第11話:包囲網と、猫の防犯ベル(大音量)
宿屋の朝は、本来なら焼きたてのパンの香りと共に穏やかに始まるはずだった。
フィオーレは、テーブルの上に並べられた精密ドライバーセットを、うっとりとした表情で見つめていた。クロの影から取り出されたその道具たちは、この世界の無骨な工具とは一線を画す、機能美の極致とも言える輝きを放っている。
「クルル……」
クロは、フィオーレの隣で満足げに喉を鳴らしていた。
昨日地下道で回収したマルチツールの刃を、前足で器用に「出し入れ」して遊んでいる。カチャリ、カチャリという小気味よい金属音。それは、病的な収集家であるクロにとって、何物にも代えがたい安らぎのメロディだった。
「ウニュ?」
不意に、クロが耳をピクリと動かし、窓の外へ視線を向けた。
同時に、階下から騒がしい怒鳴り声と、鎧の触れ合う不穏な金属音が響き渡った。
「……フィオーレ、来たぞ。昨日の連中だ」
レオンが、漆黒の盾を手に取り、部屋の入り口に立った。彼の表情は険しい。
窓の外を見下ろせば、宿屋はすでに数十人の重装歩兵によって包囲されていた。掲げられているのは、迷宮都市の治安維持を司る『黄金騎士団』の紋章旗だ。
部屋の扉が乱暴にノック――というよりは、蹴りつけられた。
入ってきたのは、昨日よりもさらに豪華な装飾鎧に身を包んだ、恰幅の良い男だった。騎士団の副団長、バズ卿。彼は欲望を隠そうともしない卑俗な笑みを浮かべ、レオンの盾とフィオーレを交互に見た。
「再度の通告だ。その『アダマンタイト加工技術』は都市の財産である。供出を拒むというのなら、公務執行妨害、および違法建築(迷宮遺物)の隠匿罪で収監せざるを得ん」
バズは、背後に控える魔導師たちに合図を送る。
彼らが手に持つ杖から、拘束魔法の術式が編み上げられ始めた。
「レオン殿、抵抗は無意味だ。その盾を渡し、嬢ちゃんをこちらへ渡せば、悪いようには――」
「シャーーーッ!!」
クロがテーブルの上で立ち上がり、背中の毛を逆立てて威嚇した。
部屋を支配する圧倒的な威圧感。バズは心臓を掴まれたかのように硬直した。
「ウニュウ、ウニュ……!」
クロはひどく不機嫌そうに尻尾でテーブルを叩いた。
彼にとって、貴重な「検品作業」と「二度寝の予定」を台無しにするこの男たちは、排除すべき汚物に等しい。
クロは影の中に手を突っ込むと、一つの「卵型のプラスチック製の物体」を取り出し、フィオーレの足元へ転がした。
「クロちゃん……これ、使うの?」
フィオーレがそれを拾い上げる。
現代世界で子供たちがランドセルに付ける、超高音の『防犯ブザー』だった。
フィオーレはクロの意図を察した。
彼女は『魔手』を使い、ブザーの内部構造を一瞬で把握する。
そして、ピンを引き抜くと同時に、自らの魔力で「音波」を増幅・指向性を持たせる術式を上書きした。
「『精密分解・共鳴増幅』。……レオンさん、耳を塞いで!」
「了解だ!」
レオンが盾を地面に叩きつけ、その背後にフィオーレを隠した。
次の瞬間。
――ピィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!
鼓膜を直接ナイフで削るような、超高周波の絶叫が室内に炸裂した。
それは単なる音ではない。フィオーレが『精密操作』によって、騎士たちの纏う金属鎧の固有振動数に合わせて変調させた「共鳴攻撃」だった。
「ぐわあああぁぁぁぁっ!?」
「耳が、耳が割れる――ッ!」
バズをはじめとする騎士たちは、悲鳴を上げて床にのたうち回った。
重厚な金属鎧こそが、今や音を増幅させる「反響室」となり、彼らの脳を内側から揺さぶっている。
宿の外を囲んでいた兵士たちも、盾を投げ捨て、頭を抱えて崩れ落ちた。
「ウニョ……」
クロはレオンの盾の裏側で、不満げに耳を伏せていた。
自分の出した道具とはいえ、やはりこの音は猫の耳には優しくないらしい。
数分後。
ブザーの音が止まった時、そこには戦闘能力を完全に失った騎士団の無残な姿だけが残されていた。
フィオーレは静かにブザーのピンを戻し、倒れているバズを見下ろした。
「……クロちゃんは、お昼寝を邪魔されるのが嫌いなんです。次からは、正規の依頼としてギルドを通してくださいね」
バズは真っ青な顔で、返事もできずに部下たちに抱えられ、這々の体で逃げ出していった。
国家の権力も、最高峰の鎧も、一匹の猫が持つ「おもちゃ」の前に完膚なきまでに敗北したのだ。
「……やれやれ。これでしばらくは静かになるか?」
レオンが盾を担ぎ直した。
クロは、既に興味を失ったようにテーブルへ戻り、精密ドライバーのセットを丁寧に自分の影へと仕舞い込んでいた。
「クルル……」
満足げな鼻鳴らし。
クロはフィオーレの膝に飛び乗ると、そのまま丸くなって目を閉じた。
彼らにとって、騎士団との衝突も、国家との軋轢も、すべては「のどかな日常」を彩るスパイスに過ぎない。
フィオーレは、そんなクロの背中を優しく撫で、レオンと顔を見合わせて微笑んだ。
「おやすみなさい、クロちゃん」
窓の外では、騒ぎを聞きつけたギルドの職員たちが右往左往していた。




