第24話:響きの谷と、猫の蓄音機(スピーカー)
飛行船『まどろみ・エアライン』は、切り立った岩壁が複雑に絡み合う『反響の連峰』を越えようとしていた。
高度を上げるにつれ、船体を打つ風の音は激しさを増し、甲板や船室には「ゴォォォ」という低く耳障りな風切り音が鳴り響いている。
「クルル……。うにゃ……」
クロは、特等席であるクッションの上で、耳を不機嫌そうに伏せていた。
せっかくの午後のまどろみ。完璧な室温と、リリアーネの焼いたクッキーの香り。だが、この執拗な「風のノイズ」だけが、クロの安眠を妨げる許しがたい不純物であった。
クロにとって、静寂は美徳であり、その静寂を彩るのは「自分が選んだ至高の音」であるべきだ。
クロはのっそりと立ち上がると、フィオーレの足元へ歩み寄り、影の中に深く手を突っ込んだ。
取り出したのは、現代世界の音響技術の結晶――『ハイエンド・ワイヤレススピーカー(円筒型)』。そして、膨大な楽曲データが収められた『デジタルオーディオプレーヤー』だった。
「なんじゃ、その黒い円筒は。……ほう、この表面のメッシュ構造、音を全方位に均一に拡散させるための工夫か」
ガラムがスピーカーを手に取り、その緻密なパンチングメタルの加工に唸った。
リリアーネも、オーディオプレーヤーの画面に並ぶ無数の曲目を見て、目を輝かせる。
「……楽譜がないのに、歌声が聞こえてくるのね。これに私の『共鳴』の魔法を組み込めば、船室全体を『精霊の演奏会場』に作り変えられるわ」
フィオーレは、クロの持ち込んだ『最高のBGM』という概念を形にするべく、魔力を解放した。
「『音響空間固定』、および『ノイズ・キャンセリング』。……ガラムさん、スピーカーの振動板を、震動に強い『浮遊石』の薄膜で強化してください。リリアーネさんは、この板に、聴く者の精神状態に合わせて選曲する『心の旋律』の術式を」
数時間の共同作業。
完成したのは、現代のクリアな音質と、聴く者の耳に直接届く魔導音響技術が融合したシステム、通称『王の旋律』である。
フィオーレが再生ボタンを押すと、船室内の不快な風切り音が瞬時に消失し、代わりに澄み渡ったピアノの旋律が、まるで空気に溶け込むように流れ出した。
「ウニュ……!」
クロは満足げに、スピーカーの隣で丸くなった。
ノイズを魔法で打ち消し、至高の音だけを残す。これこそが、王の求めていた「空の書斎」の完成形だった。
だが、その『まどろみ・エアライン』から漏れ出した美しすぎる旋律は、連峰の主を惹きつけてしまった。
霧の中から現れたのは、巨大な翼と美人の顔を持つ魔獣――『叫びのセイレーン』。
彼女たちは自分の「不協和音の叫び」で獲物の正気を奪い、墜落させることを至上の喜びとする。
「――キィィィィィィッ!! 醜い音を消せ! 私たちの『死の歌』を聴きなさい!!」
セイレーンたちが一斉に喉を震わせ、大気を引き裂くような絶叫を放った。
それは物理的な破壊力を伴う音波の槍。
レオンが即座に前に出た。漆黒の盾を構え、その衝撃を受け止める。
「――っ! 嫌な音だ、頭に直接響きやがる!」
レオンの盾が音波を弾くが、その余波が船体を揺らす。
クロが、スピーカーの上から身を乗り出し、最大級の威嚇音を上げた。
「シャーーーッ!!」
その声は、セイレーンたちの「叫び」を、ただの「雑音」として強制的に分類し、消去する絶対命令。
クロにとって、自分の選んだピアノ曲を不快な叫び声で汚そうとするこの鳥女たちは、即座に「ミュート(消音)」すべきゴミに等しかった。
「フィオーレ、スピーカーの出力を最大にして! 外の世界を『調律』するわよ!」
「はい、クロちゃん。……『全方位音響展開』!」
フィオーレは、スピーカーの音圧を魔力で数千倍に増幅し、船の周囲に「絶対調和の結界」を展開した。
「『不協和音・分解』、および『音の洗浄』!」
船から放たれたのは、暴力的なまでに美しい、静かなバイオリンの調べ。
叫びを上げて攻めてきたセイレーンたちは、その「完璧な旋律」に触れた瞬間、自分たちの汚い叫び声が恥ずかしくて出せなくなり、あまりの心地よさに戦意を失ってそのまま雲の下へと優雅に舞い降りていった。
殺すのではない。ただ、彼女たちの「音の価値観」を強制的にアップデートし、満足させて黙らせたのだ。
「……ウニュ」
クロは、静かになった船室内を見渡し、再び穏やかな表情に戻った。
「……やれやれ。これで音楽を聴きながら、ゆっくりお菓子が食べられるな」
レオンが盾を下ろし、ようやく耳の奥の痛みが引いたのを実感して溜息をついた。
ガラムは黄金のポットで淹れたお茶を配り、リリアーネは音楽に合わせて鼻歌を歌っている。
クロは、フィオーレの膝の上で**「クルル……」**と幸せそうな声を漏らし、完璧なBGMの中で、深いまどろみの中へと落ちていった。
飛行船は、美しい調べを空に響かせながら、さらなる未知へと進み続ける。
「うにゃう」
満足げな声が、風の中に溶けていった。




