第五話:新九郎賢政、誕生
西暦1559年(永禄二年)・二月
観音寺城の大広間は、張り詰めた緊張感と、焚かれた香の芳香に包まれていた。
北近江の嫡子・猿夜叉の元服の儀。それは単なる成人の儀礼ではなく、浅井家が六角家の「臣下」であることを天下に示す政治的な舞台でもあった。
上座には、六角家当主・六角右衛門督義治と、父である六角左京大夫義賢が並んで座す。左右には六宿老が居並び、その鋭い視線が広間の中央に注がれている。
そこに、一人の若者が静かに入場した。
猿夜叉である。
その体躯は、居並ぶ宿老たちを圧倒していた。身長五尺七寸(約173センチ)の巨躯は、成人の装束である直垂を纏うことで、より一層の重厚感を放っている。引き締まり鋼のような筋肉を包むその身体からは、若武者特有の荒々しさと、同時に老練な将のような落ち着きが同居していた。
(……いよいよ、この時が来たか。今日を境に、俺は『猿夜叉』という幼名を捨て、六角の鎖を名に刻むことになる)
猿夜叉は力強い眉をわずかに動かし、深く頭を垂れた。
加冠役(烏帽子親)を務めるのは、六角家宿老・平井加賀守定武である。定武は、後に猿夜叉の義父となる男であり、この元服は婚姻による両家の結びつきを公にする儀式でもあった。
「猿夜叉殿、前へ」
定武の声が響く。
猿夜叉が静かに進み出ると、広間の空気が一段と重くなった。
まず行われたのは、髪を整え、童体から成人へと姿を変える「理髪」の儀である。髪が切り落とされ、結い直される。その最中、猿夜叉は組んだ腕に力を込め、自らの指先が掌に食い込むのを感じていた。
(この髪と共に、浅井の誇りまで切り捨てたと思うなよ、六角の面々。これは忍従の証ではない。いつか来る飛翔のための、偽りの羽だ)
次に、烏帽子親の平井定武が、猿夜叉の頭に重厚な烏帽子を載せた。
「これより、貴殿を成人として認める。名は、左京大夫様より一字を賜り、浅井新九郎賢政と名乗るが良い」
「……浅井新九郎賢政。身に余る光栄にございます」
猿夜叉――新九郎賢政は、平伏しながらその名を噛み締めた。「賢」の一字。それは六角義賢への忠誠を誓わされた証であった。
上座から、右衛門督義治が皮肉な笑みを浮かべて声をかける。
「新九郎、似合っておるぞ。加賀守の娘、梢を娶ることも決まっておる。これからは平井の婿として、そして我が六角の忠実なる楯として、せいぜい励むが良い」
義治の言葉には、当主としての威厳よりも、自分よりも優れた体躯と器量を持つ若者への嫉妬が滲んでいた。
「……ははっ。右衛門督様のお言葉、肝に銘じます。この新九郎、六角家の御為、そして江北の安寧の為に粉骨砕身いたす所存にございます」
賢政の声は低く、どこまでも謙虚であった。しかし、その伏せられた瞳の奥にある知的な光は、決して消えてはいなかった。
その様子を、左京大夫義賢は無言で見つめていた。
(やはり、只者ではない。この屈辱の場にあって、これほど完璧に己を抑え込むとは。……もしこの男を繋ぎ止める鎖が、平井の娘一人で足りぬとすれば、それは六角にとって最大の脅威となろう)
儀式は進み、次いで婚姻の誓いが行われた。
別室に控えていた平井加賀守の娘、梢が姿を現した。彼女は六角義賢の養女として、賢政の正室となる。
二人は一瞬、視線を交わした。
賢政の脳裏には、数日前に坂本で出会った小柄な学僧、寂蓮坊叡海の言葉が蘇った。
『貴殿のその大きな腕が、いつかこの近江を、あるべき姿へ導くことを――』
(そうだ。俺が守るべきは、六角の面目ではない。この近江の地、そして浅井の誇りだ。梢、済まぬ。お前を娶ることは本望だが、俺はいつかお前の実家である六角に刃を向けることになるかもしれぬ)
賢政は、鋼のような筋肉を震わせ、自らの心に誓った。
浅井家の家督を継ぐ父・浅井左兵衛尉久政は、現在も小谷城で領国経営に奔走している。父が築きつつある農地と土塁の基盤に、自分が坂本や観音寺で見た商業の力を加えれば、浅井は必ずや天下に比肩する大名へと成長できる。
「新九郎様……」
梢が小さく、しかし確かな声で夫となった男の名を呼んだ。
賢政は微かに頷き、その名を正面から受け止め、微笑みを向けた。
(案ずるな、梢。私は、浅井の主として、そしてお前の夫として、この乱世を生き抜いてみせる。だが…)
それは、六角家の人々に向けた「忠誠」ではなく、自分自身への「宣戦布告」であった。ともすれば揺るぎそうになる自らへの鼓舞でもあった。
左京大夫義賢が、賢政に声をかける。
「新九郎…よき面構よ。三日後の吉日に、我が娘である梢との祝言とする。我が婿として頼もしき限りよ。盛大な祝言としようぞ」
「はっ…ありがたき幸せにございます。新九郎賢政、どこまでも六角家の御為に働きまする」
観音寺城の外では、春の気配を孕んだ風が吹き始めていた。




