
そして、メイベルたちのいる広場は丘を下った、教会の敷地より外に作られていた。広場の中央には噴水と時計塔がある。時計は樋に飛び込んできた噴水の水を動力として動く仕掛けだ。その噴水の周りにはいくつもの屋台が並び、メイベルたちは丘から離れた側にあるレストランの、外に用意された席でテーブルを囲んでいる。
「お待たせしました。卵と黒胡椒のパスタです」
「お代じゃ。小銭がないので、釣りを頼むぞ」
フェレラが運ばれてきた料理の代金を、その場で支払った。ここでは料理が運ばれてくるごとに、1品ずつ代金を払うシステムのようだ。
「フェレラ。お金は大丈夫なの?」
「心配はいらぬ。メイベルと会ってからの2か月で、人間社会の経済ルールはだいたい理解したぞ。お金の種類とか、使い方とか、稼ぎ方も心得た。まあ、わらわは魔法が使えるからのう。それでちょいと仕事を手伝えばお金には困らぬ」
店の給仕から釣り銭を受け取りながら、フェレラがメイベルの疑問に答えた。
「おお、このパスタは、なかなか美味じゃな。メイベルたちも食べるか?」
パスタを頬張ったフェレラが、すぐにメイベルたちにも料理を勧める。だが、
「食べるかと言われても……ねぇ」
「この食欲は、さすがにドラゴンだから……でしょうか?」
「人の姿に化けてても、胃袋の大きさは変わらないのかな?」
メイベルたちはフェレラの食欲に呆れていた。
4人の囲むテーブルには、所狭しと料理を載せた皿が並んでいる。それらのほとんどは、フェレラの胃袋に消えていた。それを見ているメイベル、キャロル、ジェニフィが注文したのは、お茶などの飲み物だけである。
「フェレラ。よく食べるわね」
「今は人の姿になる魔法を使っておるからな。これは魔法の副作用じゃ。この姿をしてる間は、1日に3度も食べねばならぬ。まったくもって不経済じゃ」
「副作用、不経済……ねぇ」
お茶を口に運びながら、メイベルが呆れて溜め息を吐いた。そのメイベルが、
「でも、驚いたわ。フェレラが人の姿になる魔法が使えるなんてね。他のドラゴンたちも、人の姿になる魔法は使えるの?」
と、フェレラの食べっぷりを見ながら聞いてみた。それにフェレラが、
「今のところは、わらわだけじゃ。この魔法には、いろいろ問題があるからのう」
と答えてくる。
「普通の変身魔法では姿だけは似せられても、大きさまでは変えられないじゃろう。これは致命的な問題じゃ」
「……大きさ? ああ、わかる感じがするわ……」
フェレラの説明に、メイベルの目がジトッとしたものに変わった。そのメイベルの脳裡では、身長が10mを超える人間が気さくに街中を歩く映像が流れている。
「大きさを変えられても、まだ問題があるぞ。1つは密度じゃ。魔法で体重までは変えられぬからのう。浮游魔法で身体を浮かせ続けられねば地面を踏み抜いてしまうのじゃ」
「へぇ、体重までは変えられないのね。……あ、それでフェレラを引っ張った時に動かせなくて、それが慣性の法則なのね」
メイベルがフェレラと再会した時のことを思い出した。あの時、どうしてフェレラを引っ張れなかったのか。その理由をようやく納得できたようだ。
「それと最後の問題が一番大きいのじゃが、身体を小さくすると、身体の中がすごく熱くなるのじゃ。その熱をどう処理するかは重要じゃが、戻る時は反対に身体が冷えてしまい、温まるまでしばらく動けなくなるのじゃ。こういう問題があるので、人に変身しようなど考えるのは、わらわのような物好きぐらいじゃろう」
「ふ〜ん。ということは、フェレラは今、変身の魔法と身体を浮かせる魔法と、もう1つ身体を冷やす魔法を使ってるの?」
「最後の魔法はハズレじゃ。今は暖める魔法を使っておる。ここは日なたで暖かいが、身体を動かすにはもう少し暖かくしたいところじゃ。わらわたちドラゴンには、人間のように身体の中で熱を作る仕組みがないからのう」
そう説明したフェレラが、ティーポットからカップに温かな紅茶を注いでクイッと飲んだ。それを見ていたキャロルが、
「ドラゴンの身体って、ひょっとして温かくないのかな?」
と言いながら、途中まで手を伸ばして触ってみようかやめようかと迷っている。それで怪しい動きになっているキャロルに、
「ところでキャロルさん。お2人の飲んでる黒い飲み物は何ですか? それと、ここに置かれてる四角い物も気になってるんですけど……」
と、メイベルが話題を振った。
「これはコーヒーよ。聖女さま、ひょっとして初めて見るのかな?」
手を引っ込めたキャロルが、そう言ってメイベルの質問に答えてくる。
「少し苦いですけど、飲むと頭がスッキリしますのよ。聖女さまも飲んでみますか?」
そう言ったジェニフィが、サーバーを持ってコーヒーをメイベルに勧めてきた。
「ジェニフィは何も入れずに飲んでるけど、あたしはミルクとお砂糖をたっぷり入れてるの。苦かったらこれで好みの味にするのよ」
「えっ!? その四角いのって、お砂糖だったの? 気づかなかったわ……」
メイベルは角砂糖を見たことがなかったようだ。そのメイベルが飲みかけの紅茶を一気に飲み干し、空いたカップにコーヒーを注いでもらう。
「あ、不思議な香りね。何となくコゲっぽいけど、まさか炭を飲むなんてことは……」
「あはは。似たようなものだけど、炭とは似て非なるものだから安心して」
香りを嗅ぐメイベルを、キャロルが笑いながら見ている。その前で、メイベルがコーヒーを軽く口に含んだ。
「うっ☆ これは苦いわ……」
メイベルが顔をしかめて、カップをテーブルに戻した。それを見たキャロルが、
「あはは。最初はみ〜んなそうなのよ。って言うか、あたしは今でもストレートはダメだけどね。あはははは……」
と、けらけらと笑い出した。そのキャロルが、
「でも、そういう時はミルクで苦味を和らげて、お砂糖で飲みやすくするのよ。取り敢えず、ミルクを多めにして、お砂糖は2個入れるね。足りなかったら自分で足してよ」
と言って、メイベルのカップにミルクと砂糖を入れてスプーンで攪き混ぜた。
「ゔ、まるで泥水みたい……」
ミルクと砂糖入りのコーヒーは、メイベルには泥水に見えたようだ。それで口に入れる勇気が少しだけくじけたらしい。口許まで運んでいくものの、どうしてためらっている。
「……あ、何となくスッとした感じだわ」
そんなためらいも、喉許をすぎれば忘れてしまうもの。一口飲んだメイベルが、また口に運んで味を確かめようとする。
「うん。このぐらいの苦味なら大丈夫だわ。頭がホントにスッキリしたような気がする」
「それは良かったわ。このコーヒーはね、南アルテースの山で採れる特産なの」
メイベルの反応が良かったことで、キャロルが気を良くしたようだ。両肘を突いた腕に頭を載せて、メイベルの様子を微笑みながら見ている。
と、その時──
「号外、号外! 公金横領事件発覚だぁ〜!!」
左手で紙の束を抱えた男が、右手に持った紙を高く掲げながら広場に駆け込んできた。
「市役所で公金の横領事件が発覚だぁ〜! 見つけたのは何と、救世の勇者さまだよ!!」
そう叫んだ男が、広場の隅にいるメイベルを見つけた。その男が、
「救世の勇者さまは、ここラクスでも悪いヤツを許さないんだね! さすがだぜ!!」
真っ先にメイベルのところへ駆けてきて、紙を配ってきた。そしてメイベルに軽くお辞儀をすると、また「号外号外」と連呼しながら集まってきた市民たちにも紙を配っていく。
「ナバルが、何をしたの!?」
「これ、今朝言ってた不正経理疑惑かな!? 原因を1人で暴いたって書かれてるよ」
号外に目を通しながら、メイベルとキャロルが感じた疑問を口にした。ジェニフィも、
「あれは勘定の間違いじゃなくて、本当に公金横領でしたの!?」
という疑問を言葉にして、2人と顔を合わせた。
その3人の顔をフェレラが、頭に「?」を浮かべて見ている。そのフェレラが魚料理を丸ごと頬張って、汚れた手をナフキンでふく。
「これは……、急いで市庁舎へ戻りましょ」
「うん。それが良いね」
席を立ったメイベルの意見に、キャロルとジェニフィが首を縦に振って同意した。
「おおお。どうしたのじゃ?」
まだ食事中のフェレラが置き去りにされた。席を立った3人は、広場を横切って丘の南へ向かって歩いていく。その3人の背中を目で追うフェレラは、
「ふむ。人間という生き物はせっかちじゃな」
と零しながら、フォークにパスタを巻きつけていた。
メイベルたちのいた広場は、市庁舎とは聖ラクス教会のある丘を挟んだ反対側にあった。距離にして600mほど。そのため3人は10分と歩かずに市庁舎に着いた。
その市庁舎の正面は、警察や報道関係者、ならび集まってきた野次馬たちでごった返していた。その人込みを掻き分けて、メイベルたちは市庁舎へと入っていく。
「あ、ナバル!」
この騒ぎの功労者は、正面玄関奥のホールにいた。その姿を見つけたメイベルが、ナバルに向かってまっすぐに駆けていく。
「ナバル。この騒ぎは、いったい……?」
「よう。おかえり、メイベル」
駆けてきたメイベルを、ナバルがそう言って迎える。そのナバルに代わって、
「聖女さま。勇者さまの活躍はすごかったですよ。何というか、経理帳簿を別の帳簿に写しながら、それでどんどんおかしな部分を見つけるんですよ」
一緒に経理作業をしてきたエミリオが、興奮しながら話してきた。だがナバルは、
「俺は出納記録を、女将さんに習った複式の帳簿に落としただけだ。それで計算の合わないところを突っついたら、なにやらボロボロと……」
と、どことなく不満そうな顔をしている。
「それで、ボロボロと何が見つかったの?」
「公金横領らしい。なんか、よくわからんが……」
メイベルの質問に、ナバルが肩をすくめて嘆息した。その言葉を継いだエミリオが、
「勇者さまの示された部分を、ぼくたちが手分けして調べたんです。そのほとんどは記載漏れとか、勘定の間違いだったのですけど……。いやぁ、驚きました。中には横領やら着服やら裏金やらがあって、関係者が言い訳できなくて次々と逮捕されてくんですよ!」
と興奮しながら説明を続ける。
「うわぁ〜、なんかすごいことになってるわね」
「近年稀に見る大事件ですわ」
「キャロル、ジェニフィ、そうなんですよ。あ、そうそう。それと業者の不正請求も見つかりましたよ。それで今、そちらの方にも警察が向かってるはずです」
メイベルから遅れてきた2人にも、エミリオが興奮したまま状況を説明する。それに、
「へぇ。それはすごいじゃない」
とキャロルが相槌を打つと、
「ですよね! 勇者さまは剣術に優れた猛者というだけでなく、複式の帳簿とか言いましたっけ? つまりメルキアの秘術を使って悪い人たちを天に代わって暴いたわけですよ。悪人が暴力犯でも知能犯でも赦さないって、メチャクチャカッコいいじゃないですか!!」
興奮で顔を真っ赤にしたエミリオの言葉が止まらなくなった。
そんなエミリオを見ていたメイベルが視線をナバルに移して、
「ナバル。あの計算法はホントに正義の計算法だったわね」
と、微笑みながら声をかける。だが、
「うん。それはそうなんだが、悪いヤツを捕まえたって言われてもさ……」
ナバルは相変わらず浮かない表情をしていた。そのナバルが、
「やっぱ悪いヤツってのは、目の前に踏み込んで、観念したところを捕まえるべきじゃないのか? つーか、真っ先に踏み込むのが勇者の使命だと、俺は思うわけだ」
メイベルに向かって、珍しく煮えきらない不満をぶつけてきた。
いつもならあまり感情を表に出さないナバルの意外な訴えに、メイベルがしばし面喰らって黙っている。だが次の瞬間、
「ぷっ。いいじゃないの。ナバルは正義を守ったんだから」
メイベルはお腹を抱えて噴き出していた。
「ナバルは正義のための計算法で、悪い人たちをたくさん見つけ出したのよ。ナバルが自分から踏み込んでたら、せいぜい1人か2人しか捕まえられないでしょ。そこを30人も捕まえたのよ。これはすごいことじゃないの」
「そう言われてもなぁ……」
ナバルは頭では理解していても、やはり剣士として染みついた感覚では納得できないようだ。それでもう一度確かめるように、
「メイベル。女将さんから習ったのって、本当に正義のための計算法だったんだよな?」
と、メイベルに問いかけた。
「しっかり証明したじゃないの」
「そうか。それじゃ、良しとするか」
まだ沈んだ声ではあるが、ナバルは少しだけ納得できたようである。
で、その頃、設計図を描くために先に市庁舎へ戻っていたはずの市長は、
「わしはそろそろ、市長室へ戻っても良いかな?」
「市長。こういう時こそ政治を預かる長として、しっかりと立ち合ってもらいますよ」
職員たちが次々と逮捕される現場に立ち会うため、いまだ市長室へ戻れないでいた。




