第4話:地上への弔鐘
『終焉の廃都』第十七階層。本来であれば、そこは一流の探索者であっても数日の準備と決死の覚悟を要する、死の静寂が支配する回廊である。
だが今、その通路を、あり得ない速度で突き進む一行があった。
「……信じられない。私の魔力が、全く枯渇しないなんて」
先頭を歩くフィオーレが、自身の掌を見つめて呟く。
彼女の指先からは、以前とは比較にならないほど濃密な、それでいて透き通るような純度の魔力が溢れ出していた。
彼女が放つ『魔手』は、今や不可視の壁を容易に粉砕し、行く手を阻む瓦礫を紙屑のように退けていく。
その背後、彼女の肩の上には、一匹の黒猫――クロが、あくびをしながら鎮座していた。
クロが彼女の『マジックオーガン(魔力器官)』に寄生し、その一部となってから一週間。フィオーレの肉体は、いわば「箱庭の王」直結の魔力バッテリーを搭載した超高性能な魔法媒体へと変貌していた。
彼女が魔力を行使するたびに、肩の上のクロからは、心地よい「ゴロゴロ」という振動が伝わってくる。
それは彼女の精神を研ぎ澄ませ、どれほど強力な術を行使しても、脳が焼き切れるような疲労感を与えることはなかった。
「フィオーレ、少し速度を落とせ。……俺の心臓が持たん」
最後尾を行くレオンが、肩で息をしながら声を絞り出した。
彼は驚愕していた。本来、数時間はかかるはずの難所を、フィオーレは「掃除」でもするかのように軽々と突破していく。
そして、何より恐ろしいのは。
時折、物陰から飛び出そうとする深層の魔物たちが、クロが一度「フッ」と鼻を鳴らすだけで、恐怖に凍りついたように動かなくなり、そのまま壁の隙間へと逃げ出していくことだった。
(……この猫、本当にただ『依代』にしているだけなのか? ……まるで、迷宮全体がこの猫に跪いているみたいだ)
レオンは、クロの正体を「この迷宮の王」だと確信しつつあった。
だが、その「王」は今、フィオーレの髪筋を丁寧に毛繕いすることに夢中であり、人類の存亡を賭けた迷宮探索の緊張感など微塵も感じさせていなかった。
地上では、重い鉛色の雲が立ち込め、冷たい雨が石畳を叩いていた。
迷宮都市『アルカディア』。数多の英雄を輩出し、また数多の命を呑み込んできたこの街は今、深い沈黙に包まれている。
冒険者ギルドの広場には、一つの慰霊碑が置かれていた。
その前で、ずぶ濡れになりながら項垂れる五人の男女がいる。大陸最高峰のパーティー『銀翼の旅団』の生き残りたちだ。
「……結局、何も見つからなかったな」
リーダーの剣士が、掠れた声で呟いた。
一週間にわたる決死の捜索。だが、空間暴走が発生した地点から下層にかけて、二人の痕跡は一切見つからなかった。
それは、空間の裂け目に文字通り「消滅」させられたか、あるいは奈落の底で魔物の餌食になったことを意味していた。
「フィオーレがいれば……あいつが、いつもみたいに『こっちは危ない』って笑ってくれてれば、こんなことには……」
パーティーの魔術師が、顔を覆ってむせび泣く。
有能な裏方であり、仲間の汚れを、疲れを、そして心を癒やしてくれた少女。
そして、彼女を守ろうとして共に消えた、勇敢な斥候のレオン。
ギルドからはすでに、二人の「死亡」が公式に宣告されていた。
広場に手向けられた白い花が、雨に打たれて無残に散っていく。
都市の寺院からは、一日の終わりを告げる弔鐘が鳴り響いた。それは、二人の魂を弔う、最後の別れの音だった。
「……行こう。俺たちは、あいつらの分まで生きなきゃならない」
リーダーが、断腸の思いで仲間たちの肩を抱く。
彼らが、慰霊碑に背を向けて歩き出そうとした、その時だった。
ギルドの巨大な石造りの門。
迷宮の深淵へと続くその入り口から、三つの影がゆっくりと現れた。
最初は、見間違いだと思った。
雨の音に混じって、聞き慣れた、だが今の状況ではあり得ないはずの「足音」が聞こえたのだ。
「……えっ?」
最初に気づいたのは、涙を拭っていた魔術師だった。
門の向こう、立ち込める霧の中から、ボロボロではあるが、真っ直ぐな足取りで歩いてくる少女の姿が見える。
白いローブは赤黒く汚れ、破れている。
だが、その肌には死の気配など微塵もなく、むしろ以前よりも生命力に溢れた輝きを放っていた。
その後ろには、疲れ果てた表情ながらも、しっかりと彼女を庇うように歩く騎士の姿。
「フィ……オーレ……? レオン……か?」
リーダーの声が、驚愕で裏返る。
広場にいた冒険者たちが、一斉に動きを止めた。
弔いの鐘が鳴り響く中で、死んだはずの二人が、まるで行き先を間違えた散歩から帰ってきたかのような顔で、そこに立っていたのだ。
「皆さん……ただいま戻りました」
フィオーレは、少し困ったように微笑んだ。
その肩の上では、一匹の黒猫が、雨は嫌いだと言わんばかりに彼女の首元に深く顔を埋めていた。
「バカな……! 第十六階層で分断されて、一週間だぞ!? どうやって……どうやって生き延びたんだ!?」
仲間たちが駆け寄り、二人の体を、その温もりを確かめるように掴む。
生存の奇跡。本来なら、街を挙げた歓喜の渦が巻き起こるはずの場面だった。
だが、レオンの表情は硬かった。
彼は仲間の祝福を受けながらも、フィオーレの肩にいる「それ」から目を逸らすことができなかった。
「……助けてもらったんだ。この、『猫様』にな」
レオンの言葉に、周囲の視線が一斉に黒猫へと注がれる。
クロは、自分に向けられた無数の視線など露ほども関心がない様子で、フィオーレの肩からひょいと地面に飛び降りた。
雨に濡れる石畳。
クロは冷たい水を嫌って、器用に爪先立ちで歩きながら、ギルドの前に並ぶ露店の方へと歩いていった。
感動の再会に沸く人々を置き去りにして、猫は一軒の、ガラクタ同然の古道具を並べた店にたどり着く。
そして、並べられた商品の中から、泥にまみれた「ただのガラス瓶の蓋」を前足でチョイチョイと弄り始めた。
(……ほう。この歪なカッティング、そして不純物の混ざり具合。廃都にはなかった、極めて低俗で、しかし味わい深いジャンク品だ)
もちろん、その声は誰にも聞こえない。
だが、クロの金色の瞳は、かつて国宝級の魔石を見つけた時と同じくらい、真剣な「鑑定」の輝きを宿していた。
「クロちゃん、ダメだよ。それはお店の人のものだよ」
慌てて駆け寄ったフィオーレが、クロを抱き上げる。
クロは不満げに鼻を鳴らしたが、彼女の懐に収まると、すぐにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
死の淵から帰還した聖女と、それを守り抜いた騎士。
そして、その中心にいる、得体の知れない黒猫。
弔いの鐘は、いつの間にか止んでいた。
代わりにかき鳴らされたのは、あり得ない奇跡を告げる、驚愕と混乱のファンファーレだった。




