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第六話:祝言前夜、江北の風

西暦1559年(永禄二年)・二月


元服の儀から二日。観音寺城下の浅井屋敷は、明日に控えた祝言の準備で慌ただしい空気に包まれていた。


浅井新九郎賢政となった青年は、屋敷の一室で、北近江から参上した二人の重臣と対峙していた。


一人は、浅井家代々の家老であり、浅井の要たる赤尾美作守清綱。

もう一人は、賢政の幼少期から武芸と軍略を叩き込んできた守役、遠藤喜右衛門直経である。


二人は祝言の品として、北近江の特産である鮒寿司。各地から仕入れた鰹節や昆布、そして厳選された布類を納める「祝い入れ(いひいれ)」の儀を無事に終えたばかりであった。


賢政は、上座に座しながらも、二人の家臣に対しては親愛の情を隠さなかった。

彼の体躯は、元服したばかりの若者としては十分に立派だが、祖父・備前守(亮政)の血か、あるいは日々繰り返される修練の成果か、その骨組みは太く、筋肉はしなやかで、未だ成長の余地を大いに感じさせた。


「美作守、喜右衛門。遠路、大儀であった。小谷の様子はどうだ」


賢政の声は、元服を経てより低く、落ち着きを増していた。


「ははっ。左兵衛尉様は、新九郎様の晴れ姿を直接見られぬことを口惜しがっておられましたが、小谷城の普請は一段と熱を帯びております。特に、清水谷から本丸へ至る大土塁の強化には、自ら足を運んで指図しておられます」


赤尾美作守が丁寧に応じる。


「父上らしいな。あの方は、浅井が江北三郡の旗頭として真に自立するためには、まず『揺るがぬ根城』が必要だと考えておられる。私も、その治績には深く感じ入るものがある」


(父上の執念は、単なる防御ではない。あの土塁の高さは、北近江の国衆たちが二度と浅井を軽んじぬための、無言の威圧なのだ)


「新九郎様」


それまで沈黙を守っていた遠藤喜右衛門が、鋭い眼光で主君を見つめた。


「殿は、内政に心血を注いでおられます。高時川の水利調整の介入により、今や井口家などの国衆たちも、浅井の差配がなければ田に水が引けぬと、その実力を認めつつあります。……ですが、我ら武門の者が望むのは、その力をいかに外へ示すかにございます」


賢政は静かに手を挙げ、喜右衛門の言葉を制した。襖の向こう側には六角家の監視の目が潜んでいることを、彼は肌で感じていた。


「喜右衛門。今、我らは六角家との固き絆を得た。明日、加賀守殿の娘、梢殿を娶ることは、江北の民にとっても平和の礎となろう。……そうであろう?」


喜右衛門は、賢政の意図を察した。


(新九郎様は、あえて『絆』という言葉を使われた。監視への配慮か。……だが、その瞳に宿る光は、決して服属のそれではない)


「左様でございます。……それゆえ、新九郎様。以前から観音寺の街をそれは熱心に、先日には坂本の街まで足を向け、ご覧になられたと伺いましたが、江北を潤すための何か、良き策は見つかりましたかな」


美作守が話題を変えた。賢政は、それよと言わんばかりに、自らの構想を語り始めた。


「美作守。私は、六角定頼公がこの城下で成し遂げた『楽市』に、浅井の未来を見た。商人に自由を許し、座のしがらみを断てば、銭は水のように流れ、街は脈動する。……私は、これを塩津浜で行いたいのだ」


「塩津に、ございますか」


「ああ。北国街道からは少し分け入るが、水運を使う事が多い北陸からの物資は、必ず塩津を通って淡海へと入る。そこを単なる積み替えの場ではなく、あらゆる商人が自由に集う楽市とするのだ。また、南の今浜。今はまだ寂れた地だが、あそこは水運の要衝。今浜を拓き、塩津と結べば、江北は独自の富を得るだろう」


美作守は、賢政の具体的な地名と経済的な視点に驚きを隠せなかった。


「……楽市。それは、国衆たちの利権(座)とぶつかることになりますな。左兵衛尉様が進めておられる水利の差配と同様、主君の強い意志が試される道にございます」


「分かっている。父上が水の流れを制御し、領民の食を支えたように、私は銭の流れを制御し、浅井の『力』とするのだ。……美作守、喜右衛門。明日の祝言が終わり、私が小谷へ戻った暁には、まずはこの楽市の構想を父上へ奏上したい。その時は、貴殿らの力が必要だ」


賢政は、二人の重臣の目を見据えた。

五尺七寸の若き主君から放たれる気圧は、もはや人質のそれではない。


「……承知いたしました。我ら赤尾、遠藤。新九郎様の翼が江北の空を舞う日を、心待ちにしておりました」


喜右衛門が深く平伏した。美作守もそれに続く。


(梢……。明日の祝言は、形式上は六角の臣下としての儀礼だ。だが、私はこの祝言を持って、お前という最良の伴侶を得、浅井の地を真に豊かにするための第一歩を踏み出す。……六角の監視の目が、いつか賞賛に変わるか、あるいは恐怖に変わるか。それは己の、新九郎賢政の腕一つにかかっている)


賢政は、組んだ腕にグッと力を込めた。未だ成長途上の身体ながら、その内側に秘められた闘志は、すでに巨大なものとなっていた。

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