第21話:黄金の麦畑と、猫の朝食(トースト)
白金の飛行船『まどろみ・エアライン』は、高度を下げ、大陸を東西に引き裂く巨大な峡谷『ガルト・キャニオン』の上空にさしかかっていた。
断崖絶壁に囲まれたその谷底には、外の世界の風から守られるようにして、どこまでも続く黄金の麦畑が広がっている。伝説の『神の落とし子』と呼ばれる、品種改良の極致に達した野生の麦が自生する聖域だ。
「……あれが黄金の麦か。まるで光そのものが穂を揺らしているようだな」
レオンが漆黒の盾を背負い、手すりから身を乗り出して呟く。
甲板に降り立ったクロは、鼻先をひくつかせ、谷底から吹き上がってくる香ばしい「穀物の匂い」を熱心に嗅いでいた。
「クルル……。ウニュ……♪」
クロは、フィオーレの足元に影から一つの「四角い金属製の家電」を取り出し、転がした。
それは、現代世界の家庭に安らぎの香りをもたらす文明の利器――『全自動ホームベーカリー(一・五斤タイプ)』だった。
「なんじゃ、その窓のついた箱は。……ほう、中には小さな攪拌羽と、加熱用のコイルが仕込まれておるな」
ガラムがホームベーカリーを覗き込み、その無駄のない構造に唸った。
クロは、フィオーレの肩に飛び乗ると、早く麦を収穫してこいと言わんばかりに、しっぽで彼女の頬をペシペシと叩いた。
飛行船を麦畑の近くに係留すると、フィオーレの『精密操作』による収穫が始まった。
「『魔手』――広域刈り取り。……そして、『非接触脱穀』」
彼女の指先が指揮者のように動く。
数百本の透明な腕が麦の穂を優しく、かつ一瞬で刈り取り、空中で籾殻だけを弾き飛ばしていく。
収穫されたばかりの麦は、ガラムが即座に改造した『魔導石臼(セラミックミル仕様)』に投入され、熱を持たせない超高速回転によって、シルクのようにきめ細かな「究極の小麦粉」へと姿を変えた。
「クロちゃん、これであってる? ……聖水と、リリアーネさんのバター、それから……この『ドライイースト』っていう魔法の粉を混ぜるのね」
フィオーレは、クロのストレージから出された現代の菌の力を借り、ホームベーカリーの釜に材料を投入した。
ガラムが『精密魔導モーター』を組み込み、リリアーネが『発酵温度管理』の魔力を注ぐ。
――ガコッ、ガコッ。
ホームベーカリーが小気味よい音を立てて捏ね(こね)を開始する。
クロは、その駆動音を子守唄に、釜の温もりを堪能するように本体に体を擦り付け、**「ウニュ……♪」**と満足げに鳴いた。
だが、パンが焼き上がる甘い香りが漂い始めたその時。
峡谷の入り口を塞ぐように、巨大な影が雲海を割って現れた。
レムルス帝国軍の最新鋭空中戦艦『アイアン・ドレッド』。
全身を分厚い鉄甲で覆い、無数の魔導砲を並べたその巨体は、のどかな麦畑を蹂躙せんとする鋼鉄の獣だった。
「――発見したぞ、異端の浮遊船を! あの黒い悪魔ごと、灰にせよ! 総員、砲撃用意!」
戦艦のブリッジから、傲慢な命令が響き渡る。
彼らは、図書館を整理した一行の力を「世界の秩序を乱す禁忌」と見なし、武力による抹殺と略奪を試みていた。
「シャーーーッ!!」
クロが、ホームベーカリーの上で立ち上がり、最大級の威嚇音を上げた。
同時に、飛行船の周囲の重力が「物理的な壁」となって凝縮される。
クロにとって、せっかくの発酵タイムを騒音で邪魔し、あまつさえ自分の「朝食会場」を火の海にしようとするこの鉄屑どもは、ストレージのゴミ捨て場にさえ入れる価値のない産業廃棄物だった。
「レオンさん、パンの焼き加減を守ってください! 私はあのお掃除(迎撃)を担当します!」
「心得た! ……この盾の向こうへは、煤一つ通さん!」
レオンが甲板の端で漆黒の盾を叩きつけた。
戦艦から放たれた数十発の爆裂魔導弾がレオンの盾に直撃するが、アダマンタイトの被膜がそのエネルギーをすべて吸い込み、空間へと霧散させていく。
フィオーレは、ホームベーカリーの操作パネルの横で、静かに両手を広げた。
「『理の強制洗浄』――空気振動抑制。……『衝撃波吸収』」
彼女が放ったのは、攻撃魔法ではない。
飛行船の周囲数キロメートルの「音」と「熱」を完全に遮断し、内側の平穏を守るための究極の静止結界。
戦艦がどれほど砲火を浴びせようと、フィオーレの結界に触れた瞬間、すべての爆発は「無音の光」となって消え去る。
帝国軍がパニックに陥る中、彼女の魔手はさらに戦艦の『動力部』へと直接干渉した。
「『分子結合・一時緩和』。……少しだけ、お休みください」
戦艦を動かす巨大な魔石の結合を、フィオーレの魔法が優しく緩めた。
帝国軍の誇るアイアン・ドレッドは、すべての機能を停止し、ゆっくりと峡谷の砂地へと「不時着(不法投棄)」されていった。
――ピー、ピー、ピー、ピー。
その時、ホームベーカリーからパンの焼き上がりを告げる軽快な音が響いた。
帝国軍の旗艦が地に落ちた瞬間に、最高の一斤が完成したのだ。
甲板の上には、即席のテーブルが置かれた。
フィオーレがホームベーカリーから取り出したのは、黄金色に輝く、見たこともないほど「ふわふわ」な食パン。
ナイフを入れるたびに、湯気と共に焼きたての麦の香りが爆発する。
「クルル……。ウニュ……♪」
クロは、フィオーレが厚切りにして、リリアーネ特製のハチミツバターをたっぷり塗ったトーストを、うっとりと見つめていた。
サクッ、という快い音。
そして、口の中で解ける、この世の魔法すべてを注ぎ込んだような食感。
「……美味い。……今まで食べていたパンは、石の礫だったんじゃないか?」
レオンが、帝国の残兵たちが這いずり回る谷底を眺めながら、トーストを頬張って呟く。
ガラムは「この加熱の仕組み、わしの炉の予熱にも使えるわい」と満足げに笑い、リリアーネは「次は、このパンに合う『魔法のジャム』を開発しなきゃね」と瞳を輝かせている。
クロは、フィオーレの膝の上でパンの耳を一口もらい、「うにゃう」と幸せそうな声を漏らした。
彼らのコレクションには、今日、ついに「世界を平和にする黄金の朝食」が加わった。
飛行船は、トーストの香りを棚引かせながら、さらなる未知へと、のどかに進み続ける。
「うにゃう」
満足げな声が、朝焼けの峡谷に響き渡った。




