第3話:共生(リペア)の儀式
深淵の最下層『箱庭』を支配する静寂は、死の際にある少女の微かな喘鳴さえも克明に拾い上げていた。
フィオーレの肉体は、すでに自壊のプロセスに入っていた。
魔法使いにとっての第二の心臓――マジックオーガン(魔力器官)が粉砕されたことは、単なる負傷ではない。それは、器の中に満ちていた膨大なエネルギーが、制御を失った暴徒となって内側から肉を焼き、神経を寸断し、細胞を崩壊させていくことを意味する。
雪のような白を誇っていた彼女の探索者ローブは、今や見る影もなく赤黒く汚れ、石床に広がる血の海に浸かっている。その体温は刻一刻と失われ、指先からゆっくりと、死の冷たさが這い上がっていた。
傍らで倒れていた騎士レオンが、激痛に耐えながらかろうじて上体を起こす。
視界が歪む中で彼が目にしたのは、伝説の守護者デス・ナイトたちがひざまずき、その中心で一匹の黒猫が、死にゆく少女を見下ろしている光景だった。
「……やめ、ろ……」
レオンの声は、掠れた吐息に過ぎなかった。
だが、黒猫――クロは、その声に耳を貸すことすらなかった。
猫の金色の瞳に宿っているのは、慈悲ではない。それは、自分のコレクションの中に紛れ込んだ『極めて希少で、かつ深刻な破損を抱えた美術品』を鑑定する、職人の冷徹な視線だった。
(……無属性の超精密回路。これをこのまま腐らせるのは、管理人の美学に反する。……それに、これほどの『器』は二度と現れまい)
クロにとって、フィオーレという個体は、この世界を巡るための唯一無二の通行証であり、手入れのし甲斐がある最高級の部品であった。
クロは、フィオーレの胸元にのっそりと飛び乗った。
彼女の意識はすでに昏い闇の底にあるが、肉体が拒絶反応を示す間もなく、クロの影がドロリと不定形に広がる。
猫の形をした漆黒の魔力が、フィオーレの傷口から、そして毛穴の一つひとつから、彼女の体内へと染み込んでいった。
レオンは、言葉を失ってその光景を凝視した。
少女の胸元にいたはずの黒猫が、まるでインクが水に溶けるように、彼女の肉体へと同化していく。
次の瞬間、フィオーレの全身が、網目状に広がる漆黒の紋様に覆われた。
ゴロゴロゴロゴロ……。
それは、猫の喉鳴らし。だが、その音はもはや動物の鳴き声ではなく、巨大な歯車が噛み合うような、あるいは世界の理を書き換える祝詞のような、重厚な振動となって箱庭を揺らした。
フィオーレの内界では、凄まじい速度で『修理』が行われていた。
砕け散ったマジックオーガンの破片を、クロの魔力が一つひとつ拾い集め、元の形へと繋ぎ合わせていく。いや、それは単純な復元ではなかった。
クロの影は、彼女の脆弱だった魔力回路の接合部に、異世界の「合理性」と廃都の「秘法」を織り交ぜ、より強靭で、より滑らかな、高次な器官へと作り変えていったのだ。
破損した血管が塞がり、肺に空気が満ちる。
彼女の心臓のすぐ隣に、クロの意識が「核」として鎮座した。
寄生――あるいは、完全なる共生。
異世界の魂であるクロが、現地人の血肉という「皮」を被り、この世界のシステムに自分を認めさせるための偽装工作が完了した瞬間だった。
「……あ、……ぁぁ……っ」
フィオーレの口から、熱い吐息が漏れる。
漆黒の紋様が肌の下へと沈み込み、彼女の頬に朱が差した。
クロは再び彼女の胸の上で実体化し、ふぅ、と小さく鼻を鳴らした。その仕草は「手間をかけさせおって」とでも言いたげな、ひどく傲慢で、しかしどこか満足げなものだった。
死の影は消え、代わりに彼女の体内からは、以前とは比較にならないほど濃密で、それでいて澄み渡った魔力の波動が放たれていた。
それから一週間。
地上では二人の生存が絶望視され、弔いの準備が進められている中、『箱庭』では世にも奇妙な療養生活が送られていた。
広大な広場の一角。山のような財宝の隙間に、クロによって「選別」された寝心地の良い布地――王族の儀礼用外套や、最高級のシルク――が敷き詰められ、臨時の寝床が作られていた。
「クロちゃん、これ……本当に、私が食べてもいいの?」
フィオーレは、差し出された銀色の円盤状の物体――高級なツナ缶の「中身」だけを皿に盛ったもの――を前に、戸惑いの声を上げた。
隣では、いまだにデス・ナイトたちの存在に怯え、魔銃を離せないレオンが、警戒心剥き出しでクロを睨んでいる。
「フィオーレ、気をつけろ。その猫は……このダンジョンの王なんだぞ。俺たちが食わされているのは、何か恐ろしい契約の対価かもしれない」
「でも、レオンさん。とっても美味しいですよ? それに、クロちゃんはいつも、私がこれを食べ終わるのをじっと待っててくれるんです」
クロは、そんな二人の会話など露ほども関心がない様子で、少し離れた場所で『収集品の整理』に励んでいた。
前足で器用に、古い魔導書の背表紙についた埃を払い、ストレージから取り出した「現実世界の粘着クリーナー(コロコロ)」を転がして、床のチリを吸い取っていく。
カサカサッ、ペリッ。
箱庭の至るところで、クロの「奇行」が繰り広げられた。
ある時は、空になったレジ袋の中に潜り込んでカサカサと暴れ回り、それをデス・ナイトたちが一糸乱れぬ直立不動で「高次の戦術訓練」として拝聴する。
またある時は、フィオーレの持ち物であるマジックバッグをひっくり返し、中に入っていた安物の携帯食を「鑑定」しては、気に入らないと言わんばかりに隅に弾き飛ばす。
フィオーレは、その光景を眺めながら不思議な安らぎを感じていた。
胸の奥に宿ったクロの魔力は、彼女の精神を驚くほど穏やかにしていた。猫が喉を鳴らすたびに、彼女の細胞一つひとつが優しく愛撫されているような、そんな錯覚さえ覚える。
(……クロちゃんは、ただ、集めるのが好きなだけ。……そして、それを綺麗に保つのが好きなのね)
フィオーレは、プロの解体師としての直感で悟り始めていた。
この猫にとって、自分もレオンも、そしてこの広大な廃都の財宝も、すべては対等な「コレクション」なのだと。そしてクロは、自分のコレクションが汚れたり、壊れたりすることを、生理的に嫌っているのだ。
一週間の終わり。フィオーレの肉体は完全に「再起動」を果たしていた。
以前の彼女なら、一日の探索で使い切っていた魔力が、今やどれほど練り上げても底が見えない。クロの寄生によって、彼女の魔力回路は「箱庭の王」直系の出力を受け入れる超高性能なパスへと変貌していたのだ。
クロは、磨き上げたばかりの古代のナイフをフィオーレの足元に転がした。
そして、一度だけ出口の方を向き、短く鼻を鳴らす。
「……クロちゃん。外へ、行くのね?」
クロは答えず、優雅な足取りで歩き出した。
彼が通る道筋にいたデス・ナイトたちが、左右に分かれ、深々と頭を垂れる。
主は、ついに依代を手に入れた。
これから始まるのは、この世界のすべてを鑑定し、収集し、ストレージに詰め込んでいくための、悠久の収集だ。
フィオーレはレオンの手を引き、黒猫の後に続いた。
死の淵から蘇った少女の瞳には、かつてないほどの決意の光が宿っていた。
「行こう、レオンさん。クロちゃんと一緒に地上へ」
迷宮の出口までは、まだ長い道のりがある。
だが、最強の守護者たちが平伏するその背中についていく限り、もはや絶望の二文字は彼女の辞書にはなかった。
一方、地上の迷宮都市では――。
弔いの花が手向けられたギルドの掲示板の前で、生き残った『銀翼の旅団』のメンバーたちが、重い雨に打たれながら項垂れていた。
彼らが、死んだはずの仲間と、「世界で最もわがままな黒猫」の帰還を目撃するのは、それから数日後のことである。
次回予告:第4話「地上への弔鐘」
迷宮の最深部から這い上がってきたのは、二人の英雄と――一匹の猫。
死を宣告された二人の生還に、都市は揺れ、ギルドは騒然となる。
しかし、当の黒猫が関心があるのは、地上の市場に並ぶ「見たこともないガラクタ」たちだけであった




