第19話:空飛ぶまどろみ亭と、猫のエアコン(快眠)
浮遊島『スカイ・レガシー』のドックに眠っていた白金の飛行船は、フィオーレの精密な修復とガラムの補強によって、数千年ぶりにその巨体を震わせて浮上した。
船の名は、黒猫の意を汲んで『まどろみ・エアライン』と命名された。
一階は地上と同じくティーサロン、二階は工房、そして三階はクロの玉座を兼ねた居住区である。
「……さすがに、高度五千メートルは堪えるな」
レオンが、凍てつく風を避けるように甲板の陰で身を縮めた。重厚な鎧は外気温に晒されてキンキンに冷え、吐く息は真っ白だ。
いくら飛行船が魔導障壁で守られているとはいえ、上空の刺すような冷気と、乾燥した薄い空気までは完全には遮断できない。
「うにゃ……。クルル……」
クロは、フィオーレの首元に潜り込み、鼻先を不満げにひくつかせた。
彼にとって、この「寒さ」と「空気の質の悪さ」は、快適な昼寝を阻害する重大な欠陥であった。クロはフィオーレの肩から飛び降りると、船室の中央を前足で叩き、影の中に深く手を突っ込んだ。
取り出したのは、白く四角い二つの筐体。現代世界の英知が生んだ、インバーター搭載の『最新型ルームエアコン(寒冷地仕様)』。そして、それらを接続するための銅管と、室外機であった。
「なんじゃ、その白いのっぺりした箱は。……ほう、中には細かなアルミのフィンが並んでおるな。熱を逃がすための構造か?」
ガラムが、エアコンの内部構造を覗き込んで唸った。
リリアーネも、フィルターの細かさに耳を動かす。
「この網目……塵一つ通さないつもりね。エルフの森の空気よりも、さらに『磨かれた』風を作ろうというの?」
フィオーレは、クロの持ち込んだ「概念」を飛行船の魔導回路へ組み込むべく、指先を動かした。
「『構造理解』、および『属性変換接続』。……ガラムさん、室外機のファンを風精霊の魔石で駆動させます。リリアーネさんは、この冷媒管の中に『熱移動の術式』を流し込んでください」
フィオーレの『魔手』が、数十本の不可視の腕となって、壁の中に配管を通し、電気配線の代わりに魔力経路を繋いでいく。
クロから提示された設計図(?)は、現代の熱力学を異世界の魔術で再現するという、とんでもないオーバーテクノロジーだった。
カチリ、とリモコンのスイッチが押される。
――ふぉぉぉぉん。
静かな駆動音と共に、吹き出し口から「完璧な温度と湿度」に調整された風が溢れ出した。
さっきまでの凍えるような冷気が一瞬で払拭され、船室内は春の陽だまりのような暖かさと、森の深部のような瑞々しさに満たされた。
「ウニュ……!」
クロは満足げに、吹き出し口の真下の特等席に陣取ると、うっとりと目を細めた。これこそが、王の求めていた「空の寝室」である。
だが、その『まどろみ・エアライン』の快適すぎる空気は、思わぬ客を引き寄せた。
船の周囲を、半透明の羽を持つ小さな影たちが囲み始めたのだ。
上空の気流を司る下級精霊――『雲のシルフ』たちである。
「……何、この空気。あったかい。美味しい……!」
「私たちの女王様に相応しいわ! この船を、私たちの新しい『風の宮殿』にしましょう!」
シルフたちは、無邪気でありながらも傲慢な意思を持って、船内に乱入しようとした。
彼女たちにとって、自分たちの好む「快適な風」がある場所は、すべて自分たちの領土である。
シルフたちが一斉に羽ばたき、船の魔導障壁を気流の刃で削り始めた。
「――そこまでだ、小妖精ども! ここは俺たちの主の寝所だぞ!」
レオンが漆黒の盾を構え、船室の入り口に立ちはだかった。
シルフたちは「うるさい鉄屑!」と笑いながら、強烈な突風を吹き付け、レオンを押し返そうとする。
「シャーーーッ!!」
クロが、エアコンの上から身を乗り出し、最大級の威嚇音を上げた。
同時に、船室内の空気が「固定」されたかのように静まり返る。
クロにとって、せっかく調整された「最高級の風」を、泥臭い外気と一緒に掻き乱そうとするこの羽虫どもは、お掃除ロボットで吸い込むべきゴミに等しかった。
「 外気を『清掃』……『魔導空調・広域展開』!」
フィオーレは、エアコンの吹き出し口を魔法的に拡張した。
船を包む障壁そのものを、巨大な「空気清浄機」へと変貌させたのだ。
「『塵埃除去』、そして……『魔力不純物・完全洗浄』!」
船から放たれたのは、暴力的なまでに純粋な「無風」の波動だった。
突風を操って攻めてきたシルフたちは、フィオーレの魔法に触れた瞬間、自分たちの力の源である「風の乱れ」を完璧に整えられ、魔力を奪われてふらふらと空中に静止してしまった。
「な、なにこれ……。風が動かない……。私たちの魔法が、消えていく……っ!」
シルフたちは、あまりの空気の「清潔さ」に酔い、戦意を喪失して雲の彼方へと流されていった。
殺すのではない。ただ、彼女たちの好む「荒ぶる風」を「静かなそよ風」へと洗浄してしまったのだ。
「……ウニュ」
クロは、静かになった船室内を見渡し、再び穏やかな表情に戻った。
「……やれやれ。これで空の上でも、誰にも邪魔されずに眠れるな」
レオンが盾を下ろし、ようやく温まった体を伸ばした。
ガラムは黄金のポットをエアコンの風で温め、リリアーネは「お肌にいい空気ね」と満足げに笑っている。
クロは、フィオーレの膝の上に飛び乗ると、完璧な室温の中で「クルル……」と幸せそうな声を漏らした。
彼らのコレクションには、今日、ついに「絶対零度を拒絶する春の風」が加わった。
浮遊する船は、さらに高みへと、のどかに進み続ける。
「うにゃう」
満足げな声が、雲海の上に響き渡った。




