第12話:伝説の泉と、猫の給水所
騎士団を音響兵器(防犯ブザー)で撃退した翌朝。宿屋の朝食時、クロは不機嫌そうに尻尾をパタつかせていた。
目の前には、宿が用意した最高級の湧き水。だがクロは一口だけ舐めると、「うにゃ……」と露骨に落胆した声を漏らし、そのまま顔を背けてしまった。
もちろん、その不満は言葉にはならない。しかし、クロは窓から身を乗り出し、はるか遠くに見える「霧に包まれた聖山」を前足で指し示した。
「……あそこに行きたいの、クロちゃん? あの山には、たしか伝説の『浄化の泉』があるって聞いたことがあるけれど」
フィオーレが地図を広げると、クロは「クルル……」と肯定するように喉を鳴らした。
「……また遠出か。あそこは強力な水属性の魔獣が支配する領域だぞ」
レオンが漆黒の盾を磨きながら苦笑する。だが、王が「水がまずい」と仰っているのだ。執事役(?)の彼らに拒否権はなかった。
数時間の行軍を経て、一行は聖山の中腹、美しい蒼色を湛えた泉のほとりに辿り着いた。
だが、そこには先客がいた。
「おい、もっと右に展開しろ! 火力が足りないぞ!」
「無理だよ、兄貴! この『アクア・サーペント』、再生速度が異常だ!」
激しい戦闘の音。
そこにいたのは、フィオーレがまだ駆け出しの頃に所属していたパーティー『鉄の鼠』の面々だった。
「……あっ、フィオーレじゃないか?」
魔獣と戦っていた一人が、こちらに気づいて声を上げた。
リーダーの男は、フィオーレの姿を見るなり、蔑むような笑いを浮かべた。
「なんだ、洗濯女のフィオーレか! 生きてたのかよ。……おい、ちょうどいい。お前の『洗浄』魔法で、このヘドロ野郎の粘液を洗い流せ! 役に立たねえお前を置いていってやった恩を返させてやるよ!」
彼らは、フィオーレが今や『旅団』の生還者であり、規格外の魔導師になっていることを知らない。彼らにとって彼女は、いつまでも「雑用しかできない無属性」のままだった。
「シャーーーッ!!」
クロがフィオーレの肩の上で、最大級の威嚇音を上げた。
同時に、泉全体が震えるほどの魔圧が放たれる。
クロにとって、自分の「最高の技術者」を洗濯女呼ばわりした輩は、ストレージに放り込む価値さえない不燃ゴミだった。
「レオンさん、お願いします。クロちゃんが喉を乾かしていますから」
「了解だ。……おい、鼠ども。邪魔だ、そこをどけ」
レオンが一歩前に出る。
『鉄の鼠』が手も足も出なかった巨大なアクア・サーペントが、咆哮を上げてレオンに襲いかかる。
だが、レオンは漆黒の盾を一振りしただけで、魔獣の放った高圧の水弾を霧散させ、ウォーハンマーの一撃でその姿勢を崩した。
「な、なんだあの重装騎士は……!? それにフィオーレ、お前その魔力は――」
「『精密分解』、および『魔素濾過』。……クロちゃん、お待たせしました」
フィオーレは、かつての仲間の驚愕など一切視界に入れず、泉の水を『魔手』で宙に浮かせた。
彼女の精密操作が、泉の魔力から雑味だけを瞬時に分離し、純度一〇〇パーセントの聖水へと変えていく。
そこに、クロが影から取り出した「ある物」を差し出した。
それは、現代世界の英知が生んだ、真空断熱構造の『ステンレス製魔法瓶(一リットル・シルバー)』だった。
「……ウニュ」
クロは満足げに、フィオーレがボトルの口から注ぎ込む聖水を見つめる。
カチャリ、と冷たい音を立てて蓋が閉められる。
「お、おい! その香炉みたいなボトルはなんだ!? それにその水、まさか一瞬で浄化したのか!?」
『鉄の鼠』のリーダーが、這いつくばりながら叫ぶ。
フィオーレは一度だけ彼を振り返り、穏やかに、だが冷徹に告げた。
「……以前はありがとうございました。でも、私はもう、皆さんの洗濯物をお手伝いすることはできません。私には、もっと大切な『仕事』がありますから」
彼女は、魔法瓶を大切そうに鞄へと仕舞い込んだ。
一行は、茫然自失となった『鉄の鼠』を置き去りにして、優雅に下山を始める。
クロはフィオーレの腕の中で、キンキンに冷えた聖水を一口もらい、「クルル……♪」と至福の声を漏らした。
背後では、アクア・サーペントがレオンの威圧に怯え、岩陰に隠れて震えていた。
かつての因縁も、伝説の魔獣も、この猫にとっては「最高の一杯」を演出するためのスパイスに過ぎない。
フィオーレは、クロの満足げな顔を見て、レオンと顔を見合わせて微笑んだ。
「次は、このお水に合う『茶葉』を探しに行かないとね、クロちゃん」
「クルル」




