第八話:佐和山の猛将と、父の「影」
西暦1559年(永禄二年)・二月
祝言から三日。観音寺城下の浅井屋敷には、早朝から慌ただしい馬の嘶きと、荷を運ぶ足音が響いていた。
浅井新九郎賢政にとって、人質としての生活に一旦の区切りをつけ、本拠・北近江の小谷城へと帰還する日が来たのである。
賢政は、「三つ盛亀甲に唐花菱」の紋が輝く鮮やかな青地の直垂で身を包んでいた。五尺七寸(約173センチ)の体躯は、馬上にまたがるとその高さが一層際立ち、見送りに集まった六角の将兵たちを無言で圧する。
見送りの列の中には、六角左京大夫義賢と、現六角家当主、六角右衛門督義治、更には梢の実父平井加賀守定武の姿もあった。
「新九郎、良き婚儀であった。北近江に戻っても、加賀守の、そして我が娘を大事にせよ。六角への忠節、ゆめゆめ忘れるな」
義賢の言葉は儀礼的であったが、その眼差しには、依然として賢政の器量を警戒する色が混じっていた。一方の義治は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、さっさと行くが良い。小谷の泥にまみれて、少しは身の程を知ることだな」
定武は、柔らかな笑みを見せ、梢と歓談していたが、やがて賢政の姿を見ると、深々と挨拶をしその場を離れた。
賢政は無言で深く一礼し、手綱を引き絞った。
「出立せよ!」
観音寺城を出立した一行の足取りは、至極穏やかなものであった。
新九郎賢政の母・小野殿、そして正室の梢という二人の女人を乗せた籠が列に加わっているためである。冷たい早春の風を避けるため、籠の周りには厚手の垂れ幕が下ろされ、担ぎ手たちは一歩一歩、揺れを抑えるように慎重に歩を進めた。
新九郎は身体を馬上に揺らしながら、時折、母と妻の籠を振り返っては、その無事を確かめていた。
(観音寺の華やかさは、最早遠い。ここから先は、戦いと土の匂いがする北近江だ。母上にとっては懐かしき故郷、梢にとっては未知の異郷……。二人の安らぎを守るためにも、私はこの地を盤石にせねばならぬ)
一行が北上を続け、琵琶湖の東岸が狭まり、山が湖へと迫る要衝に至った時、前方に堅固な山城が姿を現した。
佐和山城。
北近江の南端に位置し、六角家に対する最前線の盾となる、浅井領の「南の門」である。
城門の前では、一人の偉丈夫が待ち構えていた。
浅井四翼の一人と謳われ、家中きっての猛将として名高い、磯野丹波守員昌である。
「新九郎様! お帰りを、首を長くしてお待ちしておりましたぞ!」
員昌の声は、山々に響き渡るほどに豪放であった。彼は赤尾美作守や遠藤喜右衛門といった宿老・守役より席次は下位にあるが、その武功と忠義を疑う者は家中には一人もいない。
逞しい顎鬚を蓄え、岩のようにがっしりとした身体つきをしていながら、その双眸には野性味と共に、戦場を冷静に見極めるような鋭い知性が宿っている。
「丹波守、出迎え大儀。久方ぶりの佐和山、いささか身が引き締まる思いだ」
「ははっ! 何分、ここは浅井の喉元にございますゆえ。……ささ、新九郎様、御方様、そして梢様。粗末な城ではございますが、精一杯の準備をいたさせました。今宵は旅の疲れもありましょう。美作守様も、喜右衛門様もゆるりとなさってくだされ」
城内で行われた宴は、観音寺城での贅を尽くしたそれとは対照的なものであった。
運ばれてきたのは、琵琶湖で獲れた新鮮な魚の塩焼き、山の幸をふんだんに使った汁物、そして力強い味わいの地酒である。
「いやはや、六角の都のような馳走は出せませぬが、味だけは保証いたしますぞ!」
員昌は豪快に笑いながら、自ら酌をして回る。その振る舞いは「豪放磊落」そのものであったが、女人である小野殿や梢の膳には、食べやすいよう小さく切り分けられた肴が並んでおり、この猛将の「繊細」な一面を覗かせていた。
宴も中盤に差し掛かった頃、員昌はふとした隙に、隣り合う新九郎の耳元へ顔を寄せた。
その直前、彼はちらりと梢の方へ目を向けた。彼女が侍女と談笑し、こちらを見ていないことを確認してから、声を極限まで潜める。
「新九郎様。……一つ、公にはできぬ吉報がございます」
新九郎は、員昌のその慎重さに微かに苦笑した。あれほど豪快な男が、新妻である梢に不安を与えぬよう、浅井の機密を他者の耳に入れぬよう、これほど気を遣っている。その配慮が、新九郎には好ましく感じられた。
「申してみよ、丹波」
「はっ。佐和山からほど近い六角領、愛知郡肥田城にございます。城主・高野備前守賢信殿への調略……これが、実に見事な手応えにございます」
新九郎の瞳が、僅かに細まった。
肥田城は、六角領に深く食い込む楔となる場所である。
「父上の手配か?」
「左様にございます。殿は、表立って軍を動かすことこそ控えておられますが、水面下での糸の引き方は、正に神速。高野殿は現在、六角の過酷な賦役に不満を募らせております。あと一押し、浅井からの『確かな保証』があれば、城ごと寝返る準備があるとのこと」
員昌の囁きは、確かな「戦の予感」を孕んでいた。
「……父上は、私が人質となっている間も、ただ手をこまねいていたわけではないのだな。土塁を築き、水を引き、そして敵の足元を密かに崩す。それが父上の戦い方か」
(私が六角で学問を修めている間、父上はこの北近江の地で、来るべき独立のための『毒』と『薬』を調合していたのだ。……あと一押し、か。その役割、私に回ってくるかもしれぬな)
「分かった。その件、心に留めておこう。丹波、貴殿の働きにも感謝する」
新九郎が頷くと、員昌は満足げに再び大声を上げて笑い、長柄銚子を手にとった。
「さあさあ! 梢様、この酒は伊吹山の湧き水で作られた名品にございます。ぜひ一口!」
梢は、武骨な員昌の優しさに触れ、少しずつ北近江という土地への緊張を解いていくようであった。
佐和山城の夜は、激動を予感させる静かな熱気を孕んだまま、更けていった。




