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第7話:草原のピクニックと、猫のまたたび

 迷宮都市アルカディアの城門を抜けると、そこには初夏の陽光に照らされた鮮やかな緑の海が広がっていた。

 街道沿いに広がる大草原。街の喧騒から離れたこの場所は、低ランクの冒険者が薬草を摘み、市民が休日を楽しむ長閑のどかな場所だ。

「……フィオーレ、本当にこの装備で来る必要があったのか?」

 レオンは、重厚な銀のフルプレートアーマーを軋ませながら、困惑気味に呟いた。

 彼の左腕には、ドラゴンの鱗をあしらった巨大なカイトシールド。右手には、一撃で岩をも砕くウォーハンマー。戦場、あるいは迷宮の深層にこそ相応しいその威容は、色とりどりの花が咲き乱れる草原の中では、浮きまくっている。

「備えあれば憂いなし、ですよ。レオンさん」

 隣を歩くフィオーレは、朗らかに笑ってピクニックバスケットを持ち直した。

 彼女の肩の上では、クロが心地よさそうに目を細めている。

 今日の一行の目的は、クロが『箱庭』の中で時折見せていた、ある植物の「地上版」を探すことだった。

「それに、クロちゃんがわざわざ『ここに行きたい』って言ったんですもの。何か特別なものがあるに決まっています」

 クロは、フィオーレの肩からひょいと降りると、草むらをかき分けて進み始めた。

 時折、落ちている「ただの枯れ枝」を熱心に鑑定し、気に入らなければ放り投げ、気に入ればフィオーレのストレージへ押し込む。

 レオンは、その自由奔放な「王」の背中を、盾を構え直しながら見守った。


 草原を抜け、古びた大樹が並ぶ森の入り口に差し掛かった時。

 クロの動きが止まった。

 金色の瞳が、木漏れ日に照らされた一角の茂みを捉える。そこには、裏側が銀白色に輝く、ハート形の葉を持つつる植物が自生していた。

(……ほう。この世界の『マタタビ』は、魔力を帯びてこれほどまでに芳醇な香りを放つのか)

 もちろん、声は聞こえない。だが、クロの様子は明らかに異常だった。

 普段の冷静沈着な、あるいは傲慢なまでの「箱庭の王」の威厳が、見る間に崩壊していく。

 クロは鼻をヒクつかせると、獲物に飛びかかるような勢いでその蔓に突っ込んだ。

「あ、クロちゃん!? ……あはは、すごい、ゴロゴロ言ってる」

 フィオーレが見守る中、クロは蔓に体を擦り付け、仰向けになってクネクネとのたうち回り始めた。

 あのデス・ナイトたちを平伏させた漆黒の守護者が、今はただの、酩酊した子猫のように、だらしない顔をしてヨダレを垂らしている。

「おい、フィオーレ……あれは本当に大丈夫なのか? 何かの呪いじゃないだろうな」

 レオンがウォーハンマーを握り直して警戒するが、クロは空中で前足をパタつかせ、恍惚とした表情で虚空を凝視している。

 それは、アイテム厨である彼が、前世からの悲願であった「異世界の特級マタタビ」に出会った、至福の瞬間であった。


 だが、その平穏を破るように、森の奥から地響きが伝わってきた。

 鳥たちが一斉に飛び立ち、草食獣が逃げ惑う。

 現れたのは、この森の主とも言える『フォレスト・ベア』だった。

 体長三メートルを超える巨躯。岩のように硬い毛皮と、鉄の扉さえ引き裂く鋭い爪。

 魔獣は、自分たちの縄張りに踏み込み、貴重な霊草マタタビにじゃれつく不届きな黒猫を排除せんと、咆哮を上げた。

「――来い、魔獣! ここから先は通さん!」

 レオンが即座に前に出る。

 彼は盾を地面に叩きつけ、挑発のスキルを発動させた。

 魔獣の爪が巨大な音を立ててシールドに激突するが、レオンは一歩も退かない。

「フィオーレ、今のうちに猫を連れて下がれ!」

「いいえ、レオンさん。私がその子を止めます。クロちゃんのお土産を傷つけたくありませんから!」

 フィオーレは逃げるどころか、一歩前に踏み出した。

 彼女の指先が、空間に複雑な魔法陣を描き出す。

「『魔手マナ・ハンド』――多重展開」

 以前の彼女なら、一つの物体を動かすのが精一杯だった。だが、今の彼女からは数十本の不可視の腕が伸び、魔獣の四肢を優しく、しかし絶対的な強度で包み込んだ。

「『関節固定ジョイント・ロック』、そして……『強制鎮静』」

 フィオーレの精密操作が、魔獣の神経系に直接干渉する。

 荒れ狂っていたフォレスト・ベアは、レオンに攻撃を届かせることもできず、そのまま糸の切れた人形のように、ゆっくりとその場に膝を突いた。

 殺すのではない。ただ「無力化」して眠らせる。生活魔法の極致が、高ランク魔獣を瞬時に手なずけたのだ。

「……嘘だろ。あんな巨体を、無属性魔法だけで……」

 レオンがウォーハンマーを下ろし、呆然と呟く。

 フィオーレは涼しい顔で、クロがじゃれついていたマタタビの蔓を、根を傷めないように丁寧に『分解』して採取し、ストレージへと収納した。


 夕暮れ時。

 満足げにマタタビの枝を口に咥えたクロを先頭に、一行は街へと向かう街道を歩いていた。

 クロは時折、酔いが残っているのか足元をふらつかせながらも、しっぽをピンと立てて機嫌よさそうに歩いている。

「……結局、俺の出番は盾で受けるだけだったな」

 レオンが苦笑いしながら、重いウォーハンマーを肩に担ぎ直した。

「そんなことありません。レオンさんが正面で守ってくれたから、私は集中して『収穫』できたんです」

 フィオーレはレオンの腕にそっと手を添えた。

 

 最強の防御を誇る重装騎士。

 神の領域に達した精密技術を持つ魔導師。

 そして、欲望に忠実な、わがままな黒猫。

「次は、何を拾いに行くのかな、クロちゃん」

 フィオーレが問いかけると、クロは一度だけ「ゴロゴロ」と喉を鳴らし、夕日に染まるアルカディアの街を指し示すように、一度だけ大きく欠伸をした。


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