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■第26話 「家庭――二人の時間」


 ――鍵を閉めた瞬間、世界が切り替わる。



「……ただいま」


 神谷伊織かみや いおりが言う。



「おかえり」


 白瀬舞衣しらせ まい



 マスクも眼鏡も外した顔。


 それだけで、空気が柔らかくなる。



「今日は作る」



「……ほんとに?」



「言ったでしょ」


 少し得意げに笑う。



「女優なめないで」



「いや関係ないだろそれ」



 キッチンに並ぶ二人。



 狭い空間。


 距離が近い。



「包丁貸して」



「危ない」



「大丈夫」



「……信用できないんだが」



「失礼すぎ」



 軽口。



 でも、そのやりとりが心地いい。



 トントン。


 食材を切る音。



「ねえ」



「なんだ」



「こういうの」



「……」



「いいね」



 舞衣が言う。



「普通って感じ」



「……そうだな」



 ほんの少しだけ、笑う。



 その時。



 舞衣の手が止まる。



「……伊織」



「ん?」



「ちょっとこっち」



「?」



 一歩近づく。



 距離。



 近い。



「……何」



「顔に」



 指先が伸びる。



 頬に触れる寸前。



「……粉ついてる」



「は?」



「小麦粉」



「言い方」



 小さく笑う。



 でも。



 その距離は――近すぎる。



 息がかかる距離。



 視線が絡む。



「……」



 一瞬、音が消える。



 ――止まる。



 時間が。



「……ねえ」



 舞衣が小さく言う。



「もしさ」



「……」



「全部バレても」



「……」



「こういうの、できるかな」



 ――核心。



「……できる」



 即答。



「絶対」



「……」



 舞衣の目が揺れる。



「……ほんとに?」



「嘘ついてどうすんだよ」



 少しだけ笑う。



「……そっか」



 静かに息を吐く。



 その瞬間――



 舞衣が一歩踏み込む。



 さらに距離が詰まる。



「……伊織」



「なんだ」



「こっち見て」



「見てる」



「ちゃんと」



「……ああ」



 ――もう逃げ場はない。



 舞衣の手が、そっと伊織の袖を掴む。



「……ねえ」



「うん」



「怖い?」



「……」



 一瞬の沈黙。



「怖い」



 正直に言う。



「でも」



「……」



「離れる方がもっと怖い」



 その言葉で。



 舞衣の目が少しだけ揺れた。



「……同じ」



 小さく言う。



 そのまま――



 顔が近づく。



 あと数センチ。



 ――その瞬間。



 ピリリ。



 スマホが鳴る。



「……っ」



 一気に現実へ引き戻される。



 画面。



 東繭子からの動き。



「……来る」



 舞衣が呟く。



「……何が」



「終わりが」



 静かに言う。



 さっきまでの空気が一瞬で消える。



「……」



 キッチンの音だけが戻る。



 でも。



 さっきの“距離”は消えない。



 むしろ――



 強く残った。



 その夜。



「……さっきの」



「忘れろ」



「無理」



「俺も無理」



 短い会話。



 でも十分だった。



 この関係はもう、



 戻れない場所にいる。



 そして――



 外では。



 記事が完成していた。



 “決定的証拠”。



 公開まで――あと一歩。




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