第14話:迷いの森と、猫のバニラ(芳香)
火山を後にした一行が次に向かったのは、一年中深い霧に閉ざされているという『迷いの森』の入り口だった。
最高の水と最高のティーポットを手に入れたクロの目的は、その一杯に添える「最高の茶菓子」である。
「……ここが迷いの森か。一度入れば方向感覚を失い、二度と出られないと聞くが」
レオンが漆黒の盾を構え、警戒を強める。重装騎士の装備は、湿り気を帯びた霧の中で鈍く光っていた。
一方で、フィオーレは迷うことなく足を踏み出す。彼女の指先には、クロのストレージから出された『方位磁石』が浮かんでいた。
「大丈夫です、レオンさん。これがあれば、北は常に一定です」
「……うにゃ?」
クロがフィオーレの肩の上で鼻をひくつかせた。
霧の奥から漂ってくるのは、瑞々しい果実の香りと、どこか懐かしい「甘い焼き菓子」の匂いだった。
森の最深部。そこには、生きた大樹のうろを利用した、隠れ家のような工房があった。
木製の扉を開けると、中では一人のエルフが頭を抱えていた。
「だめ……足りないわ。この甘みには、もっと『心に響く香り』が必要なのよ……!」
エルフのパティシエ――リリアーネは、幻の果実を使ったムースを前に絶望していた。エルフ特有の鋭敏な嗅覚を持つ彼女にとって、今のお菓子は「完璧」ではなかった。
「あの、すみません。クロちゃんがお菓子を求めてここに来たのですが……」
フィオーレが声をかけると、リリアーネは鋭い耳をピクリと動かし、飛び上がるように振り向いた。
「人間!? 迷いの森にどうやって……って、その汚い靴で私の工房に――」
「シャーーーッ!!」
クロが牙を剥き、リリアーネを威嚇した。
瞬間、工房内の甘い香りが一変し、凍り付くような緊張感が走る。
クロにとって、このエルフの「未完成な妥協」と「不潔呼ばわり」は、これからのティータイムを台無しにする不敬であった。
クロは不機嫌そうに尻尾を振り、影の中から一つの「小さな茶色の遮光瓶」を取り出して、テーブルに叩きつけた。
「……なによ、この小さな小瓶は。毒でも持ってきたつもり?」
リリアーネが訝しげに瓶の蓋を開けた。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「……っ!? な、何、この……濃厚で、深くて、甘美な香りは……! 花でも果実でもない、これは……『香りの宝石』だわ!!」
それは、現代世界の英知が生んだ究極の芳香剤――『マダガスカル産天然バニラエッセンス(高濃度)』だった。
「ウニュ」
クロは満足げに、一度だけ短く鳴いた。
リリアーネは震える手で、その液体を一滴だけムースに加えた。
クロの器に手を突っ込みクルクル回す仕草で、フィオーレが察した。
「はい、クロちゃん。……『超振動攪拌』、そして『温度固定』」
フィオーレの不可視の腕が、リリアーネのボウルの中で残像が見えるほどの速度で動き出す。
バニラの香りがエルフの秘伝のクリームと溶け合い、工房全体が魔法にかけられたような至福の芳香で満たされていく。
「あれで伝わるのか......」
レオンの静かな突っ込みが入る。
数分後。
完成したのは、伝説の果実とバニラが融合した『天上のムースケーキ』だった。
森の木漏れ日の下、火山で手に入れた黄金のティーセットと、聖水の紅茶。そしてこのケーキが並ぶ。
「クルル……。ウニュ……♪」
クロは、フィオーレが小さく切り分けたムースを、一口。
バニラの香りが鼻を抜け、果実の酸味が追いかけてくる。
王は、至福のあまり目を閉じ、幸せそうに喉を鳴らした。
「……負けたわ。こんな香りがこの世にあったなんて。……ねえ、あなた。その猫様と、その小瓶……私に、もっと教えてくれない?」
リリアーネは、かつてのプライドをどこかへ放り投げ、クロの前にひざまずいた。
「……ああ、また一人増えたな」
レオンが、ケーキのあまりの旨さに頬を緩ませながら、ドワーフのガラムと顔を見合わせた。
ガラムは黄金のポットを磨きながら、「猫様は最高のお方じゃ」と頷いている。
クロは、リリアーネが差し出した次の一切れを一口食べると、満足げに「うにゃう」と鳴いた。
迷いの森を抜ける一行の荷物には、最高級の保存食(お菓子)と、新たな職人が加わっていた。




