第22話:氷結平原と、猫のバターチャーン(攪拌)
黄金の麦畑からさらに北へ。白金の飛行船『まどろみ・エアライン』が辿り着いたのは、地平線の彼方まで一面の銀世界が広がる『氷結平原シロガネ』だった。
大気はダイヤモンドダストを孕んで輝き、吐き出す息は瞬時に凍りついて、微かな音を立てて雪原に落ちる。
「……あちこち冒険してきたが、この寒さは格別だな。関節が凍りつきそうだぜ」
レオンが、表面に薄氷を纏った漆黒の盾を背負い直しながら肩をすくめた。
一方で、フィオーレの肩の上にある特等席では、クロが不満げに喉を鳴らしていた。
「うにゃ……。クルル……」
クロは、フィオーレの首元に深く顔を埋め、鼻先をひくつかせている。
彼がこの極寒の地を訪れた理由は、ただ一つ。この平原にのみ生息し、雪の中に咲く『氷晶花』を食べて生きる伝説の魔獣――『白銀の乳牛』のミルクを手に入れるためである。
「大丈夫よ、クロちゃん。もうすぐあそこに、氷の精霊さんの集落が見えるはずだから」
フィオーレは、クロのストレージから出された『防寒魔導コート』の襟を立て、精密な魔力で周囲の熱量を管理しながら、雪原に佇む小さな氷の塔を目指した。
氷の塔の中では、一人の氷の精霊(雪女)の少女――セーラが、大きな木桶の前で途方に暮れていた。
彼女の手元には、白銀に輝く濃厚なミルク。だが、極寒の環境下ではミルクはすぐに凍りついてしまい、バターを作るための攪拌作業が全く進まないのである。
「……だめ。また固まっちゃった。これじゃ、神様に捧げる『銀のバター』が作れない……」
セーラが凍ったミルクを前に涙を流した瞬間、工房の扉が開いた。
「こんにちは。最高のミルクがあると聞いて伺いました」
フィオーレが声をかけると、セーラは冷たい瞳を揺らし、警戒の色を浮かべた。
「人間? こんな吹雪の中を……。……帰りなさい、今はバター作りで手一杯なの。失敗したら、この平原がもっと凍りついてしまうわ」
「シャーーーッ!!」
クロがフィオーレの肩の上で、鋭い威嚇音を上げた。
瞬間、工房内の冷気が一変し、クロから放たれた圧倒的な魔圧がセーラを圧伏させた。
クロにとって、この精霊の「非効率な作業」と、寒さのせいでコレクション(ミルク)の鮮度が落ちる現状は、即座に改善すべき不具合に等しかった。
クロは不機嫌そうに尻尾を振り、影の中から二つの「奇妙な機械」を取り出して床に叩きつけた。
「……なんじゃ、この赤い小箱と、銀色の首の長い機械は」
ガラムが、クロが出した『ポータブル・セラミックヒーター』と、プロ仕様の『卓上スタンドミキサー(ステンレス製)』を覗き込み、その質感に唸った。
「クロちゃんが『これを使え』って。……セーラさん、お手伝いしますね」
フィオーレは、ヒーターの魔導回路をこの世界の『火の魔石』とリンクさせ、ミキサーの回転翼を『精密魔導モーター』で強化した。
「『定温維持』、そして……『高速旋回・乳化』!」
フィオーレがスイッチを入れると、ヒーターから「完璧な温度」の温風が吹き出し、凍りついていたミルクを最適な柔らかさへと戻していく。
そこに、ステンレス製の攪拌翼が、人間の手では不可能な速度で回転を開始した。
――ウィィィィィィン!!
小気味よい機械音と共に、白銀のミルクが空気を孕み、白く、重く、滑らかなクリームへと変化していく。
「……すごい。温かさが一定で、この回る羽根が……ミルクを眠らせない! 魔法でかき混ぜるよりも、ずっと正確だわ!!」
セーラは、魔法瓶の聖水ですら成し得なかった「完璧な分離」を目の当たりにし、その場に崩れ落ちた。
一時間後。
ミキサーのボウルの中には、透き通るような白銀色をした、究極の『銀のバター』が完成していた。
一行は飛行船の船室へと戻り、暖かなエアコンの風の下で、昨日焼いたばかりの黄金のトーストをテーブルに並べた。
「クルル……。ウニュ……♪」
クロは、フィオーレが焼きたてのパンに、出来立ての銀のバターをたっぷり塗る様子を、じっと見つめていた。
バターが熱でゆっくりと溶け出し、パンの黄金色と混ざり合う。
サクッ。
クロは、フィオーレから一口分を分けてもらい、うっとりと目を閉じた。
黄金の麦の香ばしさと、白銀のミルクの濃厚なコク。
それは、この世界に存在するあらゆる美食を過去にする、至高のアンサンブルだった。
「……これだ。このパンと、このバターがあれば、もう他に何もいらんな」
レオンが、極寒の外での盾役を忘れ、幸せそうにトーストを頬張る。
ガラムは「この攪拌機、わしの合金の練り込みにも使えるわい」と喜び、リリアーネは「次は、このバターを使った『伝説のサブレ』を作るわ」と目を輝かせている。
クロは、セーラからお礼として贈られた「最高のミルク」を一口飲み、満足げに「うにゃう」と鳴いた。
彼らのコレクションに、今日、「世界を溶かす究極のバター」が加わった。
飛行船は、芳醇なバターの香りを棚引かせながら、白銀の地を後にして、さらなる未知へと進み続ける。
「うにゃう」
満足げな声が、北の果ての空に響き渡った




