第5話:黄金の報酬と、静かなる誓い
迷宮都市『アルカディア』の冒険者ギルドは、かつてない熱狂に包まれていた。
『終焉の廃都』第十六階層で空間暴走に巻き込まれ、公式に死亡と判定されていた二人の生還。それは、冷たい雨に打たれていた街に、一転して祝祭のような灯をともした。
「本当によかった……。本当に……!」
ギルドの応接室。旅団のリーダーは、震える手でフィオーレとレオンの肩を何度も叩いた。そこには疑念も追及もなく、ただ仲間を想う純粋な安堵と、自分たちが救えなかったことへの深い悔恨があった。
ギルド側も、二人を「罪人」のように扱うことはなかった。
それどころか、最深部からの貴重なデータと、二人の生存そのものを「人類の勝利」として称え、最高級の厚遇をもって迎えた。
「フィオーレ君、レオン君。まずはゆっくり休んでほしい。君たちの功績に見合う報酬と、失った装備の補填はギルドが全面的に保証しよう」
穏やかな口調で告げたのは、ギルドマスターの老魔術師だった。
彼の視線は、フィオーレの膝の上で丸くなっている黒猫――クロに注がれていた。
クロは、高級なソファの質感を確かめるように爪を研ぎ、飽きるとそのままフィオーレの懐に潜り込んであくびをした。
「……その猫が、君たちを導いてくれたのだね」
マスターの問いに、フィオーレは穏やかに頷いた。
「はい。クロちゃんがいなければ、私たちは今頃……」
「そうか。言葉は通じずとも、迷宮の深淵には我々の知らぬ理があるのかもしれないな」
老魔術師は深く追求しなかった。ただ、フィオーレが纏う魔力の密度が、以前の「臨時メンバー」のそれとは比較にならないほど練り上げられていることに、驚きを隠せずにいた。
健康状態の確認のために用意された測定用の魔導水晶に、フィオーレが指先を触れる。
彼女が『魔手』を僅かに発動させた瞬間、水晶は処理しきれない魔力の奔流に耐えかねたように、澄んだ音を立てて砕け散った。
「な……ッ!?」
「測定不能……。無属性の、それも生活魔法が、これほどの出力を……?」
周囲の魔術師たちが絶句する。
だが、フィオーレ自身は驚かなかった。彼女は、自分の体内に宿った「黒い太陽」のような魔力を、その卓越した操作技術で完璧に抑え込み、周囲に被害が出ないよう即座に霧散させた。
膝の上のクロは、砕けた水晶の破片に一瞬だけ興味を示したが、価値がないと判断したのか、すぐに尻尾でパシパシとフィオーレの手を叩いた。
それは「もう疲れた、帰るぞ」とでも言いたげな、わがままな猫の動作そのものだった。
ギルドが手配した最高級宿屋。
ふかふかの絨毯が敷かれ、壁には魔導式の暖房が備えられたその部屋で、フィオーレとレオンはようやく本当の安らぎを得ていた。
「……夢みたいね。温かいお部屋で、柔らかいベッドがあるなんて」
フィオーレは窓の外に広がる街の灯を眺めながら、自分の掌を見つめた。
彼女の肉体は、クロの寄生によって完全に再構築されている。以前よりも視界は冴え渡り、大気中を流れる魔素の動きが、まるで糸のように視認できた。
クロは部屋の中を忙しなく歩き回っていた。
最高級の家具、磨き上げられた燭台、壁に掛けられた絵画。それらを一つひとつ鼻先で検品し、時には前足でチョイチョイと触れて、ストレージにある自分のコレクションと見比べているようだった。
やがてクロは、フィオーレの足元に座ると、彼女の鞄を叩いた。
そして、影の中からカチャリと硬質な音を立てて、一つの金属塊を取り出した。
それは、この世界には存在しない色鮮やかなラベルが貼られた――『最高級ライトツナ缶(金ラベル)』だった。
「ふふ、またこれね。わかったわ」
フィオーレは微笑み、床に膝をついた。
クロはプルタブを前足でパタパタと叩き、早くしろと催促する。
フィオーレが『魔手』を編み上げ、不可視の指先でプルタブを引き上げる。
――シュパッ。
小気味よい音と共に蓋が開いた瞬間、部屋の中に、異世界の芳醇な香気が広がった。
上質なオイルと、凝縮された魚身の旨味。
クロは、フィオーレがスプーンで掬い上げた最初の一口をじっと見つめ、それを前足で押し戻した。
そして、フィオーレの口元へスプーンを寄せるように促す。
「えっ……? 私に、先に食べていいってこと?」
クロは無言で、一度だけ「ゴロゴロ」と喉を鳴らした。
フィオーレが躊躇いながらもそれを口に運ぶと、全身の細胞が歓喜するような、未知の美食が舌の上で弾けた。
「……美味しい……!」
彼女が満面の笑みを浮かべたのを確認すると、クロはようやく満足したように、残りのツナを美味しそうに食べ始めた。
レオンは窓際に腰掛け、その光景を眩しそうに眺めていた。
「……フィオーレ。俺、お前のあんなに幸せそうな顔、初めて見たよ」
「レオンさんも食べてみてください。クロちゃんがくれるものは、どれも本当に……不思議で、温かいんです」
翌朝。
ギルドから届けられたのは、旅団への復帰要請ではなく、フィオーレとレオン、そして「同行する猫」に対する、破格の条件下での自由行動権の承認だった。
ギルドは理解していた。
フィオーレという卓越した技術者が、もはや一パーティーの枠に収まる存在ではないことを。そして、彼女の傍らにいる黒猫が、この世界の常識を根底から覆す「何か」であることを。
「レオンさん。私……旅団には戻らずに、クロちゃんと一緒に世界を見て回りたいと思ってるの」
フィオーレは、窓辺で「現実世界のアルミホイル」を丸めてサッカーに興じているクロを見つめながら言った。
「クロちゃんが探しているものを、一緒に見つけたい。私の『魔手』と『分解』があれば、きっとお役に立てると思うから」
レオンは苦笑し、腰に佩いた魔銃を確認した。
「……だろうな。俺も付き合うよ。お前のサポート役は、俺にしか務まらないだろうし……何より、あの猫様に置いていかれるのは、癪だからな」
クロは、丸めたアルミホイルをストレージにシュートすると、二人の会話など聞いていないという顔で、フィオーレの鞄の中に飛び込んだ。
その尻尾の先が、楽しげにピコピコと揺れている。
死の淵から帰還した「生活魔法使い」と、彼女を守る騎士。
そして、すべてをコレクションしようとする欲張りな黒猫。
彼らの旅は、ここから本当の意味で始まった。
それはのどかで、美しく、そして時折とんでもない騒動を巻き起こす、一族と猫の長い物語の第一歩であった。




