第七話:祝言の火花、黒き直垂の誓い
西暦1559年(永禄二年)・春
近江の春は、まだ冷たき風を孕んでいる。観音寺城下の浅井屋敷は、無数の提灯に照らされ、幻惑的な光の中に沈んでいた。今宵、浅井新九郎賢政と、六角家重臣・平井加賀守定武の娘、梢の婚儀が執り行われる。
新九郎は、漆黒の絹地が重厚な光沢を放つ直垂に身を包み、端然と座していた。その背中と両胸には、浅井家の象徴である「三つ盛亀甲に唐花菱」の紋が、鮮やかな刺繍で刻まれている。亀甲の力強さと唐花の雅さが調和したその紋は、黒地に映え、彼の持つ峻烈な意志を象徴しているようであり、引き締まった筋肉が直垂の布地を内側から押し広げている。知的な光をたたえる眼光は、今は伏せられ、静かに時を待っていた。
やがて、しずしずと新婦が姿を現した。
六角左京大夫義賢の養女として入室した梢である。彼女の顔立ちは、京の貴族が好むような細い瓜実顔ではなく、どこか幼さを残した丸みを帯びたものであった。その姿は、温室に咲く豪華な牡丹というよりは、冷たい風に耐えて凛と咲く野菊のような、素朴で可憐な愛らしさを湛えている。しかし、その瞳の奥には、周囲を包み込むような深い慈しみと、一本の芯が通った優しさが宿っていた。
(美しい……。野に咲く花のような清冽さがある。この者を、六角との政争の道具に終わらせてはならぬ)
祝宴が始まり、座が華やぎを見せる中、上座に座す六角右衛門督義治が、不敵な笑みを浮かべながら運ばれてきた祝儀の品々を記した目録を眺め始めた。
「ほう。これはこれは。新九郎、此度の『祝いいれ(いひいれ)』の品々、誠に見事なものだが……どれも見覚えのある名ばかりよな」
義治はわざとらしく声を張り上げ、居並ぶ宿老や浅井の家臣たちに聞こえるように言った。
「蝦夷地の昆布に、伊勢志摩の鰹節……。新九郎、北近江の地は、自領では祝言の品一つ満足に揃えられぬほど、貧しき土地であるということか? 他国の商人に頭を下げてかき集めた品で、我が六角の姫を迎えようとは、いささか心許ないのう」
義治の言葉には、浅井家を六角の「属領」として見下す悪意が満ちていた。遠藤喜右衛門直経が膝の上で拳を握りしめ、赤尾美作守清綱が表情を強張らせる。さしもの六角家重臣連でさえ、目を背ける者までいた。
新九郎は、好戦的な光を湛えそうになる眼光を伏せ、静かに答えた。
「右衛門督様、御慧眼に恐れ入り奉ります。北近江は今、父・左兵衛尉(久政)が必死に開墾を進めておる最中。ひたすらに貧しゅう御座いますれば、各地との交易に頼らねばならぬのが現状にございます。ですが、その交易路こそが浅井の生命線。いずれは、その流れをより太きものにし、江北に富をもたらしたいと考えております」
(……今は耐えるのだ。この男に何を言われようと、私の志が揺らぐことはない。この品々を笑うがいい。その流れを握る者が、次に何を握るか、貴殿には分かるまい)
そこへ、祝宴の膳として近江名物の鮒寿司が運ばれてきた。
独特の強い香りが広間に漂う。義治は露骨に顔を顰め、扇子で鼻を覆った。
「……何だ、この腐ったような臭いは。これだから北近江の田舎侍の饗応は困る。新九郎、貴殿はこのようなものを平気で口にするのか。余の口には、到底合わぬ。下げよ、見るのも不快だ」
義治の露骨な侮蔑に、場が凍りつく。浅井の家臣たちは屈辱に震えた。
その時、梢が静かに箸を取った。
彼女は柔らかな微笑みを絶やさず、一切れの鮒寿司を口に運んだ。そして、しっかりと咀嚼し、新九郎を見つめた。
「まあ……。新九郎様、この鮒寿司、なんと芳醇で深い味わいなのでしょう。湖の恵みが長い時を経て凝縮されているようで、私は大変気に入りましたわ。北近江の豊かな実りと、人々の知恵を感じます」
梢の言葉は、義治の無礼を優しく、しかし鮮やかに打ち消した。新九郎は梢の機転と、自分とその故郷を庇おうとするその優しさに、深い感謝を覚えた。
(梢……。お前という人は。俺のために、あえて右衛門督殿に異を唱えてくれたのか。その心根、生涯忘れはせぬ)
しかし、面目を潰されたと感じた義治は、苛立ちを剥き出しにした。彼は手元の盃を乱暴に畳に置くと、なみなみと酒を注ぎ、新九郎に突きつけた。
「ふん、女に庇われるとは、情けない男よな、新九郎! 鮒寿司が好物だと言うなら、酒も相当に飲めるのであろう? ほら、余の注ぐ酒を飲み干せ! 浅井の忠義、酒の量で示してみせよ!」
「右衛門督。それまでにせよ。新九郎も元服したばかり、過分な酒は無作法というものだ」
隣で沈黙を守っていた六角左京大夫義賢が、静かだが重みのある声で制した。しかし、義治は父を振り返り、不遜な笑みを浮かべて反論した。
「父上、何を仰いますか。今日から新九郎は梢の夫、即ち私とは義理の兄弟にございます。兄弟の間で酒を酌み交わすのに、遠慮など無用。さあ新九郎、飲め!」
義賢は、息子・義治のその横顔を冷ややかに見つめていた。
(……義治よ。主は弓の腕こそ並ぶ者なしと言われるが、人の心を掴む術を全く知らぬ。浅井の嫡子を公衆の面前で辱めて、何を得るというのだ。この男……新九郎賢政の瞳に宿る静かなる焔が見えぬのか。このような振る舞いを続けていれば、いずれ六角の屋台骨を揺るがすことになろう)
義賢は、息子への期待が失望へと変わり、将来への深い不安が胸を掠めるのを感じていた。
「……ありがたく、頂戴いたします」
新九郎は、鋼のような腕を伸ばし、迷いなくその大盃を掴んだ。
黒地の直垂に刻まれた「三つ盛亀甲に唐花菱」が、激しく動く胸板の上で躍動する。
(……飲む。この一杯は、忍従の酒。だが、次に貴殿と酒を酌み交わす時、立場は入れ替わっているだろう。この新九郎賢政、六角の影を脱ぎ捨て、江北の空を翔けてみせる)
新九郎は一気に酒を煽った。喉を焼く酒の熱さは、そのまま彼の腹の底で野心の火となった。
梢は隣で、不安げに、しかし誇らしげな瞳で夫を見守っていた。




